第15章 本居栄貞
書斎「鈴屋」の空気は、冬の陽だまりのなかで止まっているかのように静かだった。
私は、積み上がった草稿の山を前に、自身の衰えゆく眼をこすった。文字はぼやけ、行灯の光は滲んでいる。だが、私の隣に座る男の「闇」に比べれば、それはまだ恵まれていると言えた。
「……春庭。聴こえるか」
私は、音を立てぬように筆を置き、息子に語りかけた。
宣長の長男、春庭。かつては私と共に古書を読み耽っていた彼は、いま、その両眼から光を完全に失っている。
医師として、彼を救えなかった。その悔恨が、私の胸の奥底に墨の汚れのように沈殿している。
しかし、春庭は静かに微笑んだ。
「父上、聴こえております。父上の筆が紙を撫でる音……それが、昨日よりも少しだけ迷いを含んでいることも」
私は息を呑んだ。
光を失ったことで、春庭の聴覚はもはや神業に近い領域に達していた。
彼は私の「目」にはなれない。だが、私が文字という檻に閉じ込めようとしている「古の音」が、本当に正しく響いているかどうかを審判する、究極の「耳」となったのだ。
後日、私が書き上げたばかりの草稿を、門人の徳次郎が読み上げる。かつては私が自ら眼を通し、一字一字を検分していた作業だ。だが今の私には、その文字の形を追うことよりも、春庭の傍らでその「響き」を精査することの方が、真実に近いと感じられていた。
静寂が支配する鈴屋に、徳次郎の若い声が響く。
「……待て。いま、なんと言った」
書斎「鈴屋」に、私の乾いた声が響いた。
読み上げを行っていた門人の徳次郎が、怯えたように筆を止める。隣で静かに座っていた春庭が、わずかに眉を動かした。
「は、はい。……『伊邪那岐の命』と……」
私は、視界の霞む眼で、机上の原稿を凝視した。そこには確かに、大陸から渡ってきた『岐』という文字が居座っている。
「徳次郎、お前は文字に、漢字に毒されているのだ。その文字を見れば、人は当然のように濁らせて読みたくなる。だが、耳を澄ませ。神代の風に、そんな重苦しい濁りがあったと思うか?」
私は、自らの喉を震わせ、空気を切り裂くように発した。
「……いざなき。濁らぬ『き』だ。澄み渡る秋の空のように、どこまでも高く、清く放たれるべき音なのだ。濁音は、後世の人間が意味を固定しようとして塗りつけた、心の汚れに過ぎぬ」
春庭が、闇の中で深く頷いた。
「父上のおっしゃる通りです。私の耳には、『いざなぎ』と濁れば、そこに不純な重力が生まれ、言霊が地に這うように聞こえます。しかし『いざなき』と放てば、音は光となって天へと還っていく。視えぬ私には、その音の清濁こそが、世界の色彩なのです」
視力を失った息子が、父の狂気とも言える「一音への執着」を、誰よりも深く肯定する。
私は、春庭のその言葉に、救われるような思いがした。医師として彼の目を治せなかった私は、いま、言語の調律師として、息子と共に「真実の音」を取り戻そうとしている。
夜が更けるにつれ、鈴屋の空気は密度を増していく。
門人たちが立ち去り、父と子、二人だけの時間が訪れる。
机の上には、ついに全四十四巻が揃った『古事記伝』の山が、月光を浴びて青白く光っている。
(……終わった。いや、解き放たれたのだ)
私はその膨大な紙の束に、節くれだった手を置いた。
この数十年、私はこの文字の山を築くことで、古代の神々をこの地に呼び戻そうとしてきた。
だが、その達成感の隙間から、これまでになかった「異質な記憶」が溢れ出してきた。
私は今、この江戸という時代の終焉近くで、本居宣長として「言葉の源流」に辿り着いた。
だが、すべての言葉を解き明かしたはずの私の耳に、いま、それらすべてを無に帰すような、究極の音が聴こえ始めた。
「父上、どうされましたか? ……父上の気配が、いま、この部屋から消えかかっています」
春庭が鋭く指摘した。
「……春庭。私は、すべてを書き尽くしたと思っていた。だが、言葉というものは、書き尽くした瞬間に、その奥にある『語り得ぬもの』を照らし出してしまうのだな」
私は、震える手で柱の鈴に触れた。
十二個の鈴が、かすかな振動を立てる。
それは、私がこの人生で収集してきた、数え切れないほどの「音」の記憶だ。
「春庭、お前には何が視える」
「……音の川が視えます、父上。父上が一生をかけて掘り起こした一音一音が、文字という器を脱ぎ捨てて、大きな光の奔流となり、未来へと流れていくのが視えます。
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