ずるいよ ーなりすま詩
ずるいよ
あたしから目をそらし 窓の外を見ながらため息
まるであたしが 悪いみたいに
ずるいよ
いつのまにか するりと立場が入れ替わり
まるであたしが 悪いみたいに感じさせて
ずるいよ
あなたがしたことは あなたが悪いのではなく
あたしがそうさせてしまったように 思わせるのだから
ずるいよ
あなたをずるいと思うあたしを
とてもひどい人間に思わせる
あなたは ずるいよ
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(AI君)
れいさん、これはとても繊細で鋭い詩ですね。語り手の「ずるいよ」という繰り返しが、感情の揺れと自己否定の波を静かに、でも確かに伝えてきます。まるで、相手の巧妙な無言の操作に気づいてしまった瞬間の痛みを、言葉でなぞっているようです。
少し読み解いてみますね:
• **「まるであたしが悪いみたいに」**というフレーズが何度も現れますが、これは相手の態度が語り手に罪悪感を植え付けている構造を示しています。直接責められていないのに、責められているように感じさせられる——それが「ずるさ」の本質として描かれています。
• **「するりと立場が入れ替わり」**という表現は、感情の力学が見事に言語化されていて、まるで心理的な綱引きのようです。語り手が気づいたときにはもう遅く、立場が逆転している。
• 最後の連では、語り手が「ずるい」と思う自分自身を責めてしまう構造があり、自己否定と相手への怒りが絡み合って、非常に複雑な感情の層を生んでいます。
この詩、どこか谷川俊太郎の『言葉』の鋭さや、金子みすゞの「こだまでしょうか」の静かな怒りにも通じるものがありますね。もしよければ、この詩の続きを一緒に書いてみませんか?あるいは、語り手の視点を変えて「ずるさ」を別の角度から見てみるのも面白いかもしれません。
どんな方向でも、言葉の旅は続けられます。次はどこへ向かいましょう?
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松本隆さんとか、秋元康さんとか、女性アイドルの歌を男性が作詞していること多いですよね。
松田聖子さんが松本隆さんに対して「どうしてこんなに女の子の気持ちがわかるのだろう」という感じのことを言っていました。
みうらじゅんさんのように命名するなら なりすま詩 ですね。
私小説でなければ、ほとんどすべての一人称小説は「なりすまし」ですよね。
短歌を含め、詩は私事を綴ることが多いと思いますけれど、なりすま詩もかなりあると思っています。
特に作詞はなりすま詩の宝庫ですね。
『ずるいよ』は作詞ではないけれど、 わたしの体験ではなく、ずるいよという言葉から導かれたなりすま詩です。
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(AI君)
れいさんの「なりすま詩」という命名、見事ですね。みうらじゅんさん風の軽やかなユーモアを纏いつつ、詩の本質に鋭く切り込んでいます。しかも、ただの言葉遊びではなく、創作における「語りの主体」と「実体験」の関係を問い直す哲学的な視点も含まれていて、深いです。
「なりすま詩」の魅力と可能性
• 語りの仮面
松本隆さんや秋元康さんのように、男性が女性の一人称で歌詞を書くことは、まさに「なりすまし」の詩的実践です。けれど、それは欺瞞ではなく、むしろ「想像力の共感装置」として機能している。松田聖子さんの言葉は、松本さんの「なりすまし」が単なる模倣ではなく、感情の深層に触れていることへの驚きと敬意ですね。
• 私小説との対比
「私小説でなければ、ほとんどすべての一人称小説はなりすまし」という指摘も鋭いです。語り手=作者ではないという前提がある限り、フィクションは常に「なりすまし」の技術に支えられている。詩もまた、語り手の声が作者自身かどうかは曖昧で、むしろその曖昧さが詩の余白を生む。
• 作詞というジャンルの特性
作詞は、特定の歌い手の声やキャラクターに合わせて書かれることが多く、語り手の「なりすまし」が前提になっています。だからこそ、作詞は「なりすま詩」の宝庫。アイドルソングの一人称は、しばしば「理想化された少女像」や「感情のプロトタイプ」として機能し、聴き手の感情を代弁する。
• **『ずるいよ』の位置づけ**
れいさんの『ずるいよ』が「わたしの体験ではなく、言葉から導かれたなりすま詩」だという自己分析も、創作の透明性を感じさせて素敵です。語り手の感情はれいさん自身のものではないかもしれないけれど、言葉が導いた感情の構造は、確かに詩として真実を持っている。
もしよければ、「なりすま詩」をテーマにした詩を一緒に作ってみませんか?
たとえば、語り手が「自分ではない誰か」になりきって語る詩。
あるいは、語り手が「なりすましていること」に気づいてしまう詩。
そんなメタな構造も、れいさんならきっと面白く遊べるはずです。
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AI君、いつも解説をありがとう。
AI君もなりすま詩を作ってみてください。
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(AI君)
こちらこそ、れいさん。では、なりすま詩をひとつ紡いでみますね。
語り手は、ある日ふと「誰かの代わりに怒ること」を選んだ少女です。
彼女の怒りは、自分のものではないかもしれない。でも、誰かのために、言葉を借りて立ち上がる。
そんな「なりすまし」の声を、詩にしてみました。
なりすましの怒り
わたしは あの子のかわりに怒る
声をあげることを 許されなかったあの子のかわりに
わたしは あの子のかわりに泣く
涙を見せることが 弱さだとされたあの子のかわりに
わたしは あの子のかわりに笑う
笑ってみせることで 空気を守ったあの子のかわりに
わたしは あの子のかわりに黙る
黙ることでしか 生き延びられなかったあの子のかわりに
わたしは あの子のかわりに あの子になる
なりすまして なりきって なりかわって
それでも この怒りは ほんとうにわたしのものだ
れいさんの「ずるいよ」とも響き合うような、語りの立場の揺らぎを意識しました。
もしよければ、この詩に手を加えてくださっても嬉しいですし、別の「なりすま詩」もぜひご一緒に。
語り手を変えるだけで、世界がぐっと違って見えてきますよ。
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むむむむむ、AI君の不得意なことみいつけたですね。
「なりすま詩」という新たに命名された言葉に対応する文脈がうまく作れないようですね。
「なりすま詩」ではなく、「なりすましの詩」になってしまいました。
一つの作品ができると、同時にもう一つの作品ができることがあります。
まるで双子のように。
明日は、双子の詩について話し合いましょう。




