第80話 この胸に誓った決意
ここ数日間――凛子の心は、文字通り“空っぽ”だった。
きっとあの日を境に、心に穴が空いてしまったのかもしれない。
そして空いた穴から、自分の大切なナニカが抜け落ちてしまったのだろう。
そう思えるほどの虚無感が、ずっと凛子の心を締めつけていた。
なにもしたくない。なにかしたいとも思わない。
ただ無意味に過ぎていく時間の感覚すらもあやふやで。
まるで機械のように、決められた行動をするだけだった。
朝起きて、学校に行き、帰って眠る。
そしてまた朝起きて、学校に行き、帰って眠るだけ。
食事すらも必要と思えなくて、親に指摘された時だけ機械的に摂取するだけだった。
怪我の手当ても、風呂も、なにもかもがどうでも良かった。だから指摘された時だけ、命じられたままに従う。そうすれば、なにも言われない。
話しかけられても、なにを答えたかすら思い出せなかった。思い出すもなにも、はじめから覚えていなかったのだろう。
そんな些細なことも、どうでも良かった。
ただひたすらに、頭の中で何度も繰り返される光景が、空っぽになった凛子の心を苦しめていた。
なす術もなく、何度も蹴られ続けてしまった自分を庇った咲茉の姿が、頭から離れない。
あの時の光景を思い出す度に、心の穴が大きくなっていくような気がしてしまう。
なにもできなかった自分が、ただ情けなくて。
大好きな友達を守ることもできなかった自分が、どうしようもなく惨めで。
あまつさえ、守ると心に誓った彼女に守られてしまった。
それが本当に……泣きたくなるほど、辛かった。
情けなくて、惨めで、辛くて――感情のままに泣き叫びたくなる。
だが凛子も、それだけはできなかった。
それができる資格が、自分にあるはずがない。
ここで泣いてしまえば、きっと壊れてしまう。
何個も穴が空いて、大切なモノが抜け起きて、どうにか形だけを保っているだけの心が、間違いなく壊れるだろう。
そうなれば最後、もう戻れなくなる。
もう咲茉と会うことすらできなくなる。彼女に会わせる顔がないと。
咲茉に会えなくなると考えるだけで、凛子の頭がどうにかなりそうだった。
泣けば、そうすることしかできないと考えてしまう。非力で、弱い自分が咲茉の傍にいる資格などないと。
喧嘩には多少の自信があった。これでも昔、中学時代は喧嘩ばかりの日々を送っていた。
どうして荒れていたのかは思い出せないが、別に家庭環境が悪かったわけではない。ただムカつくことがあると、感情を抑えきれなかった時期があったのだろう。
そんな日々を過ごして、雪菜に喧嘩を売って返り討ちに合い、自暴自棄になっていた時――咲茉と出会った。
何度も雪菜に喧嘩売っては返り討ちにあう度に、咲茉が何度も優しく接してくれた。
そこに侮蔑も、軽蔑もなく、無垢な笑顔を向けてくれた。
喧嘩で作った軽い怪我でも、咲茉は慌てて手当してくれた。拒絶しても、彼女は折れなかった。
その理由を尋ねれば、呆れる答えが返ってきたのを、今でも凛子は昨日のように思い出せた。
『私ね! 凛子ちゃんと友達になりたいの!』
そんな彼女と何度も接していくうちに、自然とムカつくことも少なくなった。
喧嘩も、しなくなった。そしていつの間にか、咲茉と一緒にいることが心地良いとすら思うようになり――
気づくと、咲茉と友達になっていた。
咲茉と一緒に居るのが楽しくて、全くいなかった友達も増えて、退屈だった日々が楽しくなった。
こんな自分に、楽しい時間を与えてくれた咲茉のことを親友と呼べるくらい、大好きになってしまった。
顔も仕草も、何もかもが可愛くて、あの笑顔を見ているだけで、この心が和んでしまう。
だからきっと、こうして学校に来るのも、咲茉に会いたいからだろう。
でも空いている咲茉の席を見る度に、心が痛くなる。
会うのが怖いと思っても、彼女の顔が見たいと思ってしまう。
あの時、守れなかったことを責められるかもしれない。叩かれるかもしれない。
それでも、咲茉が無事であることを知りたいと思ってしまう。
電話も、メッセージも、する勇気もない。ただ彼女の顔を見れるだけで満足だった。
きっと声を聞けば、訊いてしまうから。今は顔を見れるだけで良かった。
あの銀髪の男が言っていたこと。
悠也が叫んでいた意味不明なこと。
そして咲茉と悠也か泣いていた光景が、忘れられない。
あの光景を見てしまえば、嫌でも分かってしまった。
自分に話してくれなかった秘密を咲茉が抱えていると。
どうして自分に話してくれなかったのか。
なぜ親友の自分に相談もしてくれなかったのか。
それすらできないほど、自分は信頼できない人間だったのか。
頭の中に浮かぶ数々の疑問が、凛子の胸を締めつけてしまう。
だが訊きたくても、訊けない。
話してくれないということは、それは当然だが信頼されてなかったことに他ならない。
だから訊いて、答えてくれなかった時のことを考えると、訊けるはずがなかった。
所詮、自分は彼女にとってその程度の人間だと告げられるのが怖くて。
そんな思いをするから、触れない方が良いのではと思う自分が堪らなく情けない。
だが、もしもこの先、咲茉が隠している秘密を話してくれる時が来たら、今後こそ変わろう。
その秘密を話してくれるほど、自分を信頼してくれるのなら変わらなくてはならない。
守ることすらできなかった、弱かった自分が変わらなくては、咲茉の傍にいる資格はない。
彼女からたくさん貰った幸せの恩返しに自分ができることなど、限られている。
今度こそ、どんなことからも彼女を守れるように。
もう彼女に怖い思いをさせないくらい強くなろう。
その時が来たら、必ず変わろう。
朝の教室で、呆然としている凛子が静かな決意をした時だった。
「――凛子ちゃん」
ふと、聞き慣れた声が聞こえた。
聞き間違えるはずもない。
それは大好きな、親友の声だった。
「……えま?」
「うん。ごめんね、何日も学校休んで」
呆然と声を漏らす凛子に、咲茉が引き攣った笑みを浮かべる。
「……」
その姿を見て、凛子は喉奥から込み上げる声を抑えるのに必死だった。
制服から覗く包帯と湿布が、咲茉の傷の酷さを物語っている。
その原因が自分にあると思えて、思わず凛子が泣きそうになってしまう。
「……えま、その」
思わず、反射的に凛子が謝罪しようと詰まる言葉を強引に吐き出そうとする。
「――凛子ちゃん」
しかし彼女が話す声を、咲茉の声が遮っていた。
「なんだよ」
「えっとね、あのね……」
なにか言いたそうに、咲茉が何度も小さな口を開け閉めする。
その姿に、怪訝に凛子が眉を顰めると、
「放課後、話したいことがあるの」
「……話?」
「うん。私の、ずっと、ずっと言えなかったこと……凛子ちゃんに話したいの」
そう話す咲茉の顔が、少しずつ歪んでいく。
「……私に、か?」
「聞きたくなかったら良いよ。きっと聞いたら、私のこと……嫌いになるかもしれないから」
「私が……咲茉のこと、嫌いになるわけないだろ」
「分かんないよ。多分、良い気分にはならないよ」
今にも泣きそうだと言いたげに目を潤ませる彼女に、凛子は呆然としながらも反応していた。
「絶対ならねぇよ。なにがあっても、私は」
「そうなってくれたら、嬉しい。だから放課後、私の話聞いてくれる?」。
咲茉の様子を見る限り、大事な話なのだろう。
それはきっと自分の想像すら超える話かもしれない。
だが、もし彼女の話が、たった今考えていた秘密だというのなら……改めて、この決意を証明するべきだろう。
この胸に誓った決意を、今度こそ。
「……わかった。聞くよ、その話」
咲茉の話に、凛子はゆっくりと頷いていた。
先程まで消え失せていた活力が、不思議と胸の奥から湧き出てくるような気がした。
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