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封印の扉の亀裂から漏れ出す黒い霧は、ただの煙ではなかった。
それは形を持たぬままに意思を宿し、見る者の心へ直接語りかける“声”だった。
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『……なぜ抗う……?
おまえたちもまた脆き人の子……
永遠の安らぎを与えてやろう……』
低く、耳障りで、しかし甘美な響きを持つその声は、仲間たちの胸の奥深くへと入り込んだ。
ティオは小さく悲鳴を上げて耳を塞ぐ。
「や、やめて……! 僕の頭の中に直接……!」
バルドは怒鳴り声を上げ、剣を振りかざした。
「うるせぇ! くだらねぇ囁きで俺たちを惑わせようってのか!」
だが、その豪胆な男の拳も微かに震えている。
影の声は、彼の戦士としての誇りや生への執着を削ぎ落とそうとしていた。
フィリクスは額に汗を浮かべ、必死に自分を律するように呟いた。
「……これは心理的干渉……いや、それ以上か……理屈では抗えん……」
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沙耶の耳にも声が届いた。
――おまえの学びは無駄だ。
――異世界の知識など、この地では誰も求めていない。
――孤独な魂よ、こちらへ来い。
その言葉は、彼女の心を抉った。
確かに沙耶は、この世界では異端であり、学者としての立場も保証されてはいない。
フィリクスに「素人考古学」と嘲られた記憶が胸を刺す。
――この世界で、本当に自分は必要とされているのだろうか?
影の囁きは巧妙に心の隙を突く。
しかし同時に、彼女の頭には別の声も響いた。
――焚き火の夜、ティオが「弟子にしてほしい」と言った顔。
――バルドが「お前の知識は役に立つ」と豪快に笑った声。
――そして、フィリクスでさえ「君の異端の知識、認めてやろう」と言った言葉。
沙耶は歯を食いしばり、首を振った。
「……私は……必要とされてる。
この知識があるから……この仲間たちがいる!」
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そのとき、エリュシアが前に出た。
彼女の身体から淡い光が溢れ、黒い霧に押し返すように広がっていく。
『影よ……おまえは欺瞞と虚無。
だが私は“記憶”……光に仕えし者。
この者たちの絆は、決しておまえには断ち切れぬ』
霧がうねり、苦痛のような声が響いた。
『……ほう……小さき精霊よ……まだその力を保っていたか……
だが……永劫の影の前には……塵芥にすぎぬ……』
光と影が衝突し、最奥の間は震動に包まれる。
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フィリクスが額の汗を拭い、必死に言葉を絞り出した。
「……封印は、まだ完全には解けていない。
影は“言葉”で揺さぶり、我々自身に開放の選択を迫っている。
つまり、耐えれば……奴を完全に呼び覚ますことは防げるはずだ!」
バルドが吠える。
「だったら答えは一つだ! 絶対に屈しねぇ!
仲間を犠牲にする儀式なんざ、俺は認めねぇ!」
ティオは涙を拭き、沙耶を見上げた。
「ぼ、僕も……逃げない!
沙耶さんが教えてくれた……“考古学は真実を明らかにする学問”って言葉……
その真実から、僕は目を逸らさない!」
沙耶は仲間たちの言葉に胸を熱くし、霧へと叫んだ。
「聞こえる!? 私たちは誰一人として犠牲にしない!
知識と力と勇気で、この封印を守り抜く!」
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その瞬間、エリュシアの光がさらに強く輝いた。
霧は後退し、亀裂からの漏出が一時的に止まる。
『……愚かなる者どもよ……
だが……抗い続けられるかな……
いずれ……光は衰え……影は満ちる……』
最後に不気味な予告を残し、声は一旦途切れた。
扉はまだ閉ざされたまま。
だが、その奥には確かに“存在”が蠢いている。
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全員が荒い息をつき、互いに顔を見合わせた。
ティオの頬には涙が残っているが、その瞳は恐怖を超え、強い光を宿していた。
バルドは肩で笑い、仲間たちの背を順に叩いた。
「やるじゃねぇか。誰も折れなかったな」
フィリクスは眼鏡を押し上げ、少し疲れた顔で呟いた。
「……私も、危うく揺らぐところだった。
だが……君たちがいたから耐えられた。……ありがとう」
沙耶は静かに扉を見上げる。
「まだ……終わっていない。
本当に“災厄”が再び目覚めるかどうか……私たち次第」
そして、その決意は仲間たちの胸にも確かに刻まれていた。