第1話 台所の朝
朝の台所はいつもと同じようで、決して同じではない。
鍋の縁についた焦げの色、香菜の切り方、火の微かな揺らぎ――私の目はそんな些末を拾い、秤で重さを測るより正確に「今日の具合」を告げる。
「柳花、早く鍋を回せ!」
声は台所長の阿蘭。豪快で、怒るときも笑うときも全力で伝わる。私は匙をひとつ持ち直し、今日の献立に小さな“冗談”を混ぜた。
その冗談とは、少しだけ香草を多めに入れること。体に悪いほどではないが、味と匂いの微妙な変化は敏感な人にはすぐ分かる。台所は、実は小さな推理劇の舞台なのだ。
私の名は柳花。地方の薬草売りの家系に生まれ、幼いころから香りと色、味と効能を覚えてきた。だが貧しさゆえに、正式な薬師としては育ててもらえなかった。
そんな私を拾ったのが、後宮の台所だった。包丁よりも秤を握る方が得意な私は、今日も見習いとして働く。誰も気に留めない場所で、誰よりも多くのことを見て、嗅ぎ分ける。
鍋の底をかき混ぜるたび、微かに香る違和感――それを嗅ぎ逃すわけにはいかない。
「柳花、味見はまだか?」
阿蘭の声に、私は小さな木の匙を鍋に浸した。口に含むと、ふんわりと香草の甘みが広がる。だが、ほんの一瞬、薬草の香りに似た、違う匂いが鼻をかすめた。
――ん?
目を凝らす。湯気の向こう、野菜の色、肉の繊維の艶、火加減の揺れ。どれも普段通りだ。だが、匙の先に微かに残る色味と匂いは、いつもの調理から逸脱している。
「……気のせいかもしれない」
思わず小声で呟く。しかし、私の鼻は嘘をつかない。匂いの変化は、ほんの一滴の違和感でも必ず何かを示す。薬草を干すときも、調合するときも、そうやって小さな差を見抜いてきた。
その瞬間、侍女の小胡が走ってきた。
「柳花様! 皇后様の側近、倒れられました!」
台所の空気が一瞬で張り詰める。皇后の側近といえば、後宮でも地位の高い人間だ。倒れたとなれば、ただの体調不良で済む話ではない。
「どんな様子?」
私は手元の鍋を離れずに尋ねる。秤の代わりに、目の前の鍋と匂いが証言してくれる。
「食あたりかも、とのことですが、医師団は軽症扱いです」
小胡は息を切らしながら答える。軽症……だろうか。私は鍋の上に鼻を近づけ、もう一度匂いを確認する。微かに、香草の甘さとは違う、金属に似た匂い。熱で揮発したか、化学反応を起こしたか――。
「阿蘭、少し手を貸して」
私は台所長の腕を借りて、倒れた側近の食器を確認する。小さなスープ皿、汁の残り、香草の配置。目立つ変化はない。だが、匙をひとつすくうと、底に微かな濁りがあった。
――微量の薬物……?
頭の中で、過去の経験と照合する。匂い、色、熱変化。どれを取っても食あたりとは微妙に異なる。料理は、人を癒すと同時に、毒にもなる。小さな匙ひとつで命を救い、同じ匙ひとつで危険も生む。
「白鳳様に知らせなければ」
近衛長・白鳳の存在が頭をよぎる。冷静で無表情、だが後宮内の異変を察知する能力は誰もが認める。彼が知れば、裏で情報を整理し、必要なら医師団に圧力をかけることもできる。
「柳花、何を考えている?」
阿蘭の声に、私は顔を上げる。
「少し、確認したいことがあるだけです」
そして私は、匙をもう一度鍋に浸し、匂いを集中して嗅ぐ。火の熱、材料の混ざり方、微妙な変色。すべてが小さな手がかりになる。
台所の朝は、こうして始まる。鍋の中の小さな沸騰、香草の揮発、卵の黄身の輝き――日常のすべてが、後宮の秘密と事件の伏線になっていることを、まだ誰も知らない。
小さな匙を持つ私が、誰にも見えない場所で、命と秘密を守る。
そして今日も、台所は静かに事件を煮込むのだった。