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トコノウタヒ  作者: しゅう


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第11章 鈴川琴葉

冬の寒さが緩み、故郷の町に雪解けの音が響き始めた頃、鈴川琴葉は、道場を閉鎖してからの数ヶ月間で培った新しい生活のリズムに、慣れ始めているようで、まだ馴染めずにいた。彼女はもはや「武士」ではなく、父の威光も失われた今、家の生計を支える母の内職を手伝い、町への運び出しや、わずかな日銭を稼ぐための雑多な仕事を引き受けていた。

「私」は、この日常を静かに見つめていた。剣を握り、大義のために命を賭した記憶を持つ「私」にとって、女性の着物で、米俵を背負い、ぬかるんだ道を歩く琴葉の姿は、ひどく重く、そして異質なものに映った。

(これは、私が生きた道ではない。)

琴葉の意識は、それでも目の前の現実に集中していた。彼女の強靭な肉体と精神力は、もはや剣術の型を極めるためではなく、生活の「実務」のために使われていた。重い荷物を運ぶ手際の良さ、足場の悪い道での安定した歩み、そして何より、与えられた仕事を「武士の任務」と同じ厳格な規律をもって完遂する姿勢。


ある日、彼女は町の外れにある製紙工場(元は藩の文書庫だった建物を利用している)から、大量の洋紙の束を運ぶ仕事を引き受けた。洋紙は重く、運搬には男手が普通だったが、日銭が高いため、琴葉は引き受けた。

その帰り道、町役場にほど近い貧しい集落で、彼女は一人の幼い少年が、年配の男に激しく罵倒され、突き飛ばされているのを目撃した。男は、元藩の足軽頭で、今は町役場の末端の吏員として働いている。少年は、病気の妹のための薬代を稼ごうと、役場の外壁に貼られた新しい布告の紙を剥がそうとしていたのだという。布告を剥がすことは、新しい政府の命を蔑ろにする行為だとされ、厳しく罰せられる対象だった。

「待ってください。」琴葉は、反射的に荷物を降ろし、二人の間に割って入った。

「何だ、お前は!鈴川の娘か。武士でもないくせに、役場の仕事に口を出すな!」吏員は、かつての武士の娘という威圧感を感じながらも、立場が逆転した優越感から声を荒げた。

「この子が剥がそうとしたのは、たかが紙です。それを理由に、病気の妹のために働く幼子をここまで痛めつけるのは、武士の道に悖る行為ではないですか。」

「武士の道だと?もうそんなものは、この世にないわ!あるのは法律と金だけだ!お前こそ、時代遅れの亡霊だ!」

吏員の言葉は、遠藤に言われた言葉と酷似していた。信念は無価値。あるのは実利だけ。

琴葉は、この男を剣で斬ることは容易にできた。しかし、剣はすでに鞘の中だ。そして、たとえ剣を抜いたとしても、その行為はただの「殺人」であり、琴葉の家と母をさらなる窮地に追い込むだけだ。

(賢一ならば、この男の役場での立場を経済力で揺さぶり、法律を変えさせようとしただろう。)

(正彦ならば、この集落の住民を組織し、集団での直訴や抵抗を試みたかもしれない。)

しかし、琴葉の目の前にあるのは、目の前の不正と、力の差だけだった。彼女は、賢一でも正彦でもなかった。彼女の体には、新徴組で培った「秩序を保つための実戦的な技術」が残っていた。

琴葉は、荷を下ろした際に手に持っていた麻紐を、一瞬で編み上げて吏員の腕に巻き付けた。技は、相手を傷つけるためではなく、「動きを封じる」ための、武術の制圧術だった。

吏員はバランスを崩し、その拍子に持っていた杖を落とした。

「無礼者!何をする!」

「私は、ただ、この子に手を出すのを止めただけです。あなたは武士の技を、人を威嚇するために使っています。私は、人を護るために使います。」

琴葉はすぐに麻紐を緩め、吏員から一歩下がった。そして、少年をかばうように前に立った。

「彼は、この紙の代金を、私が払います。この子は、今すぐ妹の元へ帰るべきだ。あなたは、公務の威光を傘に着て、弱者を虐げるべきではない。」

琴葉は、その日稼いだわずかな日銭から、紙の代金よりもはるかに多い銭を吏員に手渡した。吏員は、琴葉の制圧術に驚愕し、かつ多額の銭を受け取ったことで、それ以上騒ぎ立てることはできなかった。彼は吐き捨てるように去っていった。

少年は、ただただ驚いていた。集落の人々も、武士の娘が、現政府の吏員に正面から立ち向かい、しかも「武力ではなく、技術と金銭で解決する」という異例の行動を目の当たりにしたことに、静かに動揺していた。

「私」の意識は、その瞬間、ある確信を得た。


(これが、琴葉の道だ。)

(制度を変えるのではない。大義を叫ぶのではない。目の前の不正に、剣を抜かずに、武士の訓練で得た技で介入し、解決する。)


これは、「剣を置いた武士」の、新しい倫理の形だった。

この一件以来、町の人々の琴葉を見る目は変わった。以前は、「落ちぶれた道場の娘」という哀れみの視線だったが、今は「何をするかわからない、しかし頼りになる女」という、複雑な尊敬と恐れの視線が混じっていた。

彼女の評判は、貧しい集落から、新しい時代で力を持ち始めた商人層にまで広まった。

特に、元武士であった遠藤が、この噂を聞きつけて、琴葉に接触してきた。

遠藤は、琴葉の家を訪れ、慇懃無礼な態度で言った。

「鈴川の娘御。あなたの度胸と腕は、新しい時代でも使えるようだ。町の治安は乱れている。だが、新政府の警察機構は、士族崩れの無能な者が多くて、まったく役に立たん。そこで、私のような商人が、自衛のための私設警備組織を雇うことを考えている。武術の心得がある者がいい。」

遠藤は、金に物を言わせて、事実上の私兵を集めようとしていた。

「私設警備組織ですか。」琴葉は冷静に尋ねた。

「そうだ。これは合法的な商売だ。あなたの強さを、武士の矜持ではなく、金という実利で使ってみないか?家族の生活も安定する。あなたは、もう古い大義にしがみつく必要はない。」

遠藤の提案は、琴葉の生活を楽にする、極めて現実的なものだった。父宗左衛門の顔が、琴葉の脳裏に浮かんだ。宗左衛門は、汚れることなく信念を貫き、道場を失った。遠藤は、金のためにすべてを捨て、新しい時代を謳歌している。


(この仕事を受ければ、母の苦労は減るだろう。)

しかし、「私」の意識は、激しく拒否した。

(これは違う。これは、剣を金銭に換えることで、再び大義を失った私的な暴力としてその力を使うことになり、構造的な不正に力を貸すことになる。)


琴葉は、静かに、しかし明確に遠藤の申し出を断った。

「お断りします。私は、誰かの私的な利益のために、この力を使うつもりはありません。この力は、父が教えてくれた人のために尽くす道のためにのみ使います。」

遠藤は鼻で笑った。

「相変わらず、清廉だな。だが、清廉さだけでは、飯は食えん。そのうち、その力は飢え死にするぞ。」

遠藤が去った後、琴葉の母が奥から現れた。母は何も言わなかったが、その目には、生活の重圧と、娘が安定した道を拒んだことへの、言葉にできない不安が滲んでいた。


琴葉は、自分の道を探し続けた。

彼女は、町で起きる小さな不正や困難を、武士の訓練で得た力で解決し続けた。

夜間の町の広場で、新政府の税に苦しむ農民たちが、荷を奪おうとするごろつきに襲われた際、剣ではなく柔術でごろつきを制圧し、役場に突き出した。

新しい商売に失敗し、自暴自棄になって一家心中を図ろうとした元武士の家庭を、武士としての規律と心理的な威圧感で引き止め、母の内職の伝手を使い、仕事を紹介した。

彼女の行動は、警察とも違う、私兵とも違う、「義理と武術に基づいた、個人の自発的な救済活動」として、町の風景の中に奇妙に溶け込み始めた。人々は彼女を「女武士」ではなく、「鈴川の姐御」と呼び始めた。

しかし、この活動は、彼女自身の生活を安定させるものではなかった。むしろ、銭を使い、時間を消費する、「非効率」な生き方だった。


「私」の意識は、この道が、賢一や正彦の道の挫折の轍を踏まないことを理解し始めていた。賢一は、システムを創り、正彦は、システムに抗おうとした。しかし、琴葉はシステムの外で、ただ「目の前の個」を救うことに、その力を振り向けていた。

彼女が救うのは、常にたった一人の人間であり、たった一つの不正だった。それは、時代全体を変えるような壮大な物語ではない。雪解けのぬかるんだ道に、一つ一つ足跡を残していくような、地道で、非効率な、倫理の戦いだった。


ある夜、琴葉は自室で長刀の手入れをしていた。父宗左衛門が隠居部屋で臥せってから、長刀はますますただの鉄の塊に見えた。

その時、隠居部屋から宗左衛門のうめき声が聞こえた。琴葉が駆けつけると、父は寝床で、亡くなった新徴組の同志の名を呼び、激しくうなされていた。

「宗左衛門様は、まだ時代との戦いをやめていない。」「私」は感じた。

父にとって、武士の道とは、世界との戦いであり、大義という壮大な構造の中でしか生きられなかった。

琴葉は、父の手を握った。冷たく、力のない手だった。

「お父様。私は、まだ戦っています。」琴葉は、小さな声で呟いた。「でも、世界とは戦っていません。私は、この町で、一人一人を、救うための戦いを続けています。」

宗左衛門は、その言葉を聞いて、微かに目を開けた。彼の目には、かすかに「娘の生きる道」が見えたのかもしれない。

「馬鹿な…」宗左衛門は、弱々しい声で言った。「武士が、私的な情に流されてはならぬ。大義を、…大義を忘れ…」

宗左衛門は、大義を言い終わる前に、再び目を閉じた。彼の人生は、公の秩序のために捧げられ、そしてその秩序の崩壊とともに終わろうとしていた。

琴葉は、父の言葉を否定しなかった。しかし、彼女の心は、すでに新しい道へと向かっていた。


翌日、琴葉は長刀を手に取った。手入れを済ませ、刀身を布で入念に拭いた後、彼女はそれを、壁に垂直に立てるように飾った。

それは、もはや「抜いて振るう武器」ではなかった。

それは、「武士の精神の象徴」として、自室の壁に静かに佇んでいた。

剣は、私を守るためのもの。力は、他人を護るためのもの。

この二つの原則が、琴葉の新しい人生の基盤となった。彼女は、賢一や正彦が構造的な問題に挑み、挫折した経験を無意識に回避し、「自分にできる、最小の、最も確実な救済」の道を選び取ったのだ。


春を待つ故郷の雪景色の中、鈴川琴葉は、武士の服を脱ぎ捨て、泥にまみれながら、新しい時代を歩み始めていた。

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