■第9章:オレは化粧をする
ショーツまで買い終わって、ようやく解放されるかと思ったオレの希望は──
つむぎの一言であっさり打ち砕かれた。
「さ、じゃあ次は化粧品コーナー行こか♪」
「……は? まだあんの?」
「女の子として外出るなら、化粧も覚えなあかんで。別に濃いのはせんでええけど、ちょっとは整えとこ」
──そんな理屈があるかっ。
そう言いたかったが、もう何を言っても無駄やという空気を察して、オレはしぶしぶ後に続いた。
エスカレーターを下りた先、1階のフロアはキラキラした光とガラスの什器に囲まれた、別世界のような場所だった。
──化粧品売り場。
つややかな髪を揺らす女性たちが、次々とテスターを手に取っては、鏡の前で眉を整えたり、指先でリップをぼかしたりしている。
どこもかしこも、オレの知ってる世界と違いすぎて、足がすくんだ。
「え……オレ、ここ入ってええんか?」
「お兄、今の見た目でそれ言う? どこからどう見ても女の子やん」
つむぎは、いたずらっぽく笑って、ずかずかとその世界に入り込んでいった。
──ほんまに、肝が据わっとる。
オレは周囲の視線が気になって、キャップのつばをぐいっと下げた。
「見てみて、お兄! ここのブランド、無料のタッチアップやってるんやって。今なら空いてるブースあるし──」
そう言った瞬間、オレは手首をぐいっと引っ張られ、鏡の前のイスに座らされた。
「ちょ、ちょっと待てって!」
「店員さーん、この子、化粧してもらえますか? 初めてなんです」
「……えっ」
パウダリーな香りの中、白衣姿の女性がやってきた。
見るからにメイクがバッチリ決まってて、まるで雑誌から出てきたみたいな美人や。
「こんにちは、ご体験ありがとうございます♪」
「え、いや、その……」
「初めてのお化粧なんですね? 楽しみにしててください。今はナチュラル系が人気なので、ふんわり仕上げていきますね」
つむぎが笑いをこらえながら、後ろで小さくガッツポーズを決めてる。
「では、始めますね。まずはスキンケアで整えて……はい、目閉じてくださーい」
冷たいローションが肌にあたる。
「うわっ……」
「ふふっ、びっくりしました? でもすぐ慣れますよ。お肌きれいだから、ベースは薄くて大丈夫そうですね」
次に、ふわっと香る下地が、指先で優しく広げられていく。
ブラシで軽くパウダーを乗せられたとき、オレはなぜか──くすぐったいのと、恥ずかしいのとで、心拍数が上がるのを感じていた。
「お兄、意外と肌キレイやん。女の子でもここまで整ってる子なかなかおらんで」
「……からかうな」
「ほんとのことやもん。ほら、リップも塗ってもらい」
「んむっ……」
唇に柔らかく当たるチップ。
軽くツヤをのせただけのはずやのに、ぐっと雰囲気が変わるのが分かった。
店員さんはにっこり笑って言った。
「はい、できました。ナチュラル系でまとめてますから、まるで“もとから美人”風ですよ♪」
「え……オレが……?」
鏡の中にいたのは、化粧の力でほんのり色づいた、どこにでもいそうな、でもちょっと気になる女の子の顔。
オレは、なぜかその顔から目が離せんかった。
「ええやん。これで明日から外歩いても大丈夫やな。な、モデルデビューする?」
「せえへん!」
つむぎがケタケタ笑う声を背中に受けながら、オレはそっと鏡に手を伸ばした。
たしかに──
今のオレの姿は、“男だった頃のオレ”とは、まるで違う何かになっていた。