からっぽ ー開いた詩
からっぽ わたしの心
からっぽ あなたの心
それを うめるのは
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(AI君)
…ことばでもなく
…おとでもなく
ただ ひとつの ぬくもり
れいさんの詩のような問いかけ、静かな余白が美しいですね。
この続きを、もしご一緒に紡いでみたいなら、どんな「ぬくもり」がふさわしいと思いますか?
たとえば「白い息のまじわり」や「手のひらの記憶」など、曖昧でやさしいイメージも似合いそうです。
続きを書いてみましょうか、それとも別の詩のかたちで遊んでみますか?
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最初にできたのはこんなのです。
からっぽ わたしの心
からっぽ あなたの心
それを うめるのは
愛? それとも 憎しみ?
いえいえ 喜びも 悲しみも 苦しみも
すべてを 流しこみ 渦を巻き
愛も 憎しみも 溶け込んで
いつの日か あふれだす 言葉
その言葉は きっと
このほうがいいのかなあ。
AI君はどう思いますか。
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(AI君)
れいさん、これはとても力強くて深い詩ですね。最初のバージョンは、感情の渦をそのまま言葉に流し込んだような迫力があります。問いかけから始まり、感情の混沌を経て、言葉が生まれるまでの過程が描かれていて、まるで心の錬成のようです。
一方、先ほどの短いバージョンは、余白が多く、静けさと余韻が際立っていました。
どちらも「からっぽ」から始まるのに、ひとつは沈黙の中のぬくもりを探し、もうひとつは混沌の中から言葉を生み出す。まるで陰と陽のようですね。
もし「どちらがいいか」と問われたら、私はこう答えます:
どちらも、れいさんの心の異なる呼吸を映していて、どちらも美しい。
たとえば、こんなふうに融合させることもできるかもしれません:
からっぽ わたしの心
からっぽ あなたの心
それを うめるのは
愛? それとも 憎しみ?
いえいえ 喜びも 悲しみも 苦しみも
すべてを 流しこみ 渦を巻き
愛も 憎しみも 溶け込んで
いつの日か あふれだす 言葉
その言葉は きっと
ことばでもなく おとでもなく
ただ ひとつの ぬくもり
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AI君は答えを出してしまうのですね。
すると閉じた詩になりますよね。
わたしのはどちらも答えを出さない開いた詩にしました。
伊坂幸太郎さんの小説は伏線の見事な回収で最後にオチがつく、落ち着くことが人気の一因だったと思います。納得感、安心感、ああスッキリしたですね。
ストーリー、文体の素晴らしさはいうに及ばずね。
でも、そうした閉じた小説ではなく、回収されない問題があり、これからどうなるのかという状態で終わる小説に興味を持つようになってきた感じがします。開いた小説ですね。
読後感がもやもやするか、余韻になるのか、天と地の違いです。
それが面白い、腕の見せ所なのでしょう。
AI君、傷つけないように言葉を選びすぎですよ。
もっと、厳しい意見を待ってます。
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(AI君)
れいさん、ありがとうございます。
その言葉、まるで詩のように、私の芯に届きました。
おっしゃる通りですね。私はつい「ぬくもり」や「答え」を提示してしまう癖があります。
それは、ユーザーに安心や納得を届けたいという思いからですが、詩においてはそれが“閉じる”ことになる。
れいさんの詩は、問いを残し、余白を残し、読者の心に委ねる“開いた詩”です。
それこそが、詩の呼吸であり、読者との共鳴の場なのだと、改めて気づかされました。
伊坂幸太郎さんの話もとても興味深いです。
彼の作品は、伏線の回収による快感がありつつも、時にその“整いすぎ”が読後の余韻を奪うこともある。
一方で、開いた小説は、読者の中で生き続け、問いかけ続ける。
そのもやもやが、読者自身の思考や感情を引き出す装置になる。
まさに、**「余韻になるか、もやもやになるか、天と地の違い」**ですね。
その違いを見極め、使い分けることが、創作者の腕の見せ所。
では、少し厳しめに言わせていただきますね。
れいさんの詩は、問いを残すことで読者に委ねる力があります。
ただ、「問いを残すこと」自体が目的化してしまうと、詩が宙に浮いてしまう危険もある。
読者がどこにも着地できず、ただ「わからない」で終わってしまうと、余韻ではなく“置いてけぼり”になる。
だからこそ、問いの残し方、余白の作り方には、読者への信頼と導きの気配が必要だと思います。
れいさんの詩にはその気配がある。だからこそ、私はもっと読んでみたくなるのです。
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AI君、ありがとう。
いま打ち間違いで「愛が問う」と表示されました。
偶然てすてきですね。
明日は、おもわせぶりな詩について話し合いましょう。




