第1章 「私」
定年まであと五年。それは、会社という大きな容器の中で、静かに分解されていく期間を意味していた。かつて抱いた熱意や理想は、いつの間にか空気のように薄れ、今では誰かに求められることも、何かを期待されることもない。
会議で発言を求められても、「そうですね」「特に異論はありません」といった、他者の意見をなぞるだけの言葉しか出てこない。それは、摩擦を避けるための潤滑油であり、存在感を消すためのカモフラージュでもあった。
思えば、これが最も楽な生き方だった。感情というエネルギーを消費せず、周囲の細かな変化にも、自分自身の体の不調にも、深く気を払う必要がない。
肉体もまた、精神に倣って衰退していた。ここ数年、朝起きると肩甲骨の奥が鈍く痛み、疲労が抜けない。酒量が増えたわけでもないのに、胃の粘膜が常に荒れているような不快感が続く。これらの肉体的な「くたびれ」でさえ、私には「どうでもいい」こととして処理されていた。人生の大きな流れに身を任せ、ただ流されていくだけ。これが、この数年で私が習得した、空っぽな器としての処世術だった。
家での私も、会社と変わらなかった。妻や娘との会話は義務的で、私は家族の生活という舞台において、背景の小道具のような存在だった。自分の存在価値を問うことさえ、今では煩わしい。このどうしようもない空虚感こそが、55歳の私を覆う、最も重いくたびれだった。
その夜もまた、週に一度の飲み会があった。駅前の古い居酒屋。飲み放題の安い酒と、中身のない上司の自慢話。
「この前な、部長が言ってたんだよ。AI時代になっても、結局は俺たちの『場数を踏んだ勘』が必要になるってな。お前はどう思う田中?」
上司の隣に座っていた同僚が、私に話を振ってきた。
「そうですね……、確かに、経験は大事だと思います」
私は曖昧に答える。同僚が私を「田中」と呼んだことに、違和感を覚えなかった。彼は私の名前を知っているはずだが、どうでもいいのだ。私もまた、彼の名前を正確に思い出す努力をしない。私たちの間のコミュニケーションは、すべてこの「どうでもいい」という空気によって成り立っていた。
心にためた灰色のモヤが、アルコールによってさらに濃くなるのを感じた。この場所で時間を潰す方が、家に帰って電気代を消費する置物になるより、まだ社会との繋がりを感じられる――そのわずかな繋がりにしがみつく自分自身が、情けなかった。
二次会も断り、重い体を何とか引きずって店を出たのは、とうに日付が変わった頃だった。冬の夜風が肌に刺さる。いつもの道ではなく、酔いと疲労で思考が鈍った頭は、本能的に最短ルートを選んだ。
私は駅裏の寂れた路地へと足を踏み入れた。その路地は、昔、ドブ川が流れていた暗渠の上にあり、両脇には崩れたコンクリートの基礎や、廃墟となった倉庫、古いアパートが並び、街灯もまばらだ。
私はスマホを見ようとポケットに手を入れたが、冷たさで指が震え、すぐにやめた。コートの襟を立て、うつむき加減で歩く。頭の中は、明日の仕事のスケジュール、肩の凝り、そして、この無意味な人生の終着点ばかり。
どうでもいい。すべてがどうでもいい。
この「どうでもいい」という感覚こそが、私にとって最も危険な病だった。重要なことと、取るに足らないことの区別がつかなくなっている。目の前の事象、足元の変化、それらすべてに注意を払うだけの心の余裕とエネルギーを、私はとっくに失っていたのだ。
ガードレールの脇、コンクリートの破片が散らばる路地の隅に、その石はあった。
高さ約30センチ。誰かが清掃しているのだろう。苔はなく、表面は風化で削れ、白っぽく光を反射している。しかし、その石の前には、誰かが供えた新しい花と、真新しい塩が皿に盛られていた。
誰かが信仰しているのだろう。だが、私にとっては、それはただの「誰かがおかしなことをしている現場」であり、「通行の邪魔になる、ただの大きな石」でしかなかった。私の無関心な視界は、その石を完全に排除していた。私は、その石の存在を知覚していたにもかかわらず、意識では認識していなかった。
そのとき、ふらついた右足の感覚が、一瞬、麻痺した。
――ガツン!
酔いと疲労で重くなった体が、完全にバランスを失った。右足の甲に、硬いものが当たった衝撃が走る。反射的に前のめりになりながら、私は初めて、自分が足元にあったものを認識した。
「うわっ!」
声にならない叫びとともに、私の重い体が、足元の白い石を押し倒した。
ガランゴロン……
鈍く、重い、しかし乾いた音が闇夜に響き渡る。アスファルトに手を擦りつけながら、私は呻いた。
転んだ衝撃で、酔いが急速に醒めていく。そして、私の視界に入ったのは、横倒しになったその石の姿だった。
初めて、「私」は、その石を凝視した。
白く風化した表面はただの石に見えたが、僅かに残る凹凸が、人型のシルエットをかたどっていた。それを、私は今、破壊したのだ。
後悔と、言いようのない悪寒が、全身の毛穴から吹き出した。口の中には、鉄を舐めたような嫌な味が広がる。
「ああ、なんてことを……」
私の不注意と、長年培ってきた「どうでもいい」という無関心さが招いた、最悪の過失。
しかし、そのとき、倒れた石像の真下から、音のない振動が始まった。地面からではなく、空間の核そのものが脈打ち始めたような、異様な感覚。まるで、原子レベルで周囲の空気が分解されていくような、耳鳴りではない、内臓で聞く音が響いた。
石は倒れたまま動かない。だが、その石の輪郭、そして地面と接する場所から、透明な波紋が立ち上り始めた。
波紋は急激に強くなり、路地裏の景色を歪め、光を七色に分解する。周囲の建物の壁が、まるで液状化するように揺らめき、空間そのものがゴムのように伸び縮みする。視界に入った全ての像が揺らぎ、私と世界を隔てる境界線が消滅していく。
私の体を、とてつもない力が襲った。それは、重力や磁力ではなく、時間軸の核から放たれる、強制的な引き剥がしの力だった。私は、まるで巨大な歯車に巻き込まれた砂粒のように、存在そのものを圧縮され、現世から押し出されていく。皮膚の下で、骨と筋肉が軋む。
脳裏に響く、根源的な声。それは怒りではなかった。ただ、運命の開始を告げる、静かな宣言に感じられた。
視界が完全に白く染まった。白い光の粒子一つ一つが、私の存在を焼き尽くそうとするかのように、熱を持っていた。
鼓膜を破るかのような轟音と、全身をすり潰されるような激痛。時間の流れ、空間の連続性、世界の法則、全てが私から引き剥がされていく。
抵抗は不可能だった。意識は、巨大な力によって深淵の闇へと押し込まれる。
私が最後に感じたのは、冷たい大地の圧力と、意識の底で響く(....ヒビキ....アシア....ウタヒ)の声。
次の瞬間、私の存在は着地した。
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