エピソード V
海賊は殲滅され、かしらであるイドゥンが降伏したことで街は平穏を取り戻した。しかし逃げ遅れた客が一部始終を見ていて、事の次第を触れ回った結果、アレイスは街にいられなくなった。街の者がアレイスに感謝する一方で、恐れたからだ。
ロウザは、酒場を訪れる前に騒動が起きたせいで宿に閉じこもっていたボルが、数日経った今もまだ街にいることを知り、ハクモクレンの丘に呼んでアレイスに紹介した。
「もしよろしければ、シェルストンへいらして下さい。みな喜びます」
とボルは言った。
「私どもの村ならば、誰にも遠慮はいりません。お力のことは、みな充分に理解しております。ですから、使わなければならないようなことは起こりえません。万が一何かがあったとしても、決してお使いにはならないで下さい。こちらで対処します。我々は常に、貴方様の御心を第一に考え、努めて参ります」
アレイスの心と力の関係を、ボルは説明するまでもなく理解していた。だからこそ、ロウザもボルの提案に甘えることをアレイスに勧めた。
「アレイスの地獄は彼自身の心に広がってる。あの力は心を壊すのよ。でも常闇の王であるかぎり、悪意ある者に対してより強い悪意をもって応えるしかない。そうじゃなきゃ善良な人が死ぬから。私の母さんは殺された。他にも大勢の人が殺された。みんないい人だったのに。あの時アレイスがああしてくれてなかったら、もっと死んでた」
ロウザは頬を涙で濡らしながら、そう語った。
別れの時、アレイスはロウザに指輪を渡した。
「あの日、君を貰いに行くつもりだった。だけどもう無理だろう。誕生日はあの日で間違いなかった。私は孤児院の前に突然現れた。誰から生まれたわけではない。ただ現れたのだ。人並には生きられない」
ロウザは指輪を握りしめ、胸に当てた。
「待ってたらダメ?」
アレイスは悲しげに笑った。
「君は君の幸せを想うべきだ。指輪は売って金に換えるといい」
「ううん。アレイスが常闇の王にならなくてもいい世の中になるまで、持って待ってる」
アレイスはロウザを抱き締めた。
「待っている間に年を取って死ぬ」
ロウザはアレイスの胸に頬を寄せて目を閉じた。
「いいよ。気にしない。死んだらまた生まれ変わって待ってる」
カイルとロドリオは神妙な顔でうつむいた。
「……参ったな。私は常闇の王になってもらいたいのだが」
「いや、参ったのはこっちですよ。責任重大じゃないですか。つまりあれでしょ? 僕がザインに勝てば、ロウザさんはアレイスと結婚できるわけですよ」
カイルの言葉を受けて、ロドリオは半ば苛立ち、半ば呆れて宙を仰いだ。
「ああ、本当に重大だな。常闇の王にならずとも、君が勝利すれば光明の王だ。何にしても王だ。陛下と呼ばないならアレイス様と呼べ」
「自分の思想押し付けないでもらえます?」
そこへロウザが割り込んだ。
「ちょっと待って! 何の話?」
カイルとロドリオは順を追って説明した。アレイスは常闇の王にも光明の王にもなれる存在だということ、その切り札をデルスターの大将とカイルが持っているということを。
絶句しているロウザを前に、カイルは深いため息をついて言った。
「本当はこの世の命運をかけて戦うとか、自信ないから嫌なんですけど、頑張ります。何もしないで恨み買いたくありませんし」
ロウザは不意に我に返って、カイルを眺めたあと、うつむいた。
「あまり期待しないで待ってるけど……そうしてくれると嬉しい」
「えっ、いやいや、少しは期待してくれてもいいですよ」
「本当?」
「ほんと、ほんと。それより、ハクモンレンの丘ってまだあるんですか?」
「え? うん、あるけど」
「じゃあ、案内してもらってもいいですか?」
「ええ」
「そんなものを見てどうするんだ」
とはロドリオが言った。
「ちょっと確かめたいことがあるんです」
カイルは答えて受け流した。
ロウザに案内してもらったハクモクレンの丘は、ジークフリート伯の屋敷とプラタナスの街のちょうど中間地点で、屋敷も街も見える。カイルは白い花の咲く一本の木を見上げた。デルスターの根城から帰還する途中のマーサレ地方北端の町で、アレイスが見つめていた木と同じだった。
なんてこった。
とカイルは思った。
ただの人間だと信じていた頃の自分を想っていたのか、ロウザを想っていたのか、その両方か。アレイスの感傷はカイルにはきつかった。あまりに重く、あまりに切ない。
カイルは右の手を伸ばし、木に触れた。そして、
「僕には到底、想像できない。貴方が背負っているものや、苦しみなんか。でも、もう一度ここへ戻って来ることを願っているなら、力になります。精一杯」
と宣言した。
翌日。
カイルとロドリオはそれぞれの場所へ帰るため、プラタナスの街を去った。
カイルはフードを目深にかぶり、遠ざかっていく街を一度振り返った。
「結局、どうして聖剣が選んだのかは分からなかったけど……僕はどうでも、貴方を光明の王にしてみせます。でなけりゃ、みんな不幸だ」
一方ロドリオは、街で聞いた話は墓場まで持っていくと誓っていた。王の心を知る者は限られた者で良いと思うからだ。心無い者の干渉が、王の選択に悪影響を与えないとは言えない。常闇の王になって欲しくはあるが、光明の王でも絶対的な力に変わりないなら、心は守るべきだろう、と。
もともとロドリオにとって重要なのは、王と崇める者が絶大であるかないかだ。圧倒的な力による統治こそ世の秩序には必要であり、真の平等に不可欠であると考えている――唯一無二の王による完全な支配こそ、彼の「正義」なのだ。
「どちらにしろ、あれほど完璧な存在は他に求めてもない」
ロドリオがアレイスを称賛している頃、同じく常闇の王を崇拝する組織スカルノスの副将ブランシエ・マーゴットは、大将のアントニウス・ロードの首元に後ろから腕を回しながら、妖艶な声で言った。
「デルスターの大将も案外大したことなかったねえ。聖剣騎士ごときに屈したんだって?」
アントニウスは筋骨隆々で上背のある三十前後の男だ。どこにでもいそうな顔つきだが、眼光は鋭い。刈り込んでいる真っ白な髪が日焼けした肌によく映えている。
一方、ブランシエは真っ直ぐな長い黒髪と切れ長な目をした美女で、豊かな胸と腰のくびれを自慢としている。
アントニウスはブランシエのしなやかな手に口づけし、その腕をほどいてベッドを抜け、ガウンを纏った。
「ザインが存外つまらない男だったか、聖剣騎士がよほどの強者だったか、それはまだ分からない。結論付けるのは早計だ」
「そうかもしれないけど……好機だよ? アタイたちが崇拝組織の頂点に立つまたとない機会さ。アンタだってそう思ってるんだろ?」
ブランシエの言葉にアントニウスは「はっ」と一笑した。
「組織の強さや大きさを競っても仕方がない。肝心要のサイラス様がいなくては。この世に現れた時はブランシエ、お前も俺の敵手だ。油断するなよ」
ブランシエはクスクスと笑った。
「そりゃね、アタイだってサイラス様の一番のお気に入りにはなりたいよ。でもアンタが気に入られりゃ、アタイが気に入られたも同然さ」
「ほお? しおらしいことを言う」
「アタイはしおらしい、いい女だろ?」
言いつつ、笑みを浮かべて上目遣いにアントニウスを見つめる。アントニウスは花の蜜に誘われる蜂のように吸い寄せられ、
「……違いない」
と呟きながらベッドに片膝かけて、ブランシエに口づけた。
機を狙っているのはスカルノスだけではない。アンダルドも同じだ。大将のロムルス・デルダノスは副将であるトルトス・レダを部屋に呼び、密談した。
「さすがに数千年、聖都を護った剣を所有する騎士ともなると、ザインでも征服しきれなかったか」
ロムルスは豊かな赤髭を撫でた。四十を回った貫禄はあるが、渋い目元をより渋くするかのようにしかめた眼差しは、翳りを落としている。
「聖剣騎士は、思っていたより脅威だな。フェンネルのことと甘く見ていると、このハスローン王国にも影響を及ぼすかもしれん」
「ですが、好機でもあります。ハスローンには鉱山がございます。それも常闇の王の復活には欠かせないと云われている鉱山が。もし深淵の闇へと続くものならば、これ以上、我らが王へ献上するに相応しいものはありますまい。アンダルドが崇拝組織の中心となるのも夢ではないでしょう」
希望に溢れた声で応えるトルトスは、二十三という若さに見合った目の輝きをしている。ロムルスはそれを少し羨ましく思いながら、視線を流した。
「しっかり押えてあるのか? 例の鉱山はダイヤも出る。国の連中も黙ってはいまい」
「魔術で障壁を張っております。普通の人間では近寄るのも困難でしょう」
「そうか」
とロムルスは窓を覆っていたカーテンを少し開け、灰色の空を見上げた。
「サイラス様さえいてくだされば、崇拝組織も聖剣騎士が現れたとて揺らぐまいが、今は辛抱の時か。だがいずれこのハスローンも、王の首ごとサイラス様へ献上してみせよう」
呟かれる願いを、側で聞いていたトルトスは噛みしめて目を伏せた。
ロムルスは成し遂げようとするであろうが、それを陰で支え、成功へ導くのは己の仕事だ。この比類ない努力を、常闇の王は必ずやご覧になり、すべての者が額づく時は、自分にお声をかけてくださるに違いない、と。