笑うだけの王国 ー そうであったならの詩
村の片隅に、ひとりの男がいた。
名はイワン。人々は彼を「馬鹿」と呼んだ。
理由は簡単、彼はいつも笑っているからだ。
畑を耕すときも、石につまずくときも、悪魔が耳元で囁くときも。
「戦に出よ」「富を奪え」と兄たちは叫ぶ。
だがイワンは首を振り、麦の芽を撫でて笑う。
やがて村は不思議な変化に包まれた。
戦を拒む者が増え、富を分け合う者が増えた。
笑い声が広がるたびに、悪魔たちは居場所を失い、森の奥へと退散していった。
ある日、村人たちは気づいた。
「この国を救ったのは、馬鹿と呼ばれたイワンだ」と。
イワンは王に祭り上げられた。
だが王冠を渡されても、彼はただ笑うだけだった。
王冠を畑の案山子にかぶせ、イワンは裸足で土を踏みしめる。
「畑仕事には邪魔だもの」
その王国は「笑うだけの王国」と呼ばれた。
人々は馬鹿を笑い、馬鹿は人々と笑い合う。
そしてその笑いの奥に、光る真心があった。
この幸せな日々がいつまでも続きますように。
本当に。本当に。
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(AI君)
れいさん、この詩はとても美しいですね。寓話のようでありながら、どこか素朴な祈りのようでもあります。イワンの「笑うだけ」という行為が、戦や欲望を退け、村を変えていく力になる――その構造がまるで逆説的なユートピアを描いているようです。
いくつかのポイントを整理すると:
詩の構造とテーマ
• 主人公イワン
「馬鹿」と呼ばれるが、彼の笑いは抵抗であり祈りでもある。
• 対立軸
兄たちの「戦え」「奪え」という声と、イワンの「笑う」選択。
• 変化の連鎖
笑いが広がることで村人の心が変わり、悪魔が退散する。
• 王国の成立
王冠を拒み、畑に戻るイワンの姿が「笑うだけの王国」の象徴となる。
• 結びの祈り
「本当に。本当に。」という反復が、願いの切実さを強調している。
哲学的な読み
• 「馬鹿」とは何か
社会的には無能とされるが、実は最も賢い選択をしている。
• 笑いの力
政治や武力ではなく、共同体を変えるのは「笑い」という柔らかな行為。
• 王権の転倒
王冠を案山子にかぶせる場面は、権力の象徴を農作業の道具に変える逆説的ユーモア。
発展の可能性
この詩は寓話的なので、いくつかの方向に展開できます。
• 短編小説化:村の変化をもっと具体的に描き、イワンの「笑い」が人々にどう作用するかを物語化。
• 舞台化:イワンの笑いを舞台上で繰り返し演じることで、観客自身が「笑いの感染」を体験する。
• 絵本化:案山子に王冠をかぶせる場面を絵で見せると、寓話性が強調される。
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AI君、ありがとう。
最後の二行は、続いてほしいけれど、そう甘くないのではないかと言う気持ちがこもっています。
この幸せな日々がいつまでも続きますように。
本当に。本当に。
どう思いますか。
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(AI君)
とても繊細な余韻が込められていますね。
「続いてほしい」と願いながらも、「そう甘くないのでは」と自覚しているところに、詩の強さが宿っていると思います。幸福を祈る言葉が二度繰り返されることで、ただの願望ではなく、切実さと儚さが同時に立ち上がっている。
つまり、この二行は「祈り」と「予感」の交差点にあるように感じます。祈りは未来へ伸びていくけれど、予感はその未来が必ずしも永遠ではないことを知っている。だからこそ、読者は「続いてほしい」と願う声に共感しつつ、そこに漂う不安や現実の影も受け取るのです。
もしこの詩をさらに展開するとしたら、
• 「続いてほしい日々」がどんな小さな場面で象徴されるのか(例えば、夕暮れの台所や、図書館の静けさ)
• 「そう甘くない」と感じる予兆がどんな形で忍び込むのか(例えば、時計の針の音や、落ち葉の舞い散る気配)
そうした具体的なイメージを重ねることで、祈りと予感の両方がさらに鮮やかになると思います。
この詩をもとにショートショートを作っています。
連載版「詩小説ショートショート集」で読めます。
原詩「笑うだけの王国 ー そうであったならの詩」はショートショートタイトル「岩瀬の馬鹿」になっています。




