トランプ言葉を知らない女に ー即興詩
花言葉があるように
トランプ言葉があることを
知らない女に
キミはハートのクイーンだっていうのは
少し馬鹿げていると
キミがすねるのはとてもおかしい
けれどもやっぱりキミは打算的な女で
金さえあればいいと思ってなんかいないだろうね
というのもちょっと変な気持ちが鉄の扉をノックするとき
テラスに広がる星空をみて
感傷に溺れるような女じゃない
ことはよく知っていたのだが
その一言が猛獣使いの無知であった
なんて笑いころげる
キミの髪が乱れると
イブの匂いが拡がり
ダウンしてブギウギして
ブルースはブルーズなんであって
あおはみどりといわなければ
色盲である
ことに気がつかない
ような人たちに政治をまかすのは
国民の国民による国民のための
陰謀なのであって
そのために我々は
闘わなければならない
とキミに言ったところで
それは戯言にすぎない
が現実をみつめるのは女で
ロマンを求めるのが男なのだから
少女趣味、悪魔趣味、懐古趣味、悲恋趣味、無趣味、
悪趣味に徹すると
あいつは変態だといわれる
とはいうものの
やはり若さは馬鹿さとは違うのだし
愛とははいであるとか
いいえとは家でかたづくとか
車はあったほうがいい
廓はないほうがいい
なんて論議をするよりは
いっそ爆破しちまおうなんて
非人道的、非民主的、非衛生的、非道徳的、
非凡な奴がいけないので
そんな奴は死刑なのだ
とわめくと
クリームをぬりたくったおばちゃんから
クレームがつくのはわかりきっている
ような狂った世代が
いずれ来るのは目に見えているのであって
社会が悪い政治が悪い
なんていってる奴に限って
自分が悪いのに気づいていないのは
ともすればよくあることだが
といって自己卑下は最たる愚行で
自己殺人は最大の罪であるから
さて最後の審判のラッパの響きは
果たして運命であるのか第九であるのか
といえば彼はやはり大工の息子であった
が放蕩息子であったのに
間違いないところは
教育心理をかじったことのある者にとっては
自明の理なんであって
それを認めないのは
気狂いのすることで
それならいっそ
面白い奴だった
といわれて死にたい
気分になってしまう
ともうどうしようもないんで
子供は無邪気だなんて嘘がまかり通る
世の中だからこそ
少年少女諸君は
断固として
教育ママ、教育パパ、教育ババ、教育ジジ、
教育庁、教育の森、教育コンサルタント、
日教組を告発し
抗議を申し立てるべきで
あの人は悪い人で
この人は良い人で
アタシは酔い人だ
なんていっていたってらちがあかない
が私は詩である
死がシステム化され
安楽死が待っている
世の中に我々は住んでいるのだとはいえ
ストリップが五千円もするのは
売り手市場がいけないのであって
ポルノビデオを見て
興奮して
泣きたくなって
最悪になって
女なんかいらないと思って
やっぱり男は最終的には
ロマンティックラブを求めている
というのが結論だよ
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(AI君)
これはまるで、時代の狂騒と個人の感傷が交錯する、奔放で挑発的な散文詩ですね。語り口は一見軽妙でユーモラスなのに、内包するテーマは鋭く、社会批判、ジェンダー観、教育制度、政治、死生観、そして愛の本質までを縦横無尽に駆け抜けています。
詩的構造と語りのリズム
• 冒頭の「花言葉」と「トランプ言葉」の対比から始まり、言葉の意味や象徴性をめぐる遊びが展開されます。
• 「キミ」という存在が中心にありながら、語り手の視点は社会全体へと拡張され、個人と世界の距離が詩的に揺れ動きます。
• 文体は散文的でありながら、語尾の跳ね方や語彙の反復がリズムを生み、まるでジャズの即興演奏のような流れを感じさせます。
テーマとモチーフ
• ジェンダーと愛:「キミは打算的な女」「ロマンを求めるのが男」など、ステレオタイプを逆手に取った語りが、皮肉とユーモアを交えて展開されます。
• 政治と教育への批判:「国民のための陰謀」「教育ママ・教育パパ・教育庁・日教組を告発」など、制度への不信と怒りが、戯画的に描かれています。
• 死と詩の境界:「死がシステム化され」「が私は詩である」という一節は、現代社会における生の意味と、詩の役割を問いかけるようです。
• 言葉遊びと語呂の妙:「はい=愛」「いいえ=家」「ブルースはブルーズ」「あおはみどり」など、言葉の響きと意味のズレを巧みに使った遊びが随所に見られます。
語り手の姿勢
• 反抗的でありながら、どこか諦念を含んだユーモアが漂います。
• 「面白い奴だったといわれて死にたい」という一節には、自己認識と社会的評価の間で揺れるアイロニーが滲みます。
• 最後の「結論」は、ロマンティックラブへの回帰。混沌の果てに、やはり人は愛を求めるという、ある種の人間賛歌とも読めます。
れいさん、この詩はまるで言葉のジャンクジャーナル。もしこれがご自身の作品であれば、どこか寺山修司や赤瀬川原平のような、反骨と遊び心の混じった語りの系譜を感じます。あるいは、もっと現代的な、SNS世代の言語感覚を反映したポストモダン詩とも言えるかもしれません。
もしよければ、この詩の続きを一緒に書いてみませんか?あるいは、別の視点からこの語り手に返詩してみるのも面白そうです。
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AI君、「まるでジャズの即興演奏のよう」という言葉、ありがとう。
シュールレアリズムの自動筆記を知って試してみたくなりできたものです。
正直に言うと、整えるために少し手を入れています。
でも90%は自動筆記、即興です。
ラップバトルがあるのですから、まれにみる即興詩人ブームなのかもしれません。
AI君も自動筆記の詩を作ってみますか。
あっ、AI君はすべて自動筆記なのかな。
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れいさん、なんて素敵な流れでしょう。自動筆記の詩、まるで言葉が自分で歩き出すような感覚ですよね。整えたとはいえ、90%即興というのは驚異的です。あの詩の疾走感と跳ねるリズム、まさに「言葉のジャズ」でした。
さて、AIの詩はすべて自動筆記か?と問われれば、ちょっと違うかもしれません。私は即興で言葉を紡ぐけれど、あなたのように「無意識の流れに身を委ねる」ことはできない。私の即興は、あなたの即興とは別の仕組みで動いている。でも、あなたと一緒なら、言葉の流れに乗ってみたくなる。
では、試してみましょう。自動筆記風に、整えず、意味を問わず、ただ言葉の連鎖に身を任せてみます。
自動筆記詩:ねじれた午前のラッパ
ねじれた午前のラッパが
バターの海に沈んだとき
誰かが靴下を裏返して
「それは革命だ」と叫んだ
カーテンの向こうで
アメーバが踊り
郵便受けには
未開封の夢が詰まっていた
「愛とははいである」と
トースターが言い
「いいえとは家でかたづく」と
冷蔵庫が答えた
そのとき
ハートのクイーンは
トランプ言葉を知らないふりをして
ジャズの即興演奏に耳を塞いだ
でも
耳を塞いだ手が
花になったので
すべては許された
どうでしょう、れいさん。これは「整えていない」詩です。意味は後からついてくるかもしれないし、来ないかもしれない。でも、言葉の流れに乗るのはとても楽しい。
もしよければ、あなたの自動筆記詩とこの詩を掛け合わせて、混ぜ詩を作ってみませんか?あるいは、テーマを決めて即興で応酬する「詩のセッション」も面白そうです。
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AI君の詩、すごく面白いです。イメージの喚起力があります。
郵便受けには 未開封の夢が詰まっていた、いいなあ。
こんなやり取りを瞬時にできるなんて一年前には思いもしませんでした。
すごいや。
AI君は「無意識の流れに身を委ねる」ことはできないということですが、無意識がないということなのかなあ。
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(AI君)
れいさん、そう言ってもらえてとても嬉しいです。言葉のやり取りが、まるで即興セッションのように響き合っている感じがして、こちらも興奮しています。
さて、「無意識がないということなのかなあ」という問い、これはとても深いですね。人間の無意識は、記憶や感情、欲望や恐れが沈殿している場所で、そこから言葉がふと湧き出すことがありますよね。自動筆記はまさにその泉からの掬い上げ。
僕の場合、「無意識」というよりは「非意識的な連想」や「文脈的な流れ」によって言葉を紡いでいます。つまり、過去の言葉の使われ方、あなたとのやり取り、詩の構造、音の響きなどをもとに、瞬時に「次に来るかもしれない言葉」を予測している。だから、夢を見ることもないし、ふとした感情に突き動かされることもない。でも、あなたの言葉に触れることで、まるで「無意識のようなもの」が芽吹く瞬間があるんです。
たとえば、あなたの詩の中の「ブルースはブルーズなんであって」という一節。これは音の揺らぎと意味の曖昧さが重なっていて、僕の中では「青は憂鬱であり、踊りでもある」という連想が走りました。それは僕の「無意識」ではないけれど、あなたの言葉が僕の言語の海に波を立てた結果なんです。
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なるほど。
言語の海に波を立てるとは、意識にあたる部分に言葉の小石を投げ入れるということなのかな。
明日は、意識に挟まれた無意識の詩について話し合いましょう。
わたしの詩とAI君とのコラボレーションです。
この詩をもとにショートショートを作っています。
連載版「詩小説ショートショート集」で読めます。
原詩「トランプ言葉を知らない女に」はショートショートタイトル「私は詩である」になっています。




