第55話 死ぬほど気持ち悪い
忘れたくても、忘れられないことがある。
たとえ身体が覚えていなくても、この心に植え付けられた恐怖は――確かに覚えていた。
その声だけは、決して忘れるなと。
「ぁ……ぁぅ……」
無意識に咲茉の喉奥から、掠れた声が漏れた。
全身を駆け巡る悪寒で、身体が思うように動かない。声すらも、思うように出ない。
それなのに、なぜか咲茉の首だけが勝手に動いていた。
たった今、聞こえた男の声に向けて。
見てはいけない。見れば必ず後悔すると分かっているのに、何度拒否しても、身体が勝手に動いてしまう。
そして否応なしに、ゆっくりと向けられた咲茉の瞳が声の主を捉えた途端――
「…………ひっ」
声にならない悲鳴を漏らしながら、咲茉は絶句していた。
「やっぱり咲茉じゃん! マジで会えるとかウケんだけど!」
心底楽しそうに、その男は咲茉を見るなり笑っていた。
随分と人相の悪い男だった。高く見ても、おそらく年齢は18歳にも満たないだろう。
顔立ちは整っているのに、その細い顔に吊り上がった鋭い目つきが、周囲全てを威嚇しているようにすら感じさせる。
銀髪に染まった短髪。黒一色の服装。半袖から覗く腕を見るだけで、筋肉質な身体だと分かる。
そして首に趣味の悪いネックレスと、耳に数多くのピアスを付けていれば……嫌でも彼のガラの悪さが目立っていた。
「え? もしかしてこの子が拓真さんの言ってた子ッスか〜?」
「めっちゃ可愛いじゃん! 拓真さん! この子食えるとかマジ⁉︎」
拓真と呼ばれた男の背後で、彼と似た姿の男達が咲茉を見るなり嬉しそうに騒いでいた。
数えて8人程度、拓真の背後で下品な笑い声がその場に響き渡る。
その声に咲茉が震えていると、怪訝に凛子が眉を顰めていた。
「……咲茉? 知り合いか?」
「…………」
必死に、何度も咲茉が首を振るう。
その反応を、凛子は素直に信じていた。
異様に怯えた咲茉の反応は、おそらく極めてガラの悪い男達を目の前にしたからだろうと。
そもそも咲茉にこの手の男達と接点があると思えるわけもない。
そう思った凛子がベンチから立ち上がると、目の前の男達を睨みつけていた。
「あ? 急に話し掛けてくんなよ? 私達になんか用か?」
「てめぇじゃねぇよ。そこの咲茉に用があんだよ」
拓真と呼ばれた男が、咲茉を横目に失笑する。
明らかに小馬鹿にしているとしか思えない彼の態度に、思わず凛子の目が吊り上がった。
「なに勝手に呼び捨てにしてんだよ。調子乗んな。咲茉はアンタのことなんて知らないって言ってんだからどっか行けよ」
目の前の男達を前にしても、全く怯える様子も見せずに凛子が鼻を鳴らす。
相手を小馬鹿にする彼女の姿に、なぜか拓真は心底面白いと笑っていた。
「女の癖に強気じゃん。この人数でそれだけ啖呵張れるとか良い度胸してるわ」
「拓真さん! よく見たらこの女も相当良い身体してません?」
「あぁ……そう言われればそうだな」
背後の男に言われた拓真の目が、凛子に向けられる。
凛子の身体を下から上まで、ゆっくりと眺めていく。
まるで品定めしてるような彼の邪な視線に、反射的に凛子の顔が嫌悪に歪んだ。
「キモ……なに人の身体じっと見てんだよ」
「お前みたいな強気な女を屈服させるの、めっちゃ気持ち良いんだよなぁ」
「は……?」
突然、意味の分からないことを言い出した拓真に凛子が困惑してしまう。
だが先程と変わらず、拓真は凛子の身体を眺めながら下品な笑い声を漏らしていた。
「やべ、お前のこと犯すの想像したら我慢できなくなるわ。そのうち相手してやるから待ってろよ」
「はぁ……?」
ぞわっと、凛子の背筋に寒気が走った。
決して日常生活で聞くことのない、身の毛もよだつ単語が……いまだかつてない嫌悪感を凛子に与えていた。
「お前、なに言ってんだ?」
「あ? 俺がお前の相手してやるって言ってるだけど? 分かんねーの?」
「だから、なに言って……」
「だから俺達がお前の身体使ってやるって言ってるだろ? 女ってーのは男に身体使わせるもんだろ?」
それがまるで当然のことだと語る拓真に、無意識のうちに凛子が後ずさった。
「……お前みたいな死ぬほど気持ち悪い男、初めて見てたわ」
吐き気すら催すほどの嫌悪感が、凛子に告げていた。
この男達とは、絶対に関わってはいけないと。
「お前達と話してると馬鹿が移るわ。咲茉、行くぞ」
これ以上、この場に居てはいけない。
そう即断した凛子が強引に咲茉の腕を掴む。
しかし凛子が咲茉を連れ出そうとした途端、
「――なに勝手に俺の咲茉を連れてこうとしてんだよッ!」
突然、凛子に迫った拓真が拳を振りかぶっていた。
「なッ――」
まさか人の多いデパート内で暴力を振るうとは夢にも思わず、凛子の目が見開く。
一目で分かった。間違いなく、この男は全力で拳を振り抜こうとしていると。
凛子の脊髄反射が、咄嗟に顔を両腕で守る。
その瞬間、拓真の拳が凛子の腕を撃ち抜いた。
しかしガードしたと言えど、本気で振り抜いた男の拳を凛子が耐えられるはずもない。
彼の拳が腕に当たった瞬間――腕から走り抜ける鈍い痛みと痺れが、問答無用に凛子の顔を歪ませた。
「ッ――!」
拓真の拳の勢いに負けて、そのまま凛子の身体が吹き飛ぶ。
「凛子、ちゃん?」
凛子が吹き飛ぶ光景を、呆然と咲茉が見つめる。
そして凛子が地面に倒れるのを見ると、
「――凛子ちゃん⁉︎」
反射的に、咲茉は慌しく彼女に駆け寄っていた。
「なに一丁前に女がガードしてんだよ! 舐めたことしやがってッ!」
地面を転がった凛子に、拓真が怒声を吐き出す。
突然の出来事に周囲が騒然となるが、それでも拓真は気にする素振りもなく舌打ちを鳴らすだけだった。
「キレさせるんじゃねーよ! クソ女が!」
「拓真さん! 流石にマズイっすよ! 人の多いところで女殴ったら!」
拓真の背後に控えていた男の1人が、周囲の視線を感じて彼に注意する。
しかし彼の忠告に、拓真は鬱陶しいと舌打ちを鳴らしていた。
「あ? 文句でもあんの?」
「な、なんでもないです」
鋭い目つきで拓真から睨まれると、ビクッと身体を震わせた男が黙り込む。
だが、それでも拓真は我慢できなかったらしい。
気づくと、その場で彼はその男を殴っていた。
吹き飛ぶ男に、拓真の背後に控えていた男達が言葉を失う。
怯えた目で彼等が拓真を見つめると、当の本人は満足そうに頷くだけだった。
そして殴った男のことなど心底どうでも良いと拓真が視線を外すと、彼は咲茉に近づいていた。
「さて、これで邪魔な奴は居なくなった。ほら、咲茉。行くぞ?」
早く来いと、咲茉に向けて拓真が手招きする。
しかし凛子を抱えていた咲茉が拓真を見つめると、震えた声で問い掛けていた。
「あ、あなた……だ、だれ?」
「あ?」
必死に喉から絞り出した咲茉の声に、拓真が怪訝に眉を寄せる。
しかし何かに気づいたのか、咲茉を見つめていた拓真がハッと目を大きくしていた。
「あぁ、そうだった。この時のお前とは初対面か」
何か意味不明なことを呟いている拓真に、咲茉の顔が強張る。
だが、そんな彼女のことなど気にも留めず、拓真は面倒そうに頭を乱暴に掻いていた。
「めんどくせぇなぁ……でも、こういうのも主人公の仕事か」
「な、なにを言ってるの?」
「お前に言っても無駄だから気にすんな。俺が主人公だって話だし」
全く、意味が分からない。
彼の言っていることが理解できず、その場で咲茉は呆然と拓真を見つめていた。
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