第12章 鈴川琴葉
明治の世が本格的に動き出し、人々の装いが急速に洋風へと塗り替えられていく中で、鈴川の道場だけは、まるで時が止まったかのように、古びた木の匂いを漂わせていた。
琴葉は、「個の救済」を続けながらも、決してこの場所を手放さなかった。母と二人、内職で得たわずかな銭は、生活費を削ってでも、道場の屋根の修繕や、擦り切れた畳の交換に充てられた。
「お前は、なぜここまでして、この場所を守るのだ。」
病床の父、宗左衛門は時折、意識がはっきりした瞬間にそう問いかけた。琴葉は、着物の袖をまくり、冷たい水で床を磨きながら静かに答える。
「ここが、私が私でいられる唯一の場所だからです。お父様。私は剣を捨てましたが、武士として生きたこの場所を捨てることはできません。」
しかし、現実は容赦なかった。町役場からの立ち退き要求は、日増しに強まっていた。遠藤や吏員たちが、土地の再開発を名目に、道場を潰そうと画策していたのだ。
「鈴川さん、もう諦めなさい。女性一人の腕で、この大きな建物を維持するのは無理だ。」
訪れる役人の言葉を、琴葉は背筋を伸ばし、凛とした着物姿で聞き流し続けた。彼女は、もはや力で抵抗することはしなかった。ただ、そこに「在る」ことで、時代の暴力と静かに戦っていたのだ。
そんなある日の夕暮れ。
道場の門を叩く、一人の男が現れた。
男は、色褪せた羽織を纏い、腰には竹刀袋を提げていた。その眼光は鋭く、まるで幕末の動乱からそのまま抜け出してきたかのような殺気を孕んでいた。
「…新徴組の、鈴川宗左衛門の娘か。」
男の声は低く、地を這うようだった。
「いかにも。父は奥で臥せっておりますが、御用は何でしょうか。」
琴葉が応じると、男は自嘲気味に笑った。
「俺は、かつて新選組に身を置いていた。名は…もはや意味を成さん。ただ、新しい時代に馴染めず、かつての敵対組織の生き残りが、女の手で細々と道場を守っていると聞き、居ても立ってもいられず参った。」
男は、竹刀袋から使い込まれた竹刀を取り出し、床に置いた。
「真剣の世は終わった。だが、俺たちの魂まで終わったわけではない。鈴川の娘、我に『本物の武』が残っているか、確かめさせてくれ。これは恨みではない。俺自身が、次に進むための区切りだ。」
琴葉は、男の瞳の中に、自分と同じ「置き去りにされた魂」を見た。
「分かりました。鈴川の道場主として、お相手いたします。」
琴葉は奥から、父の形見である防具と、自ら手入れをし続けてきた竹刀を持ち出した。
「私」の意識が、この時、琴葉の肉体と完全に融解した。
(これが、最後だ。)
(琴葉の情が、この無名な男の絶望を、すべて受け止めようと決意させる。)
道場の静寂を、竹刀のぶつかり合う凄まじい音が切り裂いた。
男の打突は重く、速い。実戦を潜り抜けてきた者の、容赦ない攻撃だった。琴葉は着物の裾を捌き、床を蹴った。彼女の動きには、無駄な装飾が一切なかった。「生活者の強さ」が、彼女の剣筋をより鋭く、より実践的なものに変えていた。
「おおおお!」
男が咆哮と共に、渾身の面を放つ。
琴葉は、それを避けなかった。避ければ、この男の魂は救われない。
彼女は、自身のすべてを賭けた一撃を、同時に放った。
ドォォォォン!!
互いの竹刀が、同時に相手の面を捉えた。
火花が散るような衝撃。脳を直接揺さぶるような震動。
琴葉の視界から、色が消えた。
男の崩れ落ちる気配を感じながら、琴葉の意識もまた、重力から解き放たれていく。
その瞬間。
耳元で、懐かしい言葉が響き渡った。
「カタカムナヒビキ マノス..................」
琴葉の肉体から魂が離脱していく中で、「私」は見た。
道場の床に倒れた自分を、心配そうに覗き込む男の顔。彼は、その瞬間に、何かに許されたかのような安らかな表情を浮かべていた。
「私」の視界は、眩い白光に包まれる。
「さようなら、琴葉。さようなら。」
読んでいただきありがとうございます。
下の★~★★★★★で評価してもらえると勉強になります。
感想などいただけると嬉しいです。




