第1話:砂漠の神殿にて1
砂煙が収まり、あたりは静けさを取り戻した。
奈落に落ちていった怪物の咆哮は、もう聞こえない。代わりに、乾いた風が砂を運んでいく音だけが耳に残った。
「……ふう」
大剣を肩に担ぎ直し、鎧の大男が大きく息を吐いた。
額には汗が滲んでいるが、その表情には疲労よりも安堵の色が濃い。
「おい、嬢ちゃん」
低い声で呼びかけられ、沙耶ははっと我に返った。
彼女はいまだ鼓動の速さが収まらず、両手を胸に当てたまま立ち尽くしていた。
「さっきの……何だったんですか」
かすれた声で問うと、男は剛毅な顔に苦笑を浮かべる。
「サンド・ビーストだよ。砂漠の獣だ。あの神殿に巣くってやがったらしい」
「……初耳の生物名ですね」
「そりゃそうだ。ここはアリダ砂漠、帝国の南端にある遺跡群のひとつだ。よそ者が来るような場所じゃねぇ」
帝国。遺跡群。
聞き慣れない単語が立て続けに出てきて、沙耶の思考が一瞬止まった。
だが同時に──胸の奥がわくわくと震え始める。
まるで文献でしか読んだことのない、失われた文明を目の当たりにしているような感覚。
いや、目の前の大男の言葉からすれば、それは比喩ではなく現実なのだ。
「……あの、助けていただいて、ありがとうございます」
深く頭を下げると、男は豪快に片手を振った。
「気にすんな。放っといたら嬢ちゃん、あの獣の腹の中だったからな」
そう言って笑う。声は粗野だが、不思議と温かみがある。
「俺はバルド。ちょっとした傭兵だ。剣を振るって金をもらうのが仕事よ」
「バルドさん……」
改めて見上げると、屈強な体躯に分厚い胸板、背丈は二メートル近い。
いかにも戦士然としたその姿は、頼もしさと同時に迫力を与えた。
沙耶は一度唇を噛み、それから名乗る。
「私は──真壁沙耶といいます。日本から来ました」
「にほん? 聞いたことねぇ地名だな」
「……ですよね」
やはり、と胸の中で呟く。
ここはもう、元の世界ではない。
大学院の研究室で、机に広げた資料を読んでいたはずだった。
それが、次の瞬間には灼熱の砂漠に立っていた。
そして今は、異形の獣と、帝国の遺跡と、豪胆な戦士と──。
ありえない出来事だ。
だが不思議と、沙耶の心に恐怖よりも好奇心のほうが勝っていた。
(……私、本当に異世界に来ちゃったんだ)
喉の奥から笑いがこみ上げる。
呆れるほど現実味がなく、それでも確かな実感があった。
「で、嬢ちゃん。あんた、さっきのは何だ? あの罠を見抜いたの」
バルドが興味深そうに問いかけてくる。
「ただの偶然じゃねぇだろ。床の模様見ただけで危険を察したんだ」
「えっと……私は考古学を専攻してまして」
「こうこがく?」
「過去の遺跡や文明を研究する学問です。壁画や建物の配置から、造った人の意図を読み取るんです」
「……」
バルドは難しい顔で腕を組んだ。
「悪いな、半分もわかんねぇ」
「ですよね……」
だが、理解されなくても構わない。
この世界に遺跡が存在するなら、彼女の知識は必ず役に立つ。
それが、ほんの数分前に証明されたばかりだ。
「とにかく、私はこういう遺跡を見るのが大好きなんです」
興奮を隠せずに言うと、バルドは呆れたように吹き出した。
「物好きな嬢ちゃんだな。普通は近寄らねぇよ。遺跡なんざ、魔物か盗賊の棲み処だ」
「それでも……私は知りたいんです。この文明が、どうしてここに神殿を築いたのか」
視線を神殿へ向ける。
砂に埋もれかけた石の階段、太陽を象ったレリーフ。
その一つ一つが、彼女には謎を解く鍵に見えてならなかった。
バルドは肩をすくめると、大剣を背に戻した。
「わかった。嬢ちゃんが行きたいなら付き合ってやるよ。どうせ俺も依頼で神殿を調べに来たんだ」
「依頼……?」
「ああ。村からの頼まれだ。この神殿の奥に、不吉な気配があるってな」
沙耶は大きく頷いた。
偶然ではなく、必然のように思えた。
彼女がここに来たのは──この神殿と出会うためだったのだ。
「じゃあ、行きましょう」
声は自然と弾んでいた。
「おいおい、嬢ちゃんは本当に怖いもん知らずだな」
呆れつつも、バルドの口元には楽しげな笑みが浮かんでいる。
二人は並んで、神殿の入口へと歩き出した。
灼熱の太陽の下、砂を踏みしめながら。