第59話 殺してしまいます
鈍足で走る乃亜を追い越して、デパート内の奥から警備員達がこの場に向かって来ている。
どうやら今までこの場に居なかった乃亜が、いつの間にか彼等を呼んでいたらしい。
人数は10人程度、その全員が体格の良い男だった。おそらくデパート内を巡回していた警備員達が集まって来たのだろう。
この騒ぎも、彼等が来れば問題なく収まる。そう思える光景に、本来なら誰もが安堵するはずだったのだが――
「……っ!」
彼等の姿を見た瞬間――即座に悠也の身体が動いていた。
この場に彼等が来てしまえば、すぐに騒ぎを起こした拓真達が取り押さえられてしまう。そうなってしまえば、もう殴ることすらできなくなる。
それだけは絶対にさせないと、悠也は目の前の拓真に向かって駆け出していた。
走り出した悠也の視界の端で、雪菜が3人の男達と対峙している。おそらく警備員がこの場に来るまでの僅かな時間でも、彼女なら容易に倒し切れるだろう。
むしろ雪菜の実力ならば、拓真すらも相手にしてしまうかもしれない。かつてない大激怒を見せている彼女が、拓真に向かうのも時間の問題だろう。
それも何があろうとも、させるわけにはいかなかった。
「なんで警備員が来てんだよッ! クソがッ!」
この場に警備員が来ることに動揺しているのか、拓真の表情に焦りが浮かぶ。
その顔を見ただけで、一度冷めてしまった悠也の頭は灼熱のごとく沸騰していた。
何があっても、この男だけは許してはならない。
吐き気すら覚える身勝手な性欲だけで、この男は咲茉の人生を滅茶苦茶した。
その所為で、咲茉は身体と心に、決して癒えることのない深い傷を負ってしまった。
他人と関わることを恐れて、部屋に引き篭もり、外の世界に出ることすらできなくなった。
そして最後には彼女の命すらも一度奪った男を、悠也が許せるわけがなかった。
「――てめぇの所為でぇぇぇぇっッ‼︎」
その全ての元凶に、接近した悠也が全力の右拳を振り抜いた。
「ったく! さっきからウゼェんだよッ! 俺の邪魔しやがってッ‼︎」
顔面に撃ち出した悠也の右拳を、拓真の左腕が守ってしまう。
しかし守られたと認識するよりも先に、続けて悠也は拓真の脇腹に左拳を放っていた。
間髪入れずに放った。絶対に当たる。そう悠也が確信していたのだが――
「ガキがイキがってんじゃねぇッ!」
「ごッ――!」
放ったはずの悠也の拳が外に弾かれた途端、彼の腹部に鈍い衝撃が突き抜けた。
唐突に襲い掛かった喉奥から迫り上がる嘔吐感に、思わず悠也が苦悶する。
「おらぁッ!」
その僅かな隙で、拓真は思い切り悠也の身体を蹴り飛ばしていた。
「ぐっ――!」
前蹴りで放たれた拓真の右足を、悠也の脊髄反射が両腕で防ぐ。
咄嗟に防ぐことはできたが、勢いだけは抑えられず、身体が後ろに押し出される。そして腕から頭に突き抜けるような痺れが、悠也の表情を歪ませた。
「喧嘩慣れしてねぇのが丸わかりなんだよッ!」
「いっ――!」
そして気づくと、いつの間にか放たれていた拓真の右拳が悠也の頬を撃ち抜いていた。
口内に広がる血の味。そして揺れる視界と頭を突き抜ける激痛によって、悠也の意識が飛びそうになる。
「ッ――!」
だが倒れそうになりながらも、悠也の身体は反応していた。
鍛錬とは、何度も繰り返す動作を強引に身体へ染み込ませる作業である。
その今日まで数え切れないほど繰り返してきた受け身の経験が、無意識でも悠也の身体を動かしていた。
身体が倒れる瞬間、無意識で受け身を取った悠也が即座に立ち上がる。
「なに勝手に立ってんだよッ!」
本来なら倒れるはずだった悠也が、なぜか立ち上がった。その光景に怒りを露わにした拓真の右拳が、再度放たれる。
「……っ!」
その向かって来る鋭い拳を、悠也は朦朧とした意識の中で見つめていた。
先程、頬に受けた一撃で分かってしまった。腰の入った、彼の重い拳が物語っていた。この男は、喧嘩慣れしていると。
ガラの悪い見た目通りなのか、培ってきた喧嘩の経験が違い過ぎた。
今も向かって来る拳も、先程と同等の威力だろう。一度受けただけで悠也の意識は飛びそうだった。もう一度喰らってしまえば、今度こそ意識が飛ぶ。
どうにかして攻撃を躱わして反撃しなくては……そう思う悠也だったが、なぜか勝手に足がふらついていた。
どうやらたったの一撃で、脳が揺れてしまったらしい。軽い脳震盪が起きていた。思うように、足が動かない。
この時点で、悠也に動いて躱わすという選択肢は消えてしまった。更にガードも、腕が下がり切っていて間に合わない。
このままでは間違いなく、何もできずに拳を喰らってしまう。
そう思う悠也だったが――その時、ようやく彼は自身の勘違いに気づいた。
始めから、自分は喧嘩することに慣れてない。人を殴った経験もない自分が、眼前にいる男と経験値を比べたところで勝てるわけがない。
そもそも、悠也は攻撃することを雪菜から教わっていなかった。
悠也が教わってきたことは、その全てが受け身の行動でしかない。
雪菜から教わったことを、身に付けた力を正しく使う為に、咲茉を守る為に培ってきた。
今日まで自身が培ってきた力は、決して自ら攻撃する術ではないのだから。
この目は、迫る拳を捉えている。その動きもハッキリと見えている。ならば、後は身体に染みついた動きをするだけだった。
「おらぁぁッ!」
「……」
迫る拓真の右拳の甲に、そっと悠也が右手の甲を添える。
そして軽く外に押し出すだけで、拓真の拳は悠也の顔の横を通り抜けていた。
「は……?」
突然の出来事に、唖然と拓真の口から声が漏れた。
必ず当たるはずだった攻撃が、なぜか逸れた。一体なにをされたのかすら理解できなかった拓真の身体が、殴り掛かった勢いのまま前に倒れ込む。
その隙を、悠也が見逃すはずがなかった。
「おらぁぁッ!」
「がっ――‼︎」
すでに放たれた悠也の左拳が、拓真の頬を撃ち抜いていた。
カウンターの要領で撃ち出した悠也の拳が、問答無用に拓真の脳を揺らす。
そしてふらついた拓真の胸倉を悠也の左手が咄嗟に掴むと――
「なにが主人公だッ‼︎ このゴミクズがぁぁぁ‼︎」
更に放った悠也の右拳が、拓真の顔面を殴っていた。
「テメェの所為でぇぇッ‼︎ どれだけ咲茉が傷ついたと思ってんだよぉッ‼︎」
叫ぶ悠也の拳が、何度も拓真の顔を殴る。
「初めてを奪ったぁぁッ⁉︎ ふざけてんじゃねぇぞッ⁉︎」
ひたすらに振るう拳の感覚が無くなっても、悠也が何度も腕を振るう。
「テメェが犯した所為でッ! お前が殴った所為でッ! 咲茉がどんだけ辛い思いしたと思ってんだよぉぉッ‼︎」
もう拳すら使っている感覚すらない。それでも悠也は拳を振っていた。
「俺は忘れてねぇからなッ‼︎ お前が咲茉を殺した時のことッ‼︎ 何度も咲茉の身体を刺したことッ‼︎ 忘れてねぇからなぁぁぁぁッ‼︎」
必死に殴りながら、悠也の脳裏に死んでしまった咲茉の姿がフラッシュバックする。
こんな男が、咲茉の人生を狂わせたことが許せない。
幸せな人生を送るはずだった。誰よりも綺麗な女性になるはずだった。それを身勝手に壊したことが許せない。
こんな男が、大好きだった咲茉を犯したことが許せない。
好き勝手に身体を弄んで、傷つけたことが……許せない。
こんな男が、咲茉の命を奪ったことが許せない。
この男に、最も相応しい罰があるとすれば――
「殺してやるッ‼︎ お前だけは絶対に殺して――」
そして更に悠也が殴ろうとした時だった。
「悠也さん、そこまで」
振り抜こうとした彼の腕を、突然、淡々とした口調の雪菜が掴んでいた。
それでも殴ろうとする悠也の腕を、雪菜が無理矢理抑える。
「それ以上は駄目です。殺してしまいます」
そう言われて、ようやく我に返った悠也が掴んでいた男を見ると、顔面が血だらけになっていた。
――今なら止めを刺せる
そう思った悠也が強引に感覚のない右拳を振ろうとした途端、雪菜が拓真を掴んでいた彼の手首を捻るなり、強引に拓真から引き剥がしていた。
そして、これ以上悠也が手を出さないように、ふらついた拓真の身体を雪菜が蹴り飛ばす。
「だめだ……アイツだけは殺さないと……!」
「人を殺して良い理由なんてありませんっ!」
吹き飛んで地面に倒れた拓真に強引にでも悠也が近づこうとするが、雪菜によって止められてしまう。
「だめだ。アイツだけは……アイツだけは!」
まるでうわごとのように、何度も呟いた悠也が雪菜を振り解こうとする。
しかし力で雪菜に劣る悠也は、彼女になす術もなく動きを封じられていた。
「もう警備員がいます! あとはもうあの人達に!」
「いやだ……俺が、トドメを刺さないと」
そうしていると……いつの間にか、なぜか悠也が泣いていた。
突然泣き始めた悠也に雪菜が困惑してしまうが、それでも彼女は頑なに彼の動きを止めていた。
「アイツの所為で、咲茉が、あんなに綺麗だった咲茉が、あ、あぁ……アイツの、所為で……っ!」
そして遂に身動きすらしなくなった悠也がその場に崩れ落ちると、そのまま嗚咽を漏らして泣いていた。
床に頭を擦り付けて、何度も拳を床に叩きつけながら、悠也が泣き喚く。
その異様な姿に、雪菜を始めとした全員が呆然としている時だった。
「でめぇぇぇらのぜいでぇぇぇぇッッ‼︎」
いつの間にか立ち上がっていた拓真が、近くに置かれていたベンチを悠也に向かって投げ飛ばしていた。
「あの男っ!」
質量にして約40キロ弱のモノを投げ飛ばす余力が、殴られ続けた彼のどこにあったというのか?
雪菜も躱わすのは容易だったが、今も崩れ落ちている悠也を放置することはできなかった。
向かって来るベンチを雪菜が受け止める。投げ捨てるわけにもいかない。そう思った彼女がゆっくりとその場にベンチを下ろしている隙に、拓真はふらついた足取りで走り出していた。
血だらけの顔面を鬼のような形相に歪ませて雪菜達を睨むその顔は、底知れぬ憎悪に満ちていた。
その表情を冷たく雪菜が見つめていると、逃げ去った彼を警備員達が追い掛けていた。
自分も逃げる拓真を追いかけるべきだと思う雪菜だったが――
「えまっ……えまぁぁぁ……!」
その場で泣き続ける悠也を放っておくことはできなかった。
「……」
そっと悠也に寄り添った雪菜が、その背中を撫でる。
そうすると、彼は跪いたままの姿で、ひたすら泣いていた。
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