エピソードⅠ
精霊と共に悠久の時を生きる者〝エルフ〟は、かつて大陸の半分を支配していた。聖なる者の技と魔の術を使い、獣を使役し、大自然を守り暮らす日々を送っていた。
彼らの平均寿命は千年とされているが、実際はそれ以上生きる。本人が老化を選択しなければ、永遠に若くいられるからだ。老化の選択とはつまり、そろそろこの世を旅立とうと決意することである。その平均が大体千年というわけだ。
むろん中には二千年以上生きる者もいる。特別な地位に就いていたり、希少な力を持っている者は、同胞の平穏を守るために、長寿であることが望まれるからだ。
しかし長く生きるからといって、悟りを得るかというとそうでもなく、常闇の王が顕現した時代は、人と人とが戦を繰り返していたように、エルフも諍いの絶えぬ日々を送っていた。主には人間と、時には同胞と、意見の食い違いから争いになった。
北方のエルフをノード、南方のエルフをスードと呼び、互いの長老が年に数回会談をして事なきを得るよう努めていたが、頻繁に起こる小競り合いを治めるには至らなかった。大きな課題は、人間を地上から排除することを理想とする「強硬派」と、人間と調和を築き共存の道を歩まんとする「穏健派」の衝突である。
ノードは強硬派であり、常闇の王の顕現によってより強硬となった。「厄災の王が現れたのは人間のせいだ」という訳だ。サイラスに言わせれば「その通り」なのだが、例え事実でも、何を残して何を消し去るか、選ぶ権利を持つのは常闇の王たる己であると自覚するがゆえ、ノードの主張を疎ましく、また愚かしく思っていた。ノードを生かすか殺すかさえサイラスの心次第であるのに、あたかも人間を審判する資格があるかのように振る舞っていることが、不愉快極まりなかったのである。
だが、人間の全てが悪ではないように、ノードの全てが強硬派という訳でもない。十四歳になったばかりのノードの少女「ナハト」は、どちらかと言うと穏健派であった。どちらかと言うと、と限定するのは、厄災の王が顕現した責任は人間にあることを認めつつ、人間を根絶やしにするのは間違っていると明言した経緯があるからだ。
彼女が双方の肩を持ちながら同胞の非難にさらされないのは、原始のエルフに近い力を持つためである。その力は非常に強く、希少である。故にノードでありながらスードにも敬意を払われ、いずれエルフ全体の統率者になることを期待されていた。
白髪のおさげに緑色の瞳をしたノードの少女ナハトは、美しくもあった。同年代の少年たちは、なんとか彼女と仲良くなろうと、荷物持ちを率先してやったり、狩りの腕を競ったり、髪飾りを贈ったりした。しかしナハトは好意を有り難く受け入れつつも、誰か一人を特別に想うことも扱うこともなかった。
いずれノードとスードを統率するという重責を背負う覚悟を決めていたし、特に心惹かれる相手もいなかったからである。
そんなある日。
山菜を摘みに森を歩いていると、いつもは空っぽの動物の巣穴に気配を感じた。大人でも一人なら余裕で入れる大きさの巣穴で、ナハトの秘密の隠れ家でもある。秘密に出来るだけあって、獣道から外れた、少々目を凝らしただけでは見つけにくい場所にある。
動物が住みついてしまったか、他の者に見つかってしまったかと、ナハトは音を立てないよう近寄って中を覗いた。さほど深くはない穴なので、壁にもたれかかって寝ている少年の顔は昼の明るさでよく見えた。
ナハトは息を飲んだ。長い黒髪をひとつに束ねた少年の顔立ちの美しさに、心を奪われた。しかし耳は丸い。人間だ。エルフの領土に人間の子が迷い込んだのかと、ナハトは近づき膝を折って、少年の肩を揺らした。
少年はふっと薄く目を開けた。が、すぐに閉じてしまった。よほど疲れているのだろうとナハトは思い、隣に腰かけて、少年が自然に目覚めるまで待った。
「……同じか、ひとつ上か」
とナハトは少年を観察して呟いた。上等な革の胸当てと小手とブーツ。腰には小刀がある。服の生地も悪くない。身分が高いというわけではないが、低くもないようだと、隅々までよく確認した。そして――この美しい少年の側にずっと寄り添っていたいという想いが脳裏を掠めるくらい、目が離せないでいる自分に驚いていた。
しかし時は止められない。一時間ほどして少年は目覚めた。隣にいたナハトを見てギョッとしたが、ナハトも金色の目の美しさにギョッとした。
「目が覚めたか」
「……ああ」
「ここがエルフの領地と知って踏み込んだのか。ただ迷ったのか」
「エルフの領地というのは知っている。迷ってはいない。ただ休む場所を探して辿り着いた」
「そうか。疲れが取れたのなら、早々に立ち去るがいい。ここは人間を受け入れない」
少年は眉をひそめた。年の割に大人びた話し方をするナハトを変に思ったのだ。エルフといえど、大人になるまでの速度は人と変わらない。見た目と年の差が開くのは成人してからだ。
「随分と、子供らしくない」
少年が言うと、ナハトはクスリと笑った。
「将来を期待されている身なのでね。威厳のためだよ。そのように教育されている」
すると少年は「ああ」と言って不敵に笑った。
「お前が夜か」
ナハトはぞっとして勢いよく立ち上がった。
「なんだっ、貴様は!」
少年は微笑を浮かべたままナハトを見上げ、答えた。
「サイラスだ。名くらい聞いたことがあるだろう」
「なっ……」
ナハトは絶句し、顔面蒼白になった。サイラスと言えばこの世でただ一人。世紀の大厄災、常闇の王その人だ。喰らった闇の力を数倍にして解き放ち、西の大陸の中心を滅ぼしたと伝え聞いている。死者の数は一億とも二億とも言われていて、被害は計り知れない。
震えるナハトを見上げ、サイラスは苦笑した。
「そう怖がるな。ノードは消してもお前は消さない。エルフの夜は聖なる闇。私との親和性は高い」
ナハトは目を見開いた。
「ノ、ノードを消すだと?」
「いずれな」
「なぜ!」
「不愉快だからだ」
「あ……、それだけで?」
「それだけだ。ノードは何様のつもりか知らないが、己らに人を裁く権利があると思っている。ただ長く生きる種族というだけで、思い上がっているのだろう。実に不愉快だ」
それについては返す言葉もないと思いつつ、ナハトは問うた。
「では、ノードを裁く権利が、お前にあるのか」
「あるとも」
「な、なんだと?」
「私は神の意思の表れだ。地上を浄化せんがために私を顕現する。私が消したいと思うものは神が消したいものなのだ」
「……そんなふうには、聞いていない」
「人もエルフも、何事か起これば自分たちの都合のいいように解釈する。選ばれてもいないのに、選ばれた種族なのだと暗示をかける。恐怖から逃れるすべなのかもしれないが、愚かしいことだ。選ばれる努力もせずに、厚かましいとは思わないのか。しかしまあ、信じたくなければそれでいい。私は私のなすべきことをするまで。誰の意見も理解も必要としない。邪悪な者を消し、善良な者を残す。それだけが目的なのだから」
サイラスの言うことに嘘はない、ナハトはそう思った。正直者か嘘つきかは目を見れば分かる。いずれエルフの統率者となる身であれば、そのくらいのことは造作もない。
「ここへはノードの討伐に来たのか」
「いや。そんなにすぐじゃない。本当に、単に休憩する場所を探していただけだ」
「だが領地と知っていたのだろう。ノードが常闇の王を敬遠していることも分かっているはず」
「追手がかかっていたからな。私がここへ逃れることは想定外だろう」
「追手だと? 常闇の王を殺せると思っているのか」
「まあ、殺せはするだろう。現に足を傷めて命からがら逃げて来た。だが神が地上に必要としている限り、私は何度でも蘇る。ほとんど不死と変わらない」
ナハトは素早くしゃがみ、サイラスの足に手を触れた。
「怪我をしているのか。どっちだ」
「……右だ」
答えると、ナハトは有無を言わさず右足のブーツを脱がせにかかった。
「うっ……! どうする気だ」
「診る。必要なら治療具を持ってくる」
ナハトは言って、サイラスの足の具合を診た。
「外傷はない。捻ったのか」
「ああ」
「捻挫か。湿布薬と包帯なら常備している。とりあえずこれで間に合うだろう」
「……いいのか? 常闇の王だぞ」
「今はただの怪我人だろう」
真顔で手当てするナハトを見つめて、サイラスは苦笑した。
「――変な奴だ」
「何を言う。当たり前のことをしているだけなのに、変人呼ばわりとは」
「私はノードを滅ぼすぞ。殺すなら今だ」
「復活するなら意味がない。それに――」
ナハトは包帯を巻きながら、目頭が熱くなるのを感じた。サイラスが何者だろうと放っておけない。助けられるなら助けたい。ここから去って欲しくない、という感情が込み上げて、手元が震えた。これが恋なのか、とナハトは思った。常闇の王と知った瞬間は恐怖が勝った。しかし己のことを包み隠さず話すサイラスを見ていると、恐怖は消え、愛しさが増した。
この状況で正体を明かせば不利になることは分かっているはずなのに正直に打ち明けたのは、命が惜しくないからだろう。命からがら逃げて来たというが、その心は死による安息を求めている。たとえいっときでもいい、ほんのわずかでいいから、安らぎが欲しいと思っているのだ。そう気持ちを汲んだナハトは、サイラスに愛が与えられることを願った。
「そんなふうに生きて、寂しくないのか」
ナハトの不意な問いに、サイラスは一瞬口を閉ざした。ナハトがチラと視線を投げると、サイラスは深く息を吐いて答えた。
「もはや、寂しさを感じる余裕もない。毒を放つ闇を喰わされて、数えきれない悪意にさらされ続け、夢も希望もまったくない。本来なら光を喰いたいが、限られた光を喰らっては、人が生きていくための糧が育たなくなってしまう。にもかかわらず人々は相変わらず争い、血を流す。誰も光を生み出さない。神の嘆きは増すばかりだ」
「……光も喰らうのか」
「光明の王でもあるからな。だが今の世は闇が強すぎて、常闇の王になってしまった。もう光明の王にはなれない。この世は滅びに舵を切った」
ナハトは目を泳がせながら、両手でそっとサイラスの頬を包んだ。
「どうして、もうなれない」
「……顕現してしまった」
「なぜ分かる」
「髪が黒いし、目が金色だ」
「……それだけ?」
「光が強い世の中なら、私の髪は亜麻色だろうし、目は銀色だ。光明の王になれば、髪色はまだ明るくなる」
言ってサイラスは、ふと笑った。
「お前の髪ほど明るくはないが」
ナハトは思わず自分のおさげを掴み、頬を赤くした。
「私のは、ただ白いだけだ」
「いや、雪のように白くて美しい。よく似合っている」
異性からの美辞麗句はお世辞も含め慣れていたつもりのナハトだったが、息が止まるほど嬉しくて、目に涙が滲んだ。
「本当か? 本心か?」
「……嘘は言わない。言っても意味がないからだ。ついでに世辞も言わない。好かれようなどとは思っていないからな」
ナハトはおさげを握ったまま、しょげた。嘘でないのは嬉しいが、好かれたいと思われていないのは悲しかった。
「――これから、どうする」
「もう少し休んでから、どこかへ身を隠す」
「身を隠したいなら、ここにいろ。ここは私が物心ついた頃に見つけて以来、誰かに見つかったことはない。安全だ」
「私には見つかった」
「屁理屈を言うな。面倒は見てやる。ここにいろ」
サイラスは訝るようにナハトを見つめた。
「匿うつもりか?」
「駄目か」
「良い判断ではない。お前はエルフの夜。静寂と安息の象徴だ。エルフに調和をもたらす宿命にある。不和を招き入れるような真似は慎むべきだ」
「……お前は不和なのか。私との親和性は高いと言ったのに」
「闇の性質について言ったのだ。私は人にもエルフにも恐れられている。見つかればどうなるか、分かるだろう」
「見つからなければ大丈夫だ」
「見つかった時のことを考えろと言っている」
「その時はその時だ」
「おい」
どう言っても聞かないナハトを窘めようと少し威嚇した瞬間、ナハトは再びサイラスの両頬に手を当て、目を真っ直ぐに見据えた。
「私はお前の安らぎになりたい」
サイラスは大きく目を見開いた。
「……何を言っている」
「そのままの意味だ」
ナハトはサイラスの頬から耳へ手を滑らせた。
「気休めかもしれないが、耳を擬態させておこう。万が一見つかっても、見ただけでは誰もお前をエルフと信じて疑わないだろう」
耳を擬態させる魔術は、原始のエルフが持つ力だ。その技は精霊によって原始のエルフにのみ伝授される秘術であり、一般には知られていない。原始のエルフは希少であるがゆえに、身を守るすべをいくつも備えていなければならず、かつ有効に働かせるため秘密にしなければならないからだ。耳を擬態させる魔術はそのひとつで、人間社会に紛れなければならない時に重宝する。
「……いいのか? 同胞を裏切ることになるぞ」
サイラスが警告すると、ナハトは潤んだ瞳で微笑んだ。
「私は納得していないのだ。エルフと人が争うことも、ノードとスードの意見の衝突も、お前がお前であることも。一人一人の想いが互いを不幸にしている。皆が己の価値観を通すことが正しく、幸福に導くのだと信じて、他者の考えを尊重しない。自分さえ良ければいいという主義がまかり通っているせいだろう。そんな世界がお前を生んだと言うのなら、変えねばなるまい? お前が幸福であれば、世も幸福になると信じて」
サイラスは数秒ナハトを見つめた後、懐から首飾りを出し、ナハトの首にかけた。紐の先についている石は石膏のようだが、深い緑色をしている。
「その石には森が封じられている。西の大陸の中心にあった森だ。あまりに美しく、滅ぼすのは忍びなかったので閉じ込めた。何もかも失われた時、地上に解き放たれる。滅びの後、生き残ったエルフのために使うといい」
ナハトは石をギュッと握った。
「くれるのか?」
「助けてもらった礼だ」
「……ありがとう」
ナハトは頬を染め、輝くような笑みを浮かべた。サイラスはしばらくの間、その顔を不思議な気持ちで眺めていた。
投稿は不定期になります。ご了承ください。