第14章 本居栄貞
松坂の冬は、刃物のように鋭い。
朝の静寂を切り裂くように、往診鞄の革の取っ手が、冷たく掌に食い込む。使い込まれた革は私の体温を奪い、指の節々に鈍い痛みを走らせた。私は内弟子の徳次郎を伴い、凍てついた街道を歩き続けた。
「先生、足元にお気をつけください」
徳次郎の声は、冷たく澄んだ空気の中で妙に高く響く。
足を踏み出すたびに、薄く張った氷が「パキリ」と小気味よい音を立てて砕ける。その音の高さ、割れる速度……宣長としての私の脳は、無意識にその響きの質を解析し、それを古代の言葉の母音の強弱へと結びつけてしまう。学問という病は、私の日常を完全に侵食していた。
一軒の長屋に入る。土間の奥から漂ってくるのは、立ち込める炭の匂いと、拭い去れない生活の澱のような重い湿気だ。
そこには、咳き込む老婆が力なく横たわっていた。
私は枕元に膝をつき、枯れ木のような彼女の手首を握る。
(……聴こえる。いや、この指先から「視える」のだ)
脈拍は弱く、不規則だ。それは、古びた機織り機が、今にもその命脈を使い果たそうとして、糸を絡ませながら止まろうとしているような、途切れ途切れの「音」だった。
私は、彼女の薄い胸に、そっと耳を当てる。
ヒュー、ヒューという、湿った呼吸音。
それは、深い森の奥で、出口を失った風が洞穴に迷い込んだような響きだ。
「お婆さん、苦しいか。だが、案ずるな。あなたの内側の『音』は、まだ消えてはいない。少しばかり、調べが乱れているだけだ。その調べを整える薬を出すよ」
私は薬箱を開ける。
そこにあるのは、自ら選別し、磨り潰し、調合した薬草たちだ。
指先で触れる薬粉のざらつき。一つ一つの草木が持つ固有の「声」を聴き、それを彼女の不調和な肉体に合わせて組み合わせていく。
医師として歩く私は、この町の「不協和音」を癒して回る調律師のようなものだ。
老婆の家族に薬を処方し、世間話に耳を傾ける。
彼らの喋る、無骨な伊勢の方言。濁音の混じり方、語尾の跳ね方。
「先生、おおきんな。助かりましたわ」
その響きには、都の洗練された言葉にはない、土着の、それでいて強烈な生命力が宿っている。それすらも私には、平安の雅な言葉よりも力強く、かつて神々がこの大地を歩んでいた頃の、地を這うような「響き」の残照に見えた。
「先生、お迎えは近いんでしょうか」
不安げな家族の問い。その声に含まれる微かな震え。
それは、愛する者を失うことへの根源的な恐怖が奏でる、人間という楽器の最も純実な音色だった。
ある家では産声という「始まりの調べ」を聞き、ある家では断末魔という「終わりの沈黙」を聴く。
そのたびに「私」という意識は、宣長の老いた肉体を通して、この世の「音」の無常さを、痛いほどに噛み締めていた。
日が暮れ、松坂の町が夜の帳に包まれると、私は再び、自己の聖域である「鈴屋」へと戻る。
階段を上がるたびに、木材が発する「ぎし、ぎし」という呻きが、私を現実から引き剥がしていく。
ここからは、医師という仮面を脱ぎ捨て、古の探求者へと戻る時間だ。
行灯の芯を整えると、揺れる光が、積み上げられた書物の影を壁に巨大な怪物のように映し出した。
私は、黄ばんだ『古事記』の原文を広げる。
昼間、飛脚に託したのはあくまで最新の巻に過ぎない。私の手元には、まだ何百もの断片、何千という疑問の種が、古びた和紙のなかに眠っている。
(この「神」という一音に、どれほどの響きが込められていたのか。天と地が分かたれたとき、その境界線で鳴り響いた音は何だったのか)
私は筆を執り、文字の裏側を抉るように注釈を加えていく。
漢字。それは、意味という重力で言葉を縛り付ける鎖だ。
私はその鎖を一断ちにする。
漢字という厚い雲を払い、その向こうにある「大和言葉」という太陽を、一文字ずつ、一音ずつ取り戻す作業。
それは、昼間に患者の病を診るよりも遥かに困難で、身体の奥底が熱くなるような、狂気的な悦楽に満ちた仕事だった。
「私」の中に眠る過去の記憶——
それら全てが、宣長の冷徹な知性と火花を散らす。
「そうではない、栄貞。その音はもっと、喉の奥から放たれる、風のような響きだったはずだ」
私は誰に聞かせるでもなく独り言を漏らしながら、墨を磨り、文字を刻む。
硯と墨が擦れる「すり、すり」という規則正しい響きは、私の精神を瞑想の域へと誘っていく。
三十五年前から続くこの狂気的なサイクル。
終わりのない問い。
書き上げても書き上げても、真実の「音」は指の間を砂のように零れ落ちていく。
言葉にした瞬間に、それは死んでいくのだ。
だが、そのもどかしさ、その届かなさこそが、私が今、この本居栄貞という人生を生きている証であった。
深夜。
筆を置き、行灯の芯を落とす。
部屋が濃密な暗闇に包まれ、視覚が機能を失うと、代わりに「聴覚」が異常なまでに冴え渡る。
冬の風が雨戸を叩く音は、巨大な獣の咆哮のように。
庭の木々に雪が積もる、その重みの気配さえ、微かな「音」として鼓膜を打つ。
静寂のなかで、私の血流が耳の奥で奏でる、重々しい拍動。
私は暗闇の中に手を伸ばした。
指先が、冷たい紐の感触を捉える。
その先にあるのは、私の魂の錨だ。
「――チリン……」
鋭く、そしてどこまでも清らかな鈴の音が、鈴屋の四隅まで浸透していった。
その一音は、今日私が聴いた全ての雑音、老婆の苦しみ、家族の不安、そして文字という檻に閉じ込められた神々の悲鳴を、一瞬で浄化した。
音は波紋となって消えていき、私の意識もまた、その余韻の中に溶けていく。
「私」は、宣長という肉体を離れ、音そのものになって宇宙を漂っているような錯覚に陥る。
明日もまた、私は医師として誰かの脈を聴くだろう。
明日もまた、私は学者として古の響き(かみ)を追うだろう。
その終わりのない円環のなかで、一音一字を、探し続けている。
読んでいただきありがとうございます。
下の★~★★★★★で評価してもらえると勉強になります。
感想などいただけると嬉しいです。




