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トコノウタヒ  作者: しゅう


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第17章 施薬院全宗

澄み渡った山桜のような響きは、一瞬にして砕け散った。

「ガシャリ……」

耳をつんざく不快な音が、私の意識を容赦なく現実へと引きずり戻す。

それは、鈴屋に吊るした十二の鈴のような清廉な余韻ではない。錆びついた鉄が、抵抗する生身の肉を削りながら、石畳の上を引きずられていく、呪わしい「鎖の音」だ。

「……っ!」

激しい眩暈とともに、私は目を開けた。

視界を埋め尽くしたのは、暴力的なまでの「金」の光だった。障壁画には極彩色の松が踊り、天井の隅々にまで金箔が厚く貼られている。だが、それは神代の光でも、朝日に匂う山桜の輝きでもない。権力という名の欲望が塗り込められた、重苦しく、毒々しい黄金の空間。

鼻を突くのは、高級な伽羅の香りに混じった、濃厚な潮の香りと、腐敗した獣の脂。そして何より、数多の人間が死の淵で放つ、湿り気を帯びた絶望の汗の異臭だ。


「全宗、どうした。茶が冷めるぞ」

鋭く、だがどこか人懐っこい、湿った粘り気のある声がした。

視線を向ければ、そこには派手な赤色の陣羽織を羽織り、爛々とした眼光を放つ小柄な男が、茶碗を手に座っていた。



豊臣秀吉——?。

まさか、この時代の太陽であり、同時にすべてを焼き尽くす破壊者の元に、私はきたのか?。



私は、無意識に自分の手を見た。

宣長の時の、筆を握り続けた節くれ立った老人の手ではない。清潔に整えられ、常に薬草の香りが染み付いた、現役の医師としての逞しさと柔軟さを持つ手。

それと同時に、濁流のごとき勢いで「施薬院全宗」としての記憶が、私の頭の中へと流れ込んだ。

私は、秀吉に仕える僧医。比叡山で得た知恵を、この男の体調管理と、それ以上に「天下」という巨大な病の治療に捧げている存在だ。

今の「私」にとって、この眼前の男こそが、絶対的な主であり、同時に制御せねばならぬ暴風雨であった。

「私」は速やかに行動しなければならない。

この時代の空気が、どこか致命的に歪んでいる。宣長が文字という「形」の中に神々を求めたのだとすれば、今の私は、この泥沼のような現実の「音」を調律せねばならないのだ。


「……失礼いたしました、上様。少々、風の音が耳に残っておりまして」

私は全宗として、静かに頭を下げた。心臓が早鐘を打っている。宣長が「過去」の音を掘り起こしたのに対し、今の私は「現在」という絶望の淵で、命の不協和音を聞き分け、それを治療せねばならない宿命にある。


天正十五年、九月。

九州平定は成り、島津を降した秀吉の軍勢は、ここ博多・箱崎を拠点に、勝利の美酒に酔いしれていた。

陣中には、昼夜を問わず勝利を祝う囃子が響き、大名たちは競うように南蛮から渡来した珍しい酒や、精緻な細工のガラス器を愛でている。

「全宗よ、見よ。この博多の湊を。いずれは世界中の宝がここに集まる。儂がこの国を、日ノ本を、黄金の国にしてやるのだ。バテレンの知恵も、イスパニアの富も、すべて儂の掌中で踊らせてみせるわ」

秀吉の言葉は力強い。一音一音が、民を惹きつけ、時代を飲み込む魔力を帯びている。

だが、その輝かしい旋律の裏側にある「ノイズ」を、私の耳は逃さなかった。


(聴こえるか……。この男の笑い声に掻き消され、誰も耳を貸そうとしない、名もなき民の呻きを)


医師としての鋭敏な感覚を研ぎ澄ませると、豪華な仮宮の壁を透過して、数町先の湊から響く「音」が流れ込んでくる。

秀吉が南蛮の文化を称賛し、宣教師たちの進言に目を細めるその影で、ポルトガルの巨大なガレオン船の底には、数え切れないほどの日本人たちが、物言わぬ荷物のように詰め込まれていた。

「ガシャリ、ガシャリ……」

鎖に繋がれたまま、暗い船底へ突き落とされる男女。

親を呼ぼうとして口を塞がれる子供。絶望のあまり、声にもならない祈りを捧げる老婆。

彼らはもはや「人間」ではない。火薬一樽、あるいは絹の一巻きと引き換えに売買される、代替可能な「商品」に成り下がっていた。


「上様。この九州の海、美しい輝きの下で、酷い淀みが渦巻いておりますな」

私は、冷めた茶を一気に飲み干し、器を畳に置いた。

「淀み? 全宗、貴様は何を言っておる。この勝利の凱歌が聞こえぬか? 四国、九州を制し、もはや儂を阻むものなどおらんのだぞ」

秀吉は不審そうに眉を寄せた。その瞳の奥には、自分に同調しない者への鋭い疑念が宿る。

「凱歌の合間に、異国の鎖の音が混じっております。それがこの国の『音』を汚している。医師として、日ノ本の主の健康を預かる者として、この大地の病根を見過ごすわけには参りません」

私の言葉に、秀吉はふんと鼻を鳴らした。だが、その瞳にはわずかに興味の色が混じった。


その夜。私は供を置かず、一介の僧侶の姿に身をやつし、単身で闇に紛れて箱崎の浜へと向かった。

篝火が揺れる湊の向こう、黒々とした海に浮かぶガレオン船は、まるで異界から来た巨大な怪物のようだった。

近づくにつれ、空気は冷え込み、代わりに腐敗臭と獣のような熱気が増していく。

「……ガラグワ……ハラパッ……」

船の上から、聞き取れない異国の罵声と怒号が降ってくる。

意味はわからない。だが、その「音」には、命を家畜としか思わぬ傲慢さと、冷酷な支配の響きが満ちていた。

そして、それ以上に恐ろしいのは、何も言わずにただ震えている日本の子供たちの沈黙だ。

私は物陰に身を潜め、その光景を克明に魂へと刻みつけた。

日本の男たちが、女たちが、牛馬のごとく鞭打たれ、狭く汚濁した船底へと消えていく。

宣長として、一音の狂いもない「正しい言葉」を探求した私にとって、これほど「正しくない光景」は存在しなかった。


(宣長、お前は言葉を救った。全宗、お前は……この『命』そのものを、闇から救い出せ)

胸の奥で、かつての「私」である者達の意識が共鳴する。

正彦の憤り、賢一の忍耐、琴葉の祈り、宣長の叡智。

すべては、この歴史の転換点において、同胞を地獄から引きずり戻すためにあったのではないか。


今の私には秀吉の耳を、ひいては歴史の音を書き換える「言葉」という名のメスがある。

「待っていろ……。もう、祈るだけで終わらせはしない」

私は懐の薬箱を、指が白くなるほど強く握りしめた。

読んでいただきありがとうございます。

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