エピソード III
ナハトとオルドによってノードの集落へ招かれたサイラスは、「ラス」と名乗り、スードから来たエルフという体でしばらく身を置くことになった。
「人間の野党に襲われて、逃げる途中で足を傷めたんだって。そのあとこの森に迷い込んだらしいよ」
とエルフらは噂し、しばらく距離を置きつつ、成り行きを見守った。
しかしナハトを想う少年らと、サイラスを想う少女らは、笑顔を失くした。双方、ナハトだから仕方ないと諦める反面、抑えようと思っても湧いて来る「嫉妬」という感情に悩まされていた。
少年らは「天地がひっくり返ってもラスには敵わない」と嘆き、少女らは「どう頑張ってもナハトにはなれない」と落ち込む。彼らの情緒は間に立つオルドをしばらく困らせ、果ては呆れさせた。とはいえ、放置するわけにはいかない。「自分には彼を招いた責任がある」と、オルドは気合を入れた。
「欲しいと思うから苦しいんだ。心から相手の幸福を願う心さえ持っていれば、穏やかでいられる。本当に愛するというのは奪うことじゃない。見返りを求めず与えることだ」
オルドは懸命に諭し、少年少女らの気持ちを鎮めることに日々を費やした。少年少女らもオルドの言葉に耳を傾け、自身の内にある未熟な心を磨こうと努力した。エルフが人間のように闇を生まないのは、大多数がそのような精神であるからと言えよう。
これについてサイラスは、一定の評価をした。つまり、ノードを滅ぼすという計画を保留とした。「人間とエルフ、ノードとスード、それぞれ大まかな特性はあるが、一括りに考えることはできないようだ。私の仕事は、もう少し細やかにしなければならない」と。
よって、各地で戦乱がある以外は平穏であった。特にエルフの集落は世相から切り離された世界のようだった。それはナハトのお陰でもある。というのも、原始のエルフは一定の範囲に結界を張り、外界を断ち切る力を持っているからだ。この結界を通れるのは、基本エルフに限られる。サイラスが入り込めたのは彼が彼たる所以だが、これらの事情が重なって、耳の細工だけでエルフと信じられているのは確かだ。
ただエルフは、この現状に満足していなかった。誰にでも世界を自由に行き来する権利はあるので、当然と言えば当然だ。限られた場所に閉じ込められた状態を良しとする者はいない。また、原始のエルフがいない集落では戦乱の干渉を受け、被害も出ている。何かしらの対策を練らねばならないことには違いなく、その方法として「不和の原因である人間を殲滅する」という選択があった。
しかし、いくらエルフの数が上回っているとはいえ、人の数も相当だ。実行は現実的ではない。目的を果たすためにどれだけの犠牲が強いられるか、考えただけでも途方がない。
その途方もないことをやるのが「常闇の王」である。但し、対象は人間だけではない。滅びの力はありとあらゆるものに適用され、波及する。この災厄を免れることが出来るのは、常闇の王の意思によって振り分けられた者だけだ。多くは善であるが、例外もある。だが善の基準は厳しく、例外は大体が気まぐれなので、対処は難しい。
サイラスから滅びの力について教えを受けたナハトとオルドは、困惑した様子で互いの顔を見た。場所はオルドの部屋だ。離れにあって錠をかけられるので、秘密の話をするにはうってつけの場所である。
二カ月も経つとサイラスは集落に馴染み、手先の器用さで他の者の役に立ち、皆からの信頼を得ていた。その穏やかさと心の配りようは、ナハトやオルドから見ても、大厄災などとは微塵も感じさせない立ち振る舞いである。なので、ナハトは思った。
「常闇の王についての正しい知識があれば、対処可能なのでは」
と。そのことについてナハトが率直に尋ねると、サイラスは首を横に振った。
「私について正しく知ろうと知るまいと、恐怖心を拭えなければ避けられない。恐れる心は実を伴って本人に跳ね返る。それが滅びの力の根本だ。私は世の鏡であり、人々の鏡だ。私が恐ろしい者に見えるとしたら、その者は心に恐ろしい考えのある者だ。私を恐れる者は神を恐れる者。神を恐れる者は善でない者。善でない者は、悪である自覚がない。自覚がないことに対処するのは至難の業だろう」
「お前に恐怖心を抱くだけでも駄目なのか」
「そうだ。この原理は分かっているだけでは役に立たない。〝恐怖してはならない〟と分かっていても、実際に心から恐怖を取り除けなければ意味がないからだ」
「どうやってそれを成す」
「恐怖すれば恐怖で返る、ならば、私が無害であると一片の疑いもなく信じることで無害になるという仕組みを知り、実践することだ。少なくとも、完璧な善になるよりは容易い」
ナハトとオルドは絶句した。それはもはや人間を殲滅するより途方もないことだと思うからだ。
感情とは、どうしようもないから感情なのだ。たとえ「恐れない」と強く念じてある程度抑えられたとしても、完全には払拭できない。九割九分、無害であると信じることができても、残り一分の疑いを消すことなどできない。そういうものだ。
完全な善になることもまた然り。正しいと思っていたことが間違っていたことなどよくある世界だ。善と思っていたことが悪で、悪と思っていたことが善であることもある。未だ何が真か分かってもいない者たちが善悪を見極め、かつ善を選ぶことは困難であり、道のりは遠い。
「……恐怖など、消せないだろう」
ナハトが問うと、サイラスはうなずいた。それを受けて、「頭で分かっていても心に従わせるのは難しい」――そういう問題なのだと、ナハトとオルドは理解した。
「でも君は、例外になれたんだろう?」
二人きりになった時、ふとオルドが言った。ナハトは首を縦に振って肯定した。
「ああ。私は消さないとハッキリ言っていた。それに世界が滅びたあと、生き残ったエルフのために使えと、これをくれた。だからきっと、生かして置いてくれるのだろう」
ナハトは首から下げている雪花石膏を見せた。
「……アラバスタか。珍しい色をしている」
「森を封じているというから、こんな色なんだろう」
「どのくらい、生き残るかな」
「さあ……でも、一人でも多いといい」
「うん、そうだね」
そんな言葉を交わした日から数週間後のこと。
鳥たちが木々から慌ただしく飛び立ったのを、エルフたちは見た。
いつものように穏やかに始まった一日は、鳥たちの喧騒によって破られた。獣は騒々しく走り回り、小動物は巣穴へと隠れる。不穏な空気は否応なしに満ち、ぬるい風が吹き抜ける。
エルフたちは不安げに空を見上げ、長老であるグロウサーは、ナハトと向かい合った。
「何事か」
ナハトはこめかみに汗して答えた。
「人間が結界を越えた。エルフを連れているようだ。一個小隊、いや二個小隊規模か」
ナハトは目を閉じ、原始のエルフの術を使って透視した。
森の獣道を踏み荒らしながら進む一行は、甲冑を纏った屈強な男たちだ。日に焼けた逞しい腕には歴戦の傷があるが、胸に勲章はない。野盗かとも思ったが、隊の動きは隅まで統制が取れている。
「傭兵のようだ。どこの軍属かは分からない」
とナハトは告げた。
彼らは二人のエルフを連れていた。双方、暴行を受けた痕がある。エルフがいればナハトが結界を張る森へ入れる。人間の男たちはそのために、外界に住むエルフを襲い、捕虜にして利用したのだ。
「来るぞ!」
とナハトが言うと、エルフの男たちは武器を手に取り、女子供と年寄りは屋内へ立てこもった。
侵入者は集落に着くと、捕虜にしていた二人のエルフを大衆の前で殺した。宣戦布告である。エルフの男たちは憤った。侵入者はおよそ百名。集落の男は三百名余りいる。相手が戦慣れしていようといまいと、狩人として腕を磨いてきたエルフの男衆には返り討ちにする用意があった。
「卑怯で残忍な者どもよ、我らの怒り、その身をもって思い知るがいい!」
口上を合図に矢の雨が降り注ぐ。弓はエルフが最も得意とする武器だ。侵入者である傭兵隊は一瞬怯み、後退した。が、傭兵隊長である大柄な男が、長剣で矢を払い落しながら前衛の弓兵へ突進した。
「森に隠れ住む臆病者どもの矢など、痛くも痒くもないわ!」
傭兵隊長は大声で挑発し、エルフの前衛を薙ぎ倒す。勢いは凄まじく、先陣を切るだけの技量も持ち合わせていた。前衛はあっという間に三割削られ、エルフは動揺した。前衛の弓兵は後退しながらも矢を射って牽制したが、傭兵隊長の猛進はいっこうに衰えず、後衛の手前まで切っ先が迫った。
降り注ぐ矢は甲冑に当たって弾けるか、剣に払い落されるか。日に焼けた傭兵たちの肌を貫くどころか裂くことさえままならない。この異常事態にエルフたちは混乱した。
「どうなってる! まったく歯が立たない!」
「ちゃんと狙ってるのか!」
「当たり前だ!」
怒号が行き交う中、彼らの頭上を光の帯が走り抜けた。
否、一本の矢が光の帯を作りながら飛んだのだ。
矢は傭兵隊長を目掛けて正確な弧を描き、兜に突き立った。瞬間、紫色の波紋が広がり、霧散する。傭兵隊長は「む!」と声を上げて矢が飛んで来た方向を睨みつけた。それは櫓の屋根だった。年が十五か六ばかりのエルフの少年が、束にした長い黒髪を風になびかせ、涼しい顔をして立っている。
他の傭兵らもつられるように見上げた。エルフの狩人らも思わず攻撃の手を止め、そちらに注目した。
「ラス!」
と誰かが叫んだ。呼ばれたサイラスはニヤリと笑った。
「そいつは術法で身を守っている。解かねばいくら矢を射っても傷つけることはできない。また術法をかけられないうちに片付けろ」
エルフらは咄嗟に弓を構え、傭兵らは盾で身を守るようにして後退し、傭兵隊長は解かれた術法をかけ直すために詠唱を始めた。
「隊長! 先にあの少年を!」
かけ直したところで少年を討たねばまた解かれる、という警告である。そんなことは百も承知の傭兵隊長は、詠唱を区切って怒鳴った。
「馬鹿者! よく見ろ! あれは高く売れる! 傷つけるな!」
叱責された傭兵はもう一度顔を上げて見た。そして息を飲んだ。この世のものとは思えぬ美貌に、寒気さえ覚えた。
「しかし、このままでは」
「術法なら何度でもかけ直す。根気強く防衛線を崩せ!」
術法をかけては解き、解かれてはかけ直すという攻防の中、矢と剣のせめぎ合いが続いた。じわじわと防衛線を削っていく傭兵。徐々に後退を迫られながらも、踏ん張り続ける弓兵――長い一日になりそうだった。
傭兵隊長は櫓の上のサイラスに声を上げて問うた。
「エルフに人間の術法を解く者がいたとはな!」
サイラスは不敵に笑った。
「そんな奴いるわけない。お前の運が悪いだけだ、不届き者どもよ。いかなる理由でエルフの森を襲う」
傭兵隊長は眉をしかめながら答えた。
「エルフの森は豊かだ。エルフ自身もいい値で売れる。美しければ尚更だ」
「大地が荒廃しているのは、お前たち人間が戦をするからだ。どの地も戦火に焼かれて見る影もない。自分たちのしでかした過ちをエルフの命で贖おうと言うのか」
「この世は、奪うか奪われるかだ!」
「ほう? ならばその命、私に奪われても文句はないな」
「なにっ!」
サイラスはゆっくりと矢をつがえた。すると矢じりに黒い炎が灯った。
「次の矢は、術法を解くだけの光の矢ではない。お前の浅ましい心が生み出した闇を増幅させ、身を喰い破らせる。炎に巻かれて焼かれるのが先か、己の闇に喰われるのが先か。いずれにせよ、お前に殺された者、お前に売られた者たちの嘆きと同じだけの苦しみを味わうだろう。覚悟しろ」
「なんだと?」
「よりにもよって私のもとへ来るとは。万物を愛する神もついにお前を見放したのだ」
高見から自分を見下ろす秀麗な顔を凝視しながら、傭兵隊長はこめかみを伝う汗に意識を取られた。
「……貴様は、一体」
サイラスは冷徹な笑みを浮かべた。
「さあ、なんだろうな」
言葉が発せられると同時に放たれた矢は、真っ直ぐに傭兵隊長の胸を射抜いた。すると瞬く間に黒い炎が全身へ広がった。ついで漆黒の茨が生い茂り、傭兵らを拘束する。あまりにあっという間の出来事で、エルフの戦士らは弓を構えたまま茫然とした。
傭兵隊長は絶叫しながらのたうち回り、傭兵らは、難なく甲冑を貫いた茨の棘が、ゆっくりと皮膚に突き刺さって来るのを感じて喚き散らした。そこは一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵図と化し、誰もが現実として受け入れられない恐怖に固まった。
全てが終わった後には、黒墨となった傭兵隊長と、血まみれの肉塊となった傭兵たちの亡骸が残された。この猟奇的な光景を、エルフらは放心状態で眺めていた。陽は落ちて、もう辺りは薄暗い。
シンとした中、サイラスが言った。
「夜の内に、闇が片付けてくれる。今日はもう休もう」
サイラスは櫓の屋根から飛び降り、あてがわれた部屋へさっさと引き上げた。それを見届けたエルフらもやがて動き出し、無言のまま各々帰るべき家へ帰った。
翌朝、サイラスの言った通り、死骸は跡形もなく消えていた。血の跡さえない。ただそこは土がひび割れ、枯れたようになっていた。黒い炎といい、漆黒の茨といい、不吉な様相のものを見せられたエルフらは、惨状の地を見つめながら、ぽつぽつ話し始めた。
「なあ、ラスって……」
「やめろ、言うな」
「けど、これをどう説明しろっていうんだ」
「連れて来たのはナハトとオルドだぞ。滅多なことは言うな」
とはいえ、追及は免れない。彼らには「ラス」と名乗る少年の正体を明らかにする必要があった。そのために集会を開いた。最終的には本人を呼んで聴取することになるが、どのような結果に至ろうと、後の対応というものも先に考えておかなければならない。
大人たちが集会を開いている最中、オルドは自室にナハトとサイラスを呼んで言った。
「どうする?」
と。サイラスは質問の意味を理解し、うなずいた。
「元々、居座る気などなかった。そろそろ潮時だろう」
サイラスの答えを聞いて、ナハトは反射的に腕を掴んだ。
「お前はここを守ってくれた。そのくらい皆分かっているはずだ。好きなだけいてくれて構わないのだぞ?」
ナハトの必死さに、オルドは小さくため息ついた。
「ナハト、それは君の希望だろ? サイラスの気持ちを優先しなきゃ。みんなに拒絶されたら、居づらいのは彼なんだ」
「なぜ拒絶する」
「そんなの、はじめから受け入れている僕らには分からないよ。でも理解はできるだろ? 脅威は脅威だ」
「お前はどうするんだ? 知っていて受け入れたのなら同罪だろう」
ナハトの指摘にオルドは肩をすくめて笑った。
「彼がここを出るなら、僕はついて行きたいな。ここにいたって凄い景色は見られないだろう? 君こそ、どうなんだい」
「……最初に匿ったのは私だ。責任を取る覚悟はある。迷惑でなければ一緒に行きたい」
サイラスは険しい目をしてナハトを見据えた。
「ナハト、お前はエルフの夜だ。軽率に決めるな」
「軽率になど決めていない」
「神が定めた運命に逆らえる者はいない。お前はエルフの統率者となる。その未来は、私と巡り逢ったとて変わらない」
「どうしてそんなことが言い切れる」
「お前の中の、光を通して視えるからだ。エルフの夜――闇夜の月よ。私の意識の奥で眠る光明の王としての力が、未来を映す。エルフはお前がいなければ絶滅の一途を辿るだろう。だからこそ、抗ってはいけないのだ。同胞を愛せ、ナハト。そうでなければ未来は築かれない」
サイラスは淡々と語り、ナハトの目からは涙が落ちた。
隣にいることは許されない道を示されたからだ。故にきっと明日には失う。姿を目で追っていた、忘れえぬ日々を。
ナハトは震える唇をかんで、手を離した。
「出て行くんだな」
静かな問いに、サイラスはうなずいた。そしてオルドヘ顔を向けた。
「お前も残って、ナハトを支えろ。それが使命だ」
オルドは肩をすくめた。
「一体どのくらい先の未来が視えるんだい?」
サイラスは困ったように笑った。
「ほんの少しだ。後はこうした方がいいという予感するだけだ。大抵そのようになるから、そのようにした方がいい」
そしてサイラスは詰問されない内に森を去った。去り際、ナハトは耳にかけた術を解いてやったが、解きながら、術をかけたあの瞬間に戻れたらと思った。決して叶わぬ夢と分かっていても――
数年後、未曽有の災害が訪れた。闇が世界を覆い尽くし、黒い風が荒れ狂った。その嵐の中で、恐れる者は闇に迷い、取り込まれ、絶命した。恐れぬ者はボンヤリとした光に守られ、命を取り留めた。
多くの人が、エルフが死んだ。ナハトはオルドと共に生き残った同胞を連れ、東へ逃れた。行き着いた小さな森を拠点に嵐が過ぎるのを待ち、やがて大地に花々が芽吹く頃、新たな集落を築いた。
ナハトはオルドと婚姻を結び、子孫を残しつつ、森を守った。光が満ちた世界では、人間が覇権を握った。人間の統率者は『神皇帝』の称号を掲げ、神の加護のもと平和を築いた。
それから数千年。
現在、エルフの森はフェンネル帝国の一部にある。独立した小国という扱いではあるが、事実上の自治区だ。とはいえ有事の際はフェンネル帝国が護るという条約があり、安全は担保されている。しかし近年、闇の動きが活発となり、森にも魔物が湧くようになった。小物であればエルフだけで対処できるが、大物となると手を焼く。
エルフは悩みぬいた末、フェンネルに救援を要請した。フェンネルの騎士は国や種族を問わず、魔物から民を守護するために戦う。その高き志を信用することにしたのだ。ただし、「武器はこちらで用意する。外の武器を持ち込まぬように」との一文を添えて。