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砂兵たちが消えたあとも、神殿の空気は重苦しいままだった。
石壁に刻まれた碑文はまだ淡い光を帯び、さらなる謎を呼びかけるように瞬いている。
フィリクスはその光を凝視し、前髪の影から不敵な笑みを覗かせた。
「……やはり、この神殿の核心は“神話”だ。君の暦や星の理屈だけでは解けない」
沙耶は疲労を抱えながらも毅然と返す。
「神話は記録を誇張したもの。真実を隠す仮面よ。科学的な仕組みを読み解けば、必ず道は拓けるわ」
二人の言葉が再びぶつかり合う。
バルドはため息をつき、頭をかきながら呟いた。
「お前ら、もう少し仲良くできねぇのか?」
ティオは苦笑いしつつも、目を輝かせていた。
「でも……二人とも、本当にすごいです。言ってることは違うのに、どっちも正しい気がして……」
その言葉は、二人の心に小さな棘のように残った。
――相容れないようでいて、互いの知識が補完しあっているのかもしれない。
⸻
その夜。
一行は神殿内部の広間に野営を設けた。
松明の炎が石壁を赤く照らし、砂漠の冷気が忍び寄る。
沙耶は火を囲みながら、残された碑文をノートに写していた。
異世界に来てから紙や筆記具をどう調達するかに苦労したが、今は王都製の簡易帳面をフィリクスから借りている。
彼女は必死に線や記号を写し取り、頭の中で古代文明の体系を組み上げていった。
(……暦、星座、そして血の儀式。どれも単独では不完全。複合的なシステムが隠されている……)
集中のあまり、炎の音も仲間の気配も忘れていた。
そのとき、不意に視界の端で影が動いた。
「……フィリクス?」
彼は火から離れ、単独で奥の通路に足を踏み入れていた。
松明を掲げ、壁を指でなぞりながら、低く呟いている。
「……やはり……“災厄の王”……“声と血の契約”……そうか……!」
沙耶は眉をひそめた。嫌な予感がした。
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やがて、通路の先から鈍い音が響いた。
石の擦れる音、そして短い悲鳴。
「っ……!?」
沙耶は反射的に立ち上がり、松明を掴んで駆け出した。
奥の広間に辿り着くと、そこには――床から伸びた鎖のような石の腕に捕らわれたフィリクスの姿があった。
「くっ……! しまった……!」
石の鎖は彼の足首と腕を締め上げ、じわじわと壁へと引きずり込もうとしている。
まるで“生贄”を飲み込むように。
「フィリクス!!」
沙耶は咄嗟に駆け寄り、壁の碑文を見た。
――そこには明らかに「供物」と「解放」の文字が並んでいる。
(これは……“人を犠牲にして開く仕掛け”! でも……違う、文字の流れが不自然。きっと別の解法がある!)
理性が叫ぶ。学者としての直感が、犠牲を否定していた。
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「沙耶、逃げろ……! この場は俺が……」
フィリクスは苦痛に顔を歪めながらも、声を絞り出した。
「馬鹿言わないで!」
沙耶は鋭く叫び、壁の文様を手でなぞる。
「ここ、“声”って単語は“歌”とも読めるのよ! 血じゃなくて、声による共鳴で解放できる可能性がある!」
フィリクスの目が驚きに揺れる。
「……歌……?」
「そうよ! この記号、音階を示すんだわ!」
沙耶は思い切って声を張り上げた。
異世界の言葉で、碑文に刻まれた旋律を辿る。
最初は掠れ、震えていたが、やがて不思議な共鳴が空間を満たした。
壁が共鳴し、石の鎖が震える。
フィリクスを縛る力が少しずつ弱まり、砂となって崩れ落ちていった。
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解放されたフィリクスは膝をつき、荒く息をついた。
沙耶は松明を掲げ、彼の前に立つ。
「……勝手な行動で死ぬ気だったの? あなたは学者でしょう。真実を解き明かすために生きるんじゃないの?」
フィリクスは沈黙した。
彼女の叱責に反論する気力はなく、ただ己の未熟を噛み締めていた。
やがて、彼は視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。
「……君の解釈が……正しかったな」
その声は、皮肉も冷笑も含まれていなかった。
ただ、学者としての純粋な敗北を認める響きだった。
沙耶は静かに頷いた。
「いいえ。あなたが“血と声”に気づかなければ、私は“歌”には辿り着けなかった。……つまり、二人で一つだったのよ」
その言葉に、フィリクスはわずかに顔を上げる。
火の明かりが、長い前髪の奥の表情を照らした。
彼は思わず苦笑する。
「……妙な女だな、君は」
沙耶も微笑み返した。
「あなたこそ」
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そのとき、後ろから駆け寄る足音。
バルドとティオが遅れて広間に入ってきた。
「おい! 何があった!?」
「沙耶さん、大丈夫!? ……フィリクスさん、怪我してるじゃないですか!」
二人の姿に、緊張が一気に解ける。
広間の空気は冷たいままだが、そこには確かな“連帯感”が生まれていた。