第16章 本居栄貞
享和元年、九月。
松坂の町を包む空気は、秋の深まりとともにどこまでも澄み渡っていた。
私の肉体という器は、もはやその役割を終えようとしている。一息、一息と呼吸を重ねるたびに、肺の奥で鳴る微かな喘鳴が、砂時計の砂が最後の一粒まで落ちようとする音のように、静かに終わりを告げていた。
枕元には、光を失った息子・春庭と、長年連れ添った勝、そして私の教えを継がんとする多くの門人たちが集まっている。
私の衰えた眼には、もはや彼らの姿は判然としない。
だが、彼らが流す涙が床に落ちる音、悲しみを堪えて鼻をすする音、そして私を案ずる祈りの鼓動が、この部屋を纏っていた。
(ああ……これだ。私が一生をかけて、文字の奥に、古の書物の中に探し求めていたものは)
それは、千年前の紙の上にあるのではない。
今、この瞬間、私の周りで奏でられている、生きた人間たちの「心の震え」そのものだったのだ。
私は、震える指先を布団の上で動かした。
最後の一音。
自身の魂を、七十余年の歳月を、三十一音の和歌という「究極の旋律」に凝縮し、この宇宙へと解き放たねばならない。
私は、枯れ果てた声を、精一杯の清音で絞り出した。
しきしまの大和心を人問はば 朝日ににほふ山ざくら花
その歌が私の口から漏れた瞬間、視界を覆っていた死の闇が、一転して黄金色の光に包まれた。
それは単なる花の美しさではない。
春の朝日に照らされ、一瞬の輝きとともに散っていく山桜の花びらが、空気を震わせる「音」だった。
潔く、濁りなく、ただそこに在るというだけで世界と調和している究極の調べ。
「父上……聴こえます。いま、父上の魂が、満開の山桜となって鳴り響きましたね」
春庭が、光のない瞳から一筋の涙を零し、微笑んだ。
目が見えぬ彼には、私の詠んだ歌が、松坂の山々から吹き下ろす風の音、そして花びらが地を打つ微かなリズムとして、誰よりも鮮明に届いたのだろう。
意識が、宣長という「個」の重力から解き放たれていく。
私は「音の川」の流れに乗った。
その奔流の中には、かつての「私」たちがいた。
戦場で剣を振るうたびに命の虚しさを聴いた正彦。
神前で舞い、己を消して調べそのものとなった琴葉。
飢えと寒さの中で、絶望を祈りの歌に変えた賢一。
そして、漢字という檻から「音」を救い出そうとした宣長。
それらすべての人生が奏でてきた不協和音も、美しい旋律も、いま、一つの巨大な「環」となって溶け合っていく。
始まりもなく、終わりもない。ただ永遠に鳴り響き続ける、この国土の、そして命の根源的な振動。
(私は、この音を次の誰かへ届けるための、一つの管に過ぎなかったのだな)
心地よい浮遊感の中で、私はようやく理解した。
「チリン……」
松坂の秋風が、私の耳元で最後に鈴の音を響かせた。
それは鈴屋に吊るした十二の鈴か、あるいは、私を迎えに来た次なる世界への合図か。
私はその清冽な余韻に身を任せ、輝く「音の海」の中へと、深く、深く、沈んでいった。
「私」の中に何かが響いた。
(カタカムナヒビキ マノスベシ アシアトウアン ウツシマツル カタカムナウタヒ)
今まで聞き取れなかった言葉が、明瞭に聞き取れる。
何を語っているのだろう......
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