エピソード VI
一時間かけてグリフォンの生息地を抜けた小隊は、縦横三十二フィートはあろうかという大きな洞穴を前に息を止めた。中から漏れ出る邪気に当てられ、周囲の草木は枯れている。付近には地割れと見紛う爪痕が刻まれており、洞穴に住まう主が只者ではないことを思い知らせて来る。
「……おびき、寄せるんでしたっけ」
カイルは分かり切ったことを再確認し、エルデは低く唸った。
「無茶を言うな、貴方の上司は」
「と、とりあえず、みんなに神の加護を分与しておきましょうか」
「出来るのか」
「一応」
「有り難い。ぜひ頼む」
エルフの小隊はカイルから神の加護を分け賜り、洞穴の主をどのようにおびき出すか作戦を練った。
「おそらく主は、大量のグーロを引き連れて現れるだろう。皆は二手に分かれてグーロの討伐に集中してくれ。主は私とカイルが交互に引き付ける。全力で走り抜けても応戦しながらでは、聖域まで四、五十分かかるが、やるしかない。全身全霊を傾け、意識を集中して途切れさすなよ。一瞬の気の緩みが命取りになる」
エルデは注意を促しながら、聖域までの対応を細かく説明し、連携の手順などを軽く模擬訓練した。
「よし! 皆、準備はいいな。作戦開始だ」
「エルフは狩人の民」とはよく言ったもので、グーロの群れを狩るのはお手の物だった。左右に分かれて主に追随しているグーロの群れへ向かって素早く矢を射、俊敏な足で追う、そのすべての動きが洗練されている。
カイルが感心する一方で、エルフは分け賜った加護の効果に唸った。一矢射るだけで魔物を仕留めることができるというのは、もはや革命だった。とはいえ、洞穴の主が召喚したグーロの数は数百に上る。討伐に専念せねば命はいくらあっても足りない。互いを称えるのは全てが終わった後だ。
身の丈およそ二十六フィート。近くに立つと壁のようでもあり、山のようでもある。洞穴の主は巨体に漲る力を惜しげもなく放出し、地を揺らしながらカイルを追った。カイルは注意を引くことを怠らないよう自分に言い聞かせながらも、一心不乱に逃げた。数分おきに空を薙ぐ前足は大きな風を生み、爪は岩や木を無残に砕く。当たれば即死だ。相手は双頭の犬、オルトロス――大抵の魔物ではない。希少かつ上級の魔物である。
こんなものをおびき寄せろとは、どんなに真剣だろうと言って欲しくない。
カイルは生きた心地もなく全力疾走しながら思った。オルトロスは巨大なだけでなく、足も速い。常人なら逃げおおせるのは不可能だ。しかしエルフの小隊が要領よく援護し、エルデが絶妙な間合いで注意を引いてくれるので、カイルは幾度となく危機を回避することに成功した。
カイルはエルデたちに感謝したが、エルデたちは、全力で援護しているとはいえ、すでに指で数え切れない危機を回避したカイルの運の良さに舌を巻いた。実力もあるだろうが、明らかに神の加護の賜物である。危険な魔物を誘導するのにこれほど適した人物もいない。
あの男は何もかも計算済みなのか、とエルデはアレイスのことを思った。フードの下にあった美しい顔。族長より美しい顔を見たのは初めてで、今も胸に衝撃が残っている。
エルデは動揺を殺し、並走しながら弓を引き絞った。グーロは一撃必殺だが、オルトロスはそうはいかない。全身の毛と皮は硬く、加護を纏った矢でも弾く。
「引き付けるのがやっとだな。聖域近くに上手く誘い込めたとしても、こいつをどうやって倒す」
聖域までの道中でほとんどのグーロは倒し切った。後はオルトロスを追い込みながら石の原まで誘導し、前方にある光の柱へ向かって駆け抜けるだけだ。
カイルとエルフらは、数百ヤード先に迫った聖域を目指して懸命に走った。倒せなかったとしても聖域に入ってしまえば危機は脱する、最後はただその想いだけだった。
聖域へ近づくにつれ、光の柱と輝く草原と、柔らかな風に満ちた聖域の空気が視界一杯に広がる。エルデは聖域の境界に立つアレイスを注視した。フードを目深に被り、矢をつがえて待ち構えている。
エルデは険しい表情で見やりながら、その横を駆け抜けた。そして滑り込むようにして勢いのついた身体を制止し、振り向いてアレイスの背を見た。脇を仲間たちが次々と走り抜け、青々とした大地に倒れ込む。残るはセイルだけだ。アレイスの矢尻はセイルの頭上にあるオルトロスの右の頭部を狙っている。
「矢など弾かれるぞ!」
エルデは叫んだが、アレイスは無視して矢を放った。
矢は鳴動し、強烈な光を放ちながら大気を切り裂き、オルトロスの右の頭の額に突き立った。オルトロスは前足を浮かせ、咆哮を上げて大きくのけ反った。カイルはその隙に聖域へと到達し、倒れ込んで激しく呼吸した。
「……まったく! 死ぬかと思った!」
「神の加護を軽んじているのか?」
二射目の矢をつがえつつ、アレイスは言った。
「それほどの加護を賜っている人間がこんなことくらいで死ぬなどあり得ん。私の知る限りでは皆無だ」
そして放った。光の矢は左の頭の額に突き立つ。オルトロスは猛り狂い、アレイスを前足の爪にかけようとした。が、聖域に阻まれ後退した。それから何度も、鬱陶しい矢を放つ存在を排除しようと前足で空を掻き、聖域の前で尻込みするということを繰り返した。その間も、アレイスは淡々と矢をつがえた。
「早く倒れろ。あまり矢を消費したくない」
アレイスのぼやきを聞いて、大の字に寝ていたカイルは半身を起こしてアレイスを見上げた。
「矢なら、皆のをかき集めれば」
「お前は私がただボンヤリと、ここでこいつを待っていたと思っているのか」
「……違うんですか?」
「魔物は等級が上がれば上がるほど、普通の矢では歯が立たなくなる。ただの矢は、私が射ってもただの矢だ。だが、この矢はただの矢ではない。待っている間、細工をしておいた」
「だから光を……どんな仕掛けなんです?」
カイルが問うと、アレイスは口を閉ざし、矢を放った。オルトロスの心臓部を狙った一撃である。矢は胸に深く刺さり、オルトロスはがなりつつ、よろめいた。しかしそれでも倒れず、緩慢な動作で身を翻した。
「逃げる気か」
アレイスが聖域を一歩出ると、オルトロスは狙ったように尾を激しく振り下ろした。この攻撃を予測していたのか、アレイスは横に飛び退きながら矢を放ち、オルトロスの左足を射抜いた。オルトロスは奇声を上げながら体勢を崩し、腰を地に着けた。そこへ透かさず三本の矢が、立て続けに飛来する。何としてでも息の根を止めてやるという、アレイスの気概を感じる攻撃だ。
矢は残らず命中し、オルトロスは遂に唸り声を上げ、音を立てて倒れた。地響きがし、粉塵の上がる中、アレイスは矢をつがえつつ近寄り、オルトロスの左右の顔を凝視した。オルトロスは身体を生かすために激しく呼吸を繰り返す肺に抗い、何か言いたげに口を動かし、四つの目でアレイスを見つめた。アレイスは見つめ返しながら、弓を最大限に引き絞った。
「お前の魂が深淵から二度と這い上がれぬよう、この矢で縫い留めてやる」
横たわり、動かなくなった巨体の前に、エルフたちは歩み寄った。完全に息絶えた様子に安堵のため息をもらし、アレイスを称える。しかしアレイスは素気無く遮った。
「喜ぶのはまだ早い。こいつは親玉じゃない。残念だがな」
「何だと?」
エルデは驚き、声を上げた。
「これほどの大物なのだぞ」
「魔物も上を見ればきりがない。元凶はおそらく、こいつの兄だな。グーロを使ってお前たちの森を乗っ取る気だろう」
「なっ……!」
「こいつは矢八本で倒れてくれたが、奴は――ケルベロスは無理だろう」
エルデは額に汗を浮かべ、視線を彷徨わせた。
「そんな……どうすれば」
「あれをやるには、どうしたって聖剣が必要だ。が、こいつの死をもう嗅ぎつけている。やって来るのは時間の問題だ。取りに帰っている暇はない」
「い、いや、一度引き上げよう。集落までの導線に等間隔で結界を張って置けば、数日は足止めできる」
エルデの提案を、アレイスは失笑で返した。
「理解できないのか? 聖剣でなければ倒せないと言っている。そんな魔物が結界を破るのは、卵を割るより簡単だ。ここで迎え撃つしかない」
「どうやって! 聖域も万能ではなかろう!」
エルデは怒鳴った。聖域が一日に一度、数時間、一か所にしか展開を許されない神業であると知ればこその言動である。アレイスは静かにカイルへ視線を流した。
「まあ、カイル次第だな」
急に矛先が向いて、カイルは目を丸めた。
「また僕に何かやらせる気ですか? 何です? この際やるしかないみたいですけど」
「やってくれるか」
「内容によります」
「しのごの言わないと言わなかったか?」
「やるしかないならやる、と言ったんです。しのごのは言います」
「そうか、やってくれるか」
「ちょっと」
カイルが文句を言う間もなく、アレイスは纏っていたマントを脱ぎ、端から引き裂いた。カイルはギョッとした。
「何してるんですか?」
「縛る紐を作っている」
「は? 何を縛るんです?」
「お前は以前、聖剣がなぜ私を選んだのか訊いたことがあるな」
「え、ああ、訊きましたけど、なんです急に」
「私が私の意思でお前の腕を動かしたいと思っても、動かすことはできない。そうだろう?」
「はい? そりゃあそうですけど、それが何か」
「お前も、お前の意思で私の腕を動かすことはできない」
「はあ……?」
カイルは困惑気味に生返事をした。そうこうするうちアレイスはマントを裂き終わり、防具を外して右肩へ巻き始めた。
「理屈はそういうことだ。だから私にしか持つことができない」
アレイスは言うと、布の端を咥え、もう片端を持つ左手を引き、肩のところを縛るようにして、きつく結んだ。
「こんなものだろう。さあ、剣を抜け」
「へ?」
カイルは思わず素っ頓狂な声を上げた。
「な、何をするんです?」
「私の右腕を切り落とせ」
アレイスは涼しい顔で言った。あまりにも普通に言ってのけたので、カイルは脳が追い付かず、一瞬呆けた。無論、エルフらも時が止まったようにポカンとした。しかし次の瞬間には血の気が引き、真っ青になって震えた。
「な、何を、言って……」
エルデは問い質そうとしたが、上手く言葉が出なかった。続きはカイルが言った。
「……まったく話が、分からないんですけど」
「聖都にある聖剣――あれは私の右腕だ。以前のな。つまり、今ここにある右腕も、切り離せば聖剣になる」
カイルは「は……」と小さく息を吐いて止めた。身体が内側から凍り付いていくような気分がした。そして全身が死体のように冷たくなったと感じたあと、目頭がじわじわと熱くなっていった。
「早くしろ、時間がない。一太刀で決めろよ。しくじったら殺す」
アレイスはカイルが断ちやすいよう、右腕を真っ直ぐ横に伸ばした。カイルは自分が泣きそうなのを自覚しつつも、ゆっくりと剣を抜いた。その手をエルデが止めた。
「正気か!」
カイルは厳しい眼差しをエルデに向けた。
「他にどうしろと? アレイスが聖剣でなければ無理だと言うなら、やるしかないんです。彼はエルフを助けるために覚悟を決めた。僕には止められません」
エルデはカイルから手を離し、アレイスを見た。裂いた布を肩で固く結び、腕を横に真っ直ぐ上げて待っている。そこには、類まれなる美貌のせいだけではない美しさがあった。
カイルは抜き放った剣を構えた。なるべく痛みを与えず、一刀で断つ心構えがいる。深く息を吸い、吐く。かつてないほどの緊張で強く打つ鼓動を聞きながら、アレイスの腕に意識を集中する。と、脳裏にアレイスの言葉が木霊した。
〝切り離せば聖剣になる〟
カイルはその言葉が持つ真実の重さに押し潰されそうだった。
守られてきたんじゃないか……
と胸の内で呟く。「みんな、何千年も守られてきたんだ」と。
聖都を聖都たらしめた聖剣。数多の恵み、数多の命。あの場所にある全ての豊かさが、アレイスの右腕によってもたらされたのだ。そうとも知らず、人々は常闇の王を邪悪と信じ、恐れている。だがアレイスは平然と受け入れている。恐れる者は恐れていればいい――彼にとってはその程度のことなのだ。この世の地獄を味わった身からすれば、人の考えなど、確かに些末なことだろう。しかし人の身であるカイルには、飲み込み難いことだった。
シェルストンの民は善良でありながら、なぜ常闇の王を崇拝しているのか。答えは「知っているから」だ。彼らは知っていたのだ。聖剣が常闇の王の右腕であることを。真実を知る者は正しい思考を選択できる。だが知らなかった自分はどうだ、とカイルは柄を強く握った。知らぬが故に選択肢すらなかった。そんな悔しさで、はらわたが煮えくり返った。
「僕は……貴方を恐れていたし、哀れんでいた。腹が立つし、一緒にいてもいいことがない。たぶん嫌いという感情表現が一番適切でしょう」
アレイスは眉をひそめた。
「だろうな。しかしそのほうが右腕を切り落とすことに罪悪感がなくていいだろう」
「こういうことに好きも嫌いもないです! ホントに腹立つな」
「ああ、その勢いでひと思いにやるといい」
「あのね! 僕は貴方の右腕がそれだと知っていたら、もっと違う印象でしたよ! フェンネルがどれほど恵まれているか知っています。物心ついてから、感謝を忘れたことはありません。日々受けてきた恩恵に比べれば、貴方の憎まれ口なんて可愛いもんですよ。分かりますか? この騙されたような、裏切られたような気分が」
「別に騙していないし、裏切ってもいない。むしろお前は誰よりも私を分かっているだろう」
「分かってないですよ。現にたった今、聖剣のことを知りましたからね」
「お前は……どこの世界に身体の一部を切り離せば神器になるという事実を、世間話のように話す人間がいると思っているんだ」
「うっ……」
「そんなことが世に広まってみろ。私は無制限に狙われる。むろん返り討ちにはするが、そう年中死体処理などしていられない」
「殺す気満々じゃないですか」
「当たり前だ。人の身体を裂いて利益を得ようなどと考える輩がまともな訳がない。まあ切り離したところで、私以外にどうにかできる者などいはしないがな」
カイルは「はーっ」と深く長いため息をついた。アレイスはそれを見て少し笑みを浮かべた。
「覚悟はできたか」
カイルは引き締まった顔でアレイスを見据えた。
「はい」




