第13章 本居栄貞
ゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、使い古された木綿の蒲団の、色褪せた藍色だった。鼻腔を突くのは、独特の香り。丁子、甘草、肉桂……。長年この部屋で扱われてきた薬草の粉が、建具の隙間や畳の目にまで染み付き、部屋全体が一つの巨大な薬箱のような沈黙を保っている。
「私」は、布団の中で自分の手を確認した。
重い。これまでのどの人生よりも、肉体という器が重く感じる。
指を動かそうとすると、節くれだった関節が微かな軋みを上げた。皮膚は枯れた木の皮のように薄く、血管が青い地図のように這い回っている。爪の生え際には、どれほど洗っても落ちることのない墨の黒が、地層のように沈殿していた。
これは、何十年もの間、筆を握り、文字の海を泳ぎ続けてきた男の手だ。
立ち上がろうとすると、腰に鈍い重みが走る。
縁側へ続く障子を開けると、冷え込んだ朝気が容赦なく肌を刺した。
(ここは……どこだ?)
「私」の意識はまだ、過去の転生の残像と、この老人の記憶の間で揺れている。
足を踏み出すたびに「ぎり、ぎり」と廊下が鳴る。湿り気を帯びた木材が、私の体重を押し返す音。その一音一音が、かつて戦場で聞いた悲鳴よりも切実に、今という時間を主張していた。
手水鉢に溜まった水に、己の顔を映す。
そこには、深く刻まれた眉間の皺と、恐ろしいほどに澄んだ瞳があった。
それは、世界を見るための眼ではない。世界の奥底に潜む「何か」を、光として捉えようとする者の眼だ。
「先生、朝餉の準備ができました」
不意に背後から声をかけられ、私は反射的に身を固くした。
だが、そこに敵意はない。
声をかけてきたのは、まだ二十歳そこそこの、端正な顔立ちをした内弟子だった。
「私」は、困惑を隠せぬまま、その若者に尋ねた。
「……私は、誰なのだろうか?」
若者は、一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして首を傾げた。
「本居栄貞先生……まだ、夢の中なのですか? それとも、昨夜の『古事記』の研究で、魂を神代に置いてこられたのでしょうか」
その名を聞いた瞬間、全てのパズルがはまった。
本居栄貞。またの名を、宣長。
伊勢松坂の町医者であり、この国の言葉の源流を掘り起こす、孤高の学者。
「私」は、その巨大な知性の器を、ゆっくりと受け入れ始めた。
居間へ向かうと、妻の勝が静かに膳を整えていた。
彼女の動作は無駄がなく、衣が擦れる音が、まるで穏やかな波のように部屋に広がっている。
その隣には、長男の春庭が座っていた。
「父上、おはようございます」
春庭の声は、どこかこもったような、それでいて芯の強い響きを持っている。
栄貞の記憶が、「私」の胸を締め付けた。
春庭は、目を患い始めている。医者である私が、誰よりも早くその予兆を悟っていた。
視力を失いつつある息子。その代わりに、彼の「耳」は、人一倍敏感になりつつあった。
膳を囲む家族の沈黙。
それは「無」ではない。
粥を啜る音、箸が漆の器に触れる音、外で風が山桜の枯れ枝を揺らす音。
栄貞としての私は、その全ての「音」を、五十音の旋律として脳内で解析してしまう。
「春庭。外の風の音が、昨日より少し高いとは思わぬか」
私は、自分でも驚くほど自然に、この家の主として言葉を発していた。
春庭は、少しだけ顔を上げ、見えにくい瞳で音の方向を探るようにした。
「はい。北からの風が、蔵の角にぶつかる音が、昨夜よりも鋭くなっております。冬が、深まってまいりますね」
その会話に、勝が小さく微笑む。
言葉の意味以上に、その「響きの重なり」が家族という一つの和音を作っている。
だが、「私」はその和音の美しさに浸る一方で、もう一つの、より巨大で、より原初的な「響き」への渇望に突き動かされていた。
(まだだ……日常の音ではない。私が求めているのは、文字になる前の、神々の息吹なのだ)
朝食を終え、私は二階の書斎「鈴屋」へと戻った。
急な階段を一段上がる音が、現世の雑事を切り捨て、古の領域へと足を踏み入れるための儀式となる。
書斎の戸を開けた瞬間、空気の質が変わった。
そこは、数千冊の古書が放つ、古い紙と墨、そして時の蓄積が混ざり合った、濃密な静寂の空間だった。
壁一面を埋め尽くす書物の山。
中国から渡ってきた難解な経典。
宮中で詠み継がれてきた和歌集。
そして、私が三十五年の歳月を費やして書き継いできた、膨大な『古事記伝』の草稿。
窓から差し込む冬の光を浴びて、紙の繊維が微かに震え、数千年の時を越えた「音」の粒子を放っているように見えた。
私は、机の中央に置かれた一束の原稿を、愛おしむように撫でた。
『古事記伝』。
それは、本居栄貞という男の執念の塊であり、同時に「私」という魂が、この時代に降り立った最大の理由でもあった。
漢字。あの大陸から渡ってきた、意味の強すぎる文字。
かつてのこの国には、文字などなかった。
ただ「音」だけがあったのだ。
空の青さを、風の冷たさを、恋の痛みを、日本人はただ純粋な「響き」として発していた。
しかし、漢字という「檻」が、その響きを閉じ込めてしまった。
「アマテラス」という清冽な響きが、「天照」という文字に固定された瞬間、言葉は羽をもぎ取られ、地に縛り付けられた。
(私は、この檻を壊さねばならない)
筆を執り、墨を磨る。
「すり、すり」という規則正しい音が、私の精神を研ぎ澄ませる。
墨を磨ることは、己の血を絞り出すことだ。
私は、この黒い液体を使い、漢字の裏側に隠された「真の響き」を、一文字ずつ炙り出していく。
「古事記」という名の、古代から届いた音楽を、再びこの世に鳴り響かせるために。
机の上に鎮座しているのは、単なる紙の束ではない。それは、本居栄貞という男の三十五年分の吐息が凝固した、巨大な「生命体」であった。
私は震える指先で、最新巻の草稿を撫でた。紙の表面は、幾度もの加筆と修正によって波打ち、墨の濃淡は、その時の私の血圧や高揚、あるいは絶望をそのまま映し出している。
(この一文字一文字が、私の戦いだったのだな)
文字を綴ることは、音を殺すことではない。文字という死体に、かつての「神代の響き」を吹き込み、蘇生させる作業。そのために、私はどれほどの夜を、この鈴屋の静寂のなかで費やしたことだろう。
私は、傍らに用意された油紙を手に取った。
「くしゃり……」
乾いた音が、静かな書斎に異様なほど大きく響く。
この音さえも、私には「古の言葉」の一節のように聞こえた。油紙の独特な、鼻を突く匂い。それは外界の湿気から、この神聖な言葉の肉体を守るための防壁だ。
一枚ずつ、丁寧に包んでいく。
紙と紙が重なり合う時の、衣擦れに似た微かな摩擦音。
それを桐の箱に納める際、指先に伝わるずっしりとした重み。
これは、ただの紙の重さではない。ここには、かつてこの国土を震わせた「コトダマ」の残響が詰まっている。
紐を結ぶ。私の指は、医師として患者の傷口を縫い合わせる時のような、祈りに似た正確さで動いた。一度結べば、もう二度と、この原稿は私の手元には戻らない。私の内側から剥がれ落ち、公のものとなって、歴史という濁流へと流されていくのだ。
その寂寥感と、呪縛から解き放たれるような解放感が、老いた私の胸の中で激しく渦巻いた。
私は重い桐箱を抱え、ゆっくりと立ち上がった。
立ち上がる際、膝の関節が「ピキリ」と乾いた音を立てる。その痛みすら、私が今、この肉体に存在しているという証左だ。
私は、書斎の柱に吊るされた「鈴」を見上げた。
栄貞が、その名を「鈴屋」と冠する由来となった、十二個の鈴。
私は自由を求め、あるいは思考を研ぎ澄ませるために、この鈴を鳴らす。
私は、桐箱を片手に抱えたまま、もう片方の手で鈴の紐を引いた。
「チリン……チリン……」
清冽な音が、書斎の空気を震わせ、古い紙の匂いをかき回した。
その音は、私の脳内に沈殿していた古事記の迷宮を、一瞬にして洗い流していく。
音は波紋のように広がり、二階の床を通り抜け、下の階で忙しく立ち働く家族や門人たちの耳へと届いていく。
「先生、お呼びですか?」
階下から、先ほどの内弟子の声が上がる。
私は返事をせず、ただその余韻を聴いていた。
この鈴の音こそが、私にとっての「今」だ。古代と現代、神々と人間、その境界線で鳴り響く、最も純粋な音。
私は、一段一段、重みを確認するように階段を下りた。
一階に下りると、そこにはすでに、発送を請け負う飛脚の男が待っていた。
玄関の戸を開けた瞬間、私は立ち眩みのような感覚に襲われた。
松坂の町の「俗世の音」が、暴力的なまでの質量を持って雪崩れ込んできたからだ。
「さあさあ、お安くしとくよ!」
「おんぎゃあ、おんぎゃあ!」
遠くで響く物売りの声、赤子の泣き声、風に吹かれてはためく暖簾の音、馬の蹄が街道を叩く乾いた響き。
それらは、私が鈴屋で追求していた「清らかなる古代の音」とは正反対の、泥臭く、生々しい、現代の雑音だった。
しかし、どうしたことだろう。
その雑音の一つ一つが、今の私には、愛おしくてたまらない。
なぜなら、これこそが、かつての神々が愛し、慈しんだ「生きた人間の息遣い」そのものだからだ。
飛脚の男は、日に焼けた屈強な腕を差し出した。
「本居先生、確かにお預かりします。江戸まで、命に代えても」
私は、桐箱を彼に託した。
その刹那。
指先から、私の魂の一部が剥がれ落ちていくような、鋭い空虚さが走った。
だが、それと同時に、私の内側に新しい「調べ」が湧き上がってくるのを感じた。
「頼んだぞ」
私の枯れた声が、朝の湿った空気に溶ける。
男が走り出し、その足音が遠ざかっていく。
一、二、三……。
私はその足音のテンポを数え、それが町の喧騒の中に埋没していくまで見守った。
文字にして放たれた「音」は、もう私だけのものではない。
だが、私の胸の奥底には、まだ、どの文字でも捉えきれず、どの草稿にも書き留められなかった「究極の一首」への渇望が、炭火のように赤々と、静かに燃え続けていた。
私は、玄関の戸を閉め、再び静寂の中へと戻る。
そこには、妻の勝が、私のために新しい茶を淹れて待っていた。
湯呑みから上がる湯気の音。
「しゅんしゅん」というその微かな響きの中に、私は再び、神々の囁きを聴き取ろうとしていた。
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