エピソードⅠ
最北。山岳地帯の奥深く、剣山のごとく険しき岩山を背に、城は眠るように建っている。黒と灰を基調色とした城塞は主に石材を組み上げたもので、比較的新しい。要所には黒い甲冑を纏った兵士が配置され、城内を循環している。その隙間を縫うように、ファズールは謁見の間へ向かっていた。
足取りは重い。帰城するまでの一カ月の道のり、彼は陰鬱な日々を過ごしていた。真実を告げるべきか否か、激しく迷っていたからだ。ザインへの忠誠心に従うならば、アレイスのことは偽らずに報告すべきである。しかしこの忠誠心は曲者だ。何故ならば、ザインの上に常闇の王サイラスを見据えているからこその忠誠心だからだ。アレイスの言葉がもし、かの者の言葉なら――
ファズールは頭の奥で反響する声に怯えた。その声は闇の根源であると、理屈ではなく感じるからだ。ただ分からないこともある。大量の魔物を打ち払うほどの聖剣が手にある理由だ。アレイスは邪悪などという可愛いものではない。光り輝く姿の中に残酷で冷徹な心を隠し持っている厄災である。それが何故、聖剣騎士と成り得たのか。
ファズールが謁見の間に着くと、両脇に二人ずつ控えている兵士が扉を開けた。扉が完全に開かれるのを待って、ファズールは足を踏み入れた。そして五十歩ほど歩き、座しているザインの前で跪いた。
「……ただいま、帰還いたしました」
覇気のない声で言うファズールを、ザインはいっとき黙って見下ろしていた。先に大体のことは聞き及んでいる。一体どのような言い訳をするつもりだろうかと、様子を窺っているのだ。しかしファズールは顔を上げることなく、身を固くして、額に汗をかいている。何を言っても叱責をくらうことは覚悟の上のようだ。
ザインは深くため息をついた。その顔はファズールが初めて会った時と変わらず若い。
「ファズール、お前には期待している。この俺の気持ちは分かっているな」
「……はい」
分かっているとも、とファズールは床を見つめた。中隊と派生組織を与えられて、辺境の村ひとつ落とせない自分に失望していることぐらい、と。
「さすがに聖剣騎士は荷が重かったか、それとも他に弁明することがあるのか。あったこと、思う所をつぶさに述べるがいい」
ファズールはグッと奥歯をかんで息を止めた。ザインは失望したからといって、こちらの言い分も聞かずに処分を下す愚かな主君ではない。関わったすべての者の意見を聞き、状況を加味して物事を判断することのできる男である。だからこそ多くの者が仰ぎ見、信じてついてきているのだ。ファズールとて同じである。だが――
出会って十七年。片時も離れず見ていたファズールには分かっている。自分たちのように常闇の王を偉大なる存在としてただ崇めている者と、ザインが違うということを。
ザインは狂信者だ。常闇の王を何としても復活させ、直接目で見て拝まぬうちは死んでも死にきれない、というほど崇拝している。またそうでなければ、組織をここまで拡大させるほどの精力も湧きはしなかっただろう。そんな男に、敵である聖剣騎士が求める者であるかもしれないとは、憶測の段階で言うべきではない。いや、そもそも言ってはいけないのだ。アレイスには、何をしてくるか分からない恐ろしさがある。意に反するなと言われれば、従うのが正解だ。
ファズールは考え込みながら、目を伏せた。
喉をひと突きにされたモルスの遺体――モルスは目を見開いて、何かを凝視したまま息絶えたようだった。やったのは聖剣騎士である。当然、見ていたのは聖剣騎士だろう。だがとても聖剣騎士を見ていた顔ではない。敗れたことを悔やむ顔でも悲しむ顔でもなかった。あれは、とてつもなく恐ろしいものを見た顔だ。いや、真偽を見極めようとした顔なのか……
ファズールは険しい目つきで顔を上げた。
何にしても、モルスを殺す直前に聖剣騎士が正体を現したとしか思えない。だが何のためにしたのか。考えられるとすれば、こちら側に存在を気付かせるためだろう。小隊の将が討たれればその上が出て来る。その上をやればまたその上が。そうやって本軍へ行きつくまで手繰り寄せ、これまでの将がどう討ち取られたのか検証することを視野に入れたのだ。やや回りくどいが、聖剣騎士などをやっていれば、他に手立てはないのかも知れない。しかし早々に本軍が現れ、デルスターの大将と接触する機会を得たため、手段を変えたのだ。つまり、もしアレイスが思い描く人物だとすれば、自分は意図せず常闇の王の手駒となり、ザインとの伝達役を賜ったということになる。
そこまで思い至ると、ファズールは打ち震えた。これは思わぬ幸運なのでは、と。
アレイスが言ったことは正しい。ファズールの立場はそれほど良くない。子供の頃から懸命に役に立とうと努力を重ねてきたが、所詮闇を収束させる力しか持たず、剣豪と謳われるほど腕を磨いても中隊長が限界だった。ザインが部下に求めるものはそれではないからだ。派生組織を任せているのも、働きの良くない幹部をていよく左遷しているに過ぎない。「期待している」とザインは言う。しかしそれも忠誠心を煽るための常套句だ。分かっていながら目を背けていただけだ。
だが今こそ成り上がる時である。後から入って来て偉そうにしている副将ロドリオ・クレイオスを引きずり下ろし、我こそが相応しいと証明するまたとない好機だ、とファズールは肩に力を入れた。
「……聖剣騎士は、ザイン様を連れて来いと、私に」
ザインは目を細めた。
「それでおめおめと戻って来たのか? 奴の言いなりになって?」
「あれはただの騎士ではありません」
ザインは斜め上を見て、ゆっくりとうなずいた。
「そうとも、聖剣騎士だからな」
「そうではなく!」
「どうだと言うのだ」
ザインがイラつき、ファズールは唾を飲み込んだ。
「光を……」
「ん?」
「聖剣に集めた光を、食べていました。その瞬間、辺りが白く染まり、まったく何も、視えなくなったのです。あんなことは、普通の人間にはできません」
ファズールが言うと、ザインは立ち上がり、数段ある階段を下りてファズールの肩を叩いた。
「なるほど。聖都での噂は本当だったということか」
ファズールは驚いてザインを見上げた。
「噂?」
「聖剣を持つ者が現れたとあっては、調べないわけにもいかない。聖都に密偵を送って探らせた。男の名はアレイス・テュダメイア。二十五歳。サンパール地方プラタナス出身。十七の時にローフォール地方シェルストンへ移住。村の用心棒として務めている。そして最近になって聖都へ赴き、騎士団試験を受け、聖剣を握った。奴は入団式でこう言ったそうだ。〝ゆくゆくは光明の王となり、この地に永遠の光と平穏をもたらす〟と」
ファズールは額の汗を鼻筋に流しつつ、目を見開いた。
「光明の……王」
ザインはファズールを見下ろし、うなずいた。
「我々の最大にして最強の敵だ、ファズール。常闇の王の復活を妨げる愚かな存在だ」
ファズールは視線を落とし、瞬くのも忘れて聖剣騎士の様子を思い出した。光明の王だというなら、光を喰らうのは納得がいく。だが白い空間で対峙した時に感じた悪寒は、あの男の根底に眠る闇がもたらすものだった。ザインの中にすら見たことのない、暗すぎる闇。
ファズールは拳を握り、再び顔を上げた。
「私には、信じられません。あれが、光明の王などと」
ザインは眉をひそめた。
「だがお前は見たんだろう。奴が光を喰うところを」
「見たからこそ申し上げるのです。あれはそんなものではありません」
ザインは「意味が分からない」という顔をして、ファズールの肩に手を置いた。
「疲れているのか? それとも、光をもたらす者がそんなに恐ろしかったのか」
ファズールは目を泳がせながらも、なんとか真意を伝えようと表情で訴えた。だがザインには、ただ怯えているようにしか見えなかった。
「ファズール、闇に暮らす者が光を恐れるのは仕方がない。俺はそんなお前を責めたりしない。安心しろ。怖いものは俺が排除してやる。今日はゆっくり休むといい」
ファズールは息を深く吸って止め、しばらくそこで項垂れていた。アレイスに騙されたのか、という疑念が頭をもたげる。しかし何はともあれ、疲れているのは確かだ。ファズールはゆっくりと立ち上がり、ザインに一礼して謁見の間を後にした。