エピソード VI
帰還した騎士団より、アレイスが捕虜として連れ去られたという知らせを受けた聖女エリは、気を失いかけて神皇帝ヴァローアの腕に支えられた。
「しっかり」
「……ごめんなさい、ヴァル」
エリは子供の頃から呼んでいる愛称でヴァローアを呼んだ。公の場で呼ぶことは極力控えていたにもかかわらず口からもれたのは、よほど気を病んでのことだろうと、ヴァローアは心配してエリを椅子に座らせた。
それを見届けてから、カイルは話の続きをした。
「早急に全兵力を集め、救出に向かいたいと思います。許可をください」
ヴァローアは息をついてカイルを見つめた。
「気持ちは分かるが難しい。聖都に残った騎士団員は、それぞれ救援要請のあった地へ派遣している。軍も半数以上向かわせた。残る兵は聖都を防衛する役目がある」
「しかし!」
一歩前へ出ようとしたカイルを、側にいたヘレノスが制した。騎士の身分でこれ以上は不敬である。意見を述べるのであれば、騎士団の中では下だが身分となると侯爵家にあるヘレノスのほうが適当だ。
「落ち着いてください、副団長」
ヘレノスは言い置いて、ヴァローアに向いた。
「ヴァローア様、どうかご神託を。この度の戦、聖剣騎士なくしては成り立ちません」
ヴァローアはヘレノスの顔を真正面から見つめた。侍従になる道もあったのに、結局騎士団へ入ってしまった。当時は平和だったからそれもありかと思ったが、一生の内に何も起こらないという保証はない。現にこうして有事に巻き込まれている。にもかかわらず、ヘレノスは今も騎士であろうとしている。己の平穏より国を護らんとする強い意志に従っているからだ。
ヴァローアは少しでもその心に報いてやりたいと思い、うなずいた。
「……分かった。少し待て」
天井を見上げて目を閉じ、両腕を広げて天にかざす。
目を閉じていても無数の光が見える。ヴァローアは生まれた時からこの光に守られていた。光ひとつひとつが神であり、愛である。迷う時に問いかければ、いつでも答えをくれる。フェンネルの皇帝が代々、道を誤らずに国を発展させてきた所以だ。
そして今日も無事に答えは得られた。しかし瞼を上げたヴァローアは、表情を曇らせて視線を落とした。
ヘレノスは眉をひそめてヴァローアへ寄った。
「いかがなされましたか」
ヴァローアは顔を上げた。その瞳は憂いに満ちていた。
「神は――カイル一人で迎えに行くようにとおっしゃられている」
団員たちは驚きのあまり騒然となった。椅子にかけていたエリも立ち上がり、ヴァローアの腕をつかんだ。
「まさかそんな! あんまりです!」
エリの気持ちはヴァローアにも痛いほど分かる。主従の立場を越えないためにあまり親しく付き合えはしなかったが、カイルとは幼馴染だ。失うのは怖い。それがなくとも、敵の根城に一人で向かわせるなど正気の沙汰ではない。しかしヴァローアは個人である前に神皇帝である。国を左右する決定に私情は挟めなかった。
「だがそのように承った。神の言葉に間違いはない。背けば甚大な被害がでるだろう。何か――何か理由があるはずだ」
「……それは、なんですか?」
ヴァローアは強く目をつむり、首を横に振った。
「分からない」
それからカイルを見据えた。
「しかし選択の権利は君にある、カイル。行くも行かないも君の自由だ」
あり得ないと思える神託が下されて茫然としていたカイルだったが、ヴァローアの言葉に慰めを得て、息を飲んでから、握った右の拳を胸に当てた。
「選択はありません。行ってきます」
「絶対にやめろ! やめてくれ!」
出立前に家族に会っていくことをヴァローアに勧められ、素直に従った結果、カイルは父ミハイルの猛反対にあった。
「何故あんな男のために、お前が危険を冒さねばならん!」
「父上!」
父親の暴言に、カイルは思わず声を荒げた。
「アレイスが取引に応じなければ、僕たちはあそこで死んでいた。みんなの命を救ってくれた人に対して、そんな言い方やめてください」
息子の反撃にあってミハイルは狼狽し、近くの椅子に腰を落とした。
「どうしてお前一人なんだ」
「神託には逆らえません。きっと重要な意味があると、神皇帝が。僕は神の采配を信じて行きます。そして何が何でも、聖剣騎士を連れ帰ってきます」
「……カイル」
「途中までは、ヘレノスとアルフレッドがついてきてくれるそうです。少なくとも道中は安全です」
アルフレッドとは、アルフレッド・ヴァン・レイトスといって軍の将校を務める二十九歳の男性である。銀色の短髪で背が高くガッシリとした体つきで、美しい妻と今年三つになる娘がいる。
「私も――私も行こう」
ミハイルはカイルの袖をつかんで、必死な眼差しを向けた。カイルはそんな父親の手をそっとほどいて言った。
「父上は、どうか母上のそばに」
たった一人で敵城へ向かうと聞いて、母親は寝室で泣き崩れている。放っておくことはできないと、カイルは説得した。
「親不孝を許してください」
それからリビングを出て、寝室へ向かい、嗚咽する母のそばへ寄った。
「行ってきます、母上」
ベッドに伏して泣いていた母親は、カイルに抱きついて尚も泣いた。カイルは母親の背に手をまわし、なだめるように撫でた。
「大丈夫です。必ず帰ってきます」
カイルが固い決意をして出立した時、ザインは王室にあり、アレイスの前に跪いていた。今後の展望を図るためである。
「城におとどまりいただいたということは、この俺……いや、私にご用命があるものと思っておりますが、いかがでしょう」
一人用のソファに足を組んで腰かけているアレイスは、静かにザインを見やった。
「無論」
「では」
「ただ、今のお前では力不足だ」
ザインは一瞬輝かせた目を曇らせ、唇を噛んで目を伏せた。しかし、
「より強大な闇、より純粋な闇、お前がそれらを従えさせるには奈落へ飛び込むのが手っ取り早いが、まず無理だろう。だが兵力は充分だ。とりあえず西のスカルノスを落とせ」
という言葉には驚きを隠せず、思わず顔を上げた。
「なっ、何故ですか」
「スカルノスの連中は、怪しげな魔術で闇の力を物質化、あるいは結晶化し、常闇の王の復活に使おうとしているようだ。魔術による結晶化は支配によるものより抑圧性が高い。結果、暴走し、周囲に瘴気をばら撒く。スカルノスの根城に近い町村では疫病で多くの犠牲者が出ているそうだ。これ以上死者が出る前に、連中の愚行を止めなければならない」
ザインは上目遣いに厳しい目つきで、アレイスを見据えた。
「……それは、マローネの国王どもの仕事では」
同じ椅子を狙っているという点では邪魔だが、常闇の王の復活を願い崇拝する組織である限り、スカルノスはザインにとって特別討つべき相手ではない。むしろ存続させておくほうが倒してしまうより有益だ。そこを討伐し、かつ近隣の住民を救おうというのは、聖者の思想である。ザインには、常闇の王ともあろう者が持って良い思想とは思えなかった。だがアレイスはこう言葉を返した。
「聖なる御業も闇の力も操れないただの人間には不可能だ。瘴気の発生源を断つには相応の能力がいる。お前が行って、元凶を断て。そうすれば魔術による抑圧から解放された闇はお前の配下に収まる。国を救って恩を売り、力を手に入れる。一石二鳥だ。当然分かっているだろうが、向かう前にマローネの王たちと交渉しておけよ。問題を解決するからには対価が必要だ。奪えるものは奪え」
つまり他者の不遇を自身の好機に変えろということだ。それも最大限に利用し活かせと暗に示している。聖者の思想から来る言葉でないのは明々白々どころか、己の欲求を満たすために淡々と組み立てた計略でしかない。
ザインは絶句しそうになるのを堪え、口を幾度か開閉したのち述べた。
「マローネに、ご所望の物が?」
顔を上げたザインと目を合わせたアレイスは、涼やかに笑った。
「察しがいいな。さすがだ」
「は、はい。あ、い、いえ」
「無理に謙遜するな」
「……申し訳ございません。それで、何を」
「砂漠が欲しい」
思ってもみなかったことに、ザインは目を丸めた。
「砂漠――というと、あの三国に跨るセルツイード砂漠ですか」
「そうだ」
アレイスはうなずいて、人差し指で自分の唇をスッと撫でた。
「私にくれるだろう? ザイン」
ザインは一層目を見開き、アレイスを凝視した。不敵な笑みを浮かべ見下ろしてくる視線――その瞳孔の奥に潜む威圧感はまさしく闇の支配者だ。そして単に砂漠をのみ求めているのではない。ザインの忠誠心とその証を欲している。
ザインは歓喜に打ち震え、抑えきれない笑みを隠すために顔を伏せた。
「必ず、必ず献上いたします。このザイン、命に代えても」