第89話 今じゃなくて、これから
週末になると、咲茉が悠也の家に泊まりに来る。
それは悠也が咲茉の家に泊まることが多くなったことで生まれた、彼女の新しい習慣だった。
以前起きたデパートの一件以降、悠也は咲茉の家に泊まることが増えた。
今も信頼できる誰かと一緒に居ないと不安がる咲茉を放っておけない。
たとえ自宅で家族と居たとしても、やはり悠也が居ないと心細い。そう言いたげに寂しがる彼女を、悠也が心配しないはずもなく。
そんな心配から、自然と悠也は咲茉の家に泊まるようになっていた。
互いの両親から咎められることもない。むしろ咲茉の両親からすれば、泊まる日が増えるにつれて家族が増えたと喜ばれているくらいだ。
その心の広さにホッと安堵してしまう悠也だったが、だが少しだけ困ったことがあった。
それは悠也の母、悠奈の存在だった。
悠也が咲茉の家に泊まるということは、つまり咲茉が悠也の家に行かないということ。
それにより、必然的に悠奈と咲茉の会える機会が極端に減ってしまう。
咲茉を娘のように可愛がっている悠奈がそんなことを許せるはずもなく。
娘に会いたいと悠也に何度も懇願し続け、更にはたった数日会わなかっただけで咲茉の家に突撃してしまう始末だった。
その強行策に咲茉が嬉しくて泣くという騒動を経て、週末は彼女が悠也の家に泊まることで悠奈も渋々と納得したというのが事の顛末だった。
最初は咲茉が悠也の家に泊まれば良いのではとも考えられたが、長期的に考えると、割と手間なことが多かった。
そもそも平日は学校がある。それに咲茉が日課としてる弁当の準備に加えて、女の子ならではの準備もある。
その諸々も含め、更には日用品や衣服などを用意するのも手間になる。それが女の子なら、男よりも多くなるのが普通である。
それに対して、男の悠也が必要な荷物など大した量ではない。彼が必要な物をまとめても、小さなカバンひとつに収まる。
なので、わさわざ咲茉の荷物を移動させる手間を考えれば、単純に悠也が泊まるのが手間が掛からない。
週末の二日程度なら、以前から悠也の家に咲茉が常備している物だけで事足りる。
そんな理由が色々とあり、週末だけ咲茉が悠也の家に泊まるようになった。
「咲茉って本当コレ好きだよな」
夜も遅くなった時間、寝るまでのひと時をのんびりと自室でテレビを眺めていた悠也がしみじみと呟く。
「ん〜、コレが一番幸せな気分なれるから好き〜」
そんな彼に、咲茉が心良さそうに頬を緩めていた。
今の彼女は足を広げて座る悠也を背もたれにして座り、背後から軽く抱き締められている。
やはり、この体勢が好きで堪らない。
抱き締められて、背中全部に大好きな人を感じられる。
これが自分だけに許された行為だと思うだけで、自然と咲茉の頬がだらしなく緩んでいた。
「暑くないのか?」
そんな彼女に、ふと悠也が何気ない疑問を口にした。
もう夏に差し掛かり、気温も上がってきている。
こうして咲茉とじゃれ合うのも決して嫌ではない。むしろ好きだと断言できる。
だが、暑いと体調を崩すかもしれないと思えば、心配のひとつもしてしまう。
「全然……って言うと嘘になるかも。ちょっとだけ暑い」
心なしか咲茉の頬がほんのりと赤くなっている。
恥ずかしさと言うよりも、純粋に体温が違っているだけだろう。
「ならちょっと体勢変えるか」
「やだ。このままが良い」
「でも、暑いんだろ?」
「確かにちょっと暑いけど、きっとさっきまでお風呂に入ってた所為だよ。お母さんと長風呂しちゃって少しのぼせたのかも」
パタパタと手を団扇にしながら、咲茉が苦笑いする。
少し前まで、悠奈の我儘によって咲茉は彼女と二人でお風呂に入っていた。
確かに風呂上がりだからか、悠也が抱き締めている咲茉からほんのりと石鹸の匂いがする。
そして薄着な所為で、どうにも肌の露出が多い。警戒心が全くないのか服の隙間から見える素肌を隠す素振りも見せない。
背後から抱きしめていれば、当然だが少し見下ろすだけで咲茉の素肌が見えてしまう。服から覗く下着も、胸すら嫌でも見えてしまって悠也の心臓が止まりそうになる。
決して手を出してはいけない。それだけは絶対にしてはいけないと自分に何度も言い聞かせているが、気を抜くと身体が反応しそうになる。
「……どうしたの?」
「いや、なんでもない」
これも男の性というやつなのだろう。情けないと自身に呆れながら、悠也は苦笑して誤魔化すことにした。
「変な悠也」
しかし咲茉が不思議そうに首を傾げてしまう。
このまま追求されると面倒なことになる。
そう思った悠也は、おもむろに話を変えることにした。
「なぁ、咲茉。あれから乃亜達と上手くやれてるか?」
それは今まで一度も悠也が訊くこともなかった問いだった。
あの日、咲茉が乃亜達に隠していた過去を語った日から、彼女達と良好な関係を築けているか。
その答えも、当然だが悠也も知っている。
だが悠也が思っていたところで、咲茉が同じだとは限らなかった。
「うん。みんな、私と仲良くしてくれてるよ。ずっと隠してたこと話してからも、すっごく」
それが咲茉にとって、どれだけの救いになったかは彼女の表情を見るだけで分かってしまった。
「私の為に泣いてくれるなんて思わなかったから……本当に、嬉しかったよ」
穏やか表情で安心したと語る彼女を見れば、乃亜達が彼女を想う気持ちも察せる。
その表情を見ていると、無意識のうちに悠也は俯いてしまった。
「ごめんな、咲茉」
「ゆーや?」
急に告げられた彼の謝罪に、咲茉が首を傾げる。
そんな彼女に、悠也は失笑混じりに答えていた。
「頼りない彼氏で、ごめん。多分、俺だけじゃ咲茉を安心させることもできなかったと思う」
「……そんなことないよ?」
急に何を言っているのだろう。
そう言いだけに怪訝に眉を寄せた咲茉に、悠也は小さく首を振っていた。
「あるよ。乃亜と色々と話してさ、咲茉が襲われないように対策とか考えた時も、自分の考えが足りなかったなって思うこともあったよ」
それは自身を責める、言葉だった。
咲茉を守る為に、乃亜と色々な話をした。
乃亜の提案と悠也の提案、それぞれの意見を話し合って決めたことが大半だったが、その話で悠也は自身の至らなさに気づくことが多かった。
その逆に乃亜も悠也の意見に感心する素振りを見せていたが、それでも自身の考えが足りないと思わされた。
「喧嘩だって、雪菜に武術とか教えて貰わないとどうにもならなかった。今だって右手怪我してるし……情けない」
喧嘩慣れしていない悠也が強くなるには、雪菜が居なければ何もできなかった。
武術を教わっていなければ、喧嘩をしても簡単に倒されてしまう。荒事に関しては悠奈に頼ってばかりだ。
それに右手の怪我も完治寸前まで治っているが、もし怪我をしていなければ今までの時間を無駄にしなかった。
「本当、みんなに助けられてばっかりだよ。俺も大人だっていうのに……呆れて笑いたくなる」
子供の乃亜達に頼るしかない自分が、やはり情けない。
10年も彼女達よりも長く生きていたというのに、どうにも上手くいかない。
考えれば、それも当然の話だったかもしれない。
タイムリープする前、咲茉が消えた日から何もして来なかった。
ただ惰性に生きてきただけの空っぽな人生で、自分は何も得ることはなかった。
自慢できることが何もない自分が、乃亜達に叶うわけがなかった。頭の良さも、喧嘩の強さも、なにも成長することもなかったのだから。
素直に言ってしまえば、きっと自分は10年前から何も変わってないのだろう。
この状況が、何よりの証明ではないか。
そう思った悠也が苦笑していると、
「むっ……ゆーや、怒るよ」
ふと、咲茉の手が悠也の両頬を掴んでいた。
そのまま痛くもない強さで、悠也の頬が左右に引っ張られる。
「余計なことばっかり考えたらダメだよ。みんなが協力してくれるのは確かに嬉しいけど、でも私は悠也が傍に居てくれることが一番嬉しいの」
悠也の顔を見上げながら、咲茉の眉がムッと吊り上げる。
「みんなと一緒にいるのは楽しいよ。幸せだなっ思えるくらい。でも私にとって一番幸せな時間は、悠也と一緒にいる時なんだよ。好きなところなんて何個でも言えちゃうんだからね」
そしてしばらく悠也の頬を引っ張っていた咲茉が手を離すと、小さな笑みを浮かべていた。
「だから一緒に、変われば良いと思うよ」
「……一緒に?」
思わず訊き返した悠也に、ゆっくりと咲茉が頷いた。
「うん。きっと私も、男の人が怖くなくなるまですごく時間が掛かるから。悠也も自分に自信が持てるように頑張ってみようよ。私も頑張るから」
今じゃなくて、これから。
そう告げる彼女に、悠也は自分が情けないと思うしかなかった。
こうして励ましてくれる彼女の言葉に、少しだけ心が軽くなったような気がしてしまう。
「あぁ、頑張るよ。咲茉を守って、お前が自慢できる男になれるように……頑張るから」
「いつだって悠也は私の自慢の彼氏さんだよ」
そう言って恥ずかしそうに笑う咲茉を、思わず悠也が強く抱き締めていた。
「ちょっと、くすぐったい」
「少しだけ……もうちょっとだけ、このままでいさせてくれ」
「もぅ、まぁ私も幸せだから良いけど」
そして満更でもないと頬を緩める咲茉を抱き締めたまま、改めて悠也は決意した。
情けない自分から変わろう。絶対に。
また、その決意を新たに、ぎゅっと悠也は咲茉を抱き締め続けた。
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