第45話 ばか
ただ太ももを貸してあげるだけで、こんなにも幸せだと感じてしまう膝枕が咲茉は堪らなく大好きだった。
自分の膝で大好きな彼が心地良さそうに目を閉じている。その寝顔を誰にも邪魔されずに眺めているだけで、この心が幸せで満たされていく。
いつかやってみたいと、ずっと夢に思い描いていた通り……いや、むしろそれ以上だった。
今まで数多く見てきた恋愛漫画やアニメでも膝枕のシーンがあった。その時のヒロインの表情があまりにも幸せそうで、ずっと彼女は憧れていた。
いつか自分も、こんな気持ちになってみたいと。
その憧れを遥かに超えるとは、咲茉自身も思ってすらいなかった。
「今更だけど……私の太ももって固くない?」
幸せ過ぎて泣きたくなる気持ちをどうにか抑え込んで、悠也の頭を優しく撫でた咲茉が何気なく訊いてしまう。
他人と太腿の柔らかさを比べたことがない以上、彼女が不安に思うのも仕方のないことだった。
もし自分の太ももを悠也が固いと思っていたら、もう膝枕をしてほしいと言わないかもしれない。
本当は何度だってしてあげたい。だが仮に悠也が嫌がってしまえば、たとえ不本意でも膝枕は控えるしかない。
そんな不安を抱いていた咲茉だったが、悠也は目を瞑ったまま優しい口調で答えていた。
「……どんな枕よりも柔らかい」
「もう、また変なこと言って」
頬が熱くなるほど恥ずかしかったが、それ以上に彼の言葉が嬉しくて堪らなかった。
気を使われているのではと疑いなくなるが、彼の腑抜けた声を聞く限り……おそらく本心だろう。
まるで子供のように緩み切った彼の顔が、穏やかな呼吸を繰り返している。もういつ寝てもおかしくない表情だった。
微睡んでいる彼が嘘をつけるとは到底思えない。きっと今の彼は何も考えないで話しているに違いない。
「……幸せ過ぎて、泣きたくなる」
やはり疲れが限界を超えていたのだろう。悠也から聞こえた声は、いつ消えてもおかしくなかった。
「……ゆーや」
だからこそ、咲茉は泣きたくなった。
こんな自分に膝枕されて、泣きたくなるほど幸せだと言ってくれた。
どうしようもなく大好きな彼が、自分と同じ気持ちになってくれている。それが堪らなく嬉しくて、我慢できないと彼女の手が悠也の頭を優しく撫でた。
少し髪が伸びてきたらしい。触り心地が前より変わっている。
綺麗だった肌も少し荒れている。きっとここ最近の寝不足が祟ったのだろう。よく見れば、彼の目元に隈ができていた。
「こんなになるまで頑張って……ほんとにもう」
悠也の努力を労うように、咲茉の親指が悠也の目元を優しく撫でる。
そうすると、悠也の頭がくすぐったそうに動いていた。
「あ、ごめんね」
「……んっ」
悠也の頭が動くと、彼の髪が咲茉の太ももをくすぐる。
素肌を晒すショートパンツを履いていた所為で、少しだけくすぐったい。
本来なら嫌だと思うはずなのに、不思議とこのくすぐったさすらも愛しいと思えてしまう。
「……」
そんな思いで咲茉が悠也の頭を撫でていると、気づけば彼から心地良そうな寝息が聞こえていた。
いつの間にか、もう寝てしまったらしい。
やはり、何度見ても可愛い寝顔だった。その寝顔を見ているだけで、胸の奥がじんわりと暖かくなってしまう。
「……頑張らなくても良いんだよ」
悠也の寝顔を眺めていると、おもむろに咲茉がそう呟いていた。
もう眠ってしまった彼に、なにを言っても届くことはない。それを分かっているはずなのに、なぜか自然と彼女の口が言葉を紡いでいた。
「私は、悠也と一緒に居れるだけですごーく幸せなんだから」
好きな人と一緒に居られることが、どれだけ幸せなことか。それを嫌というほど理解してしまった咲茉にとって、今の環境は夢のようだった。
これ以上の贅沢は、もう望んでいなかった。
絶対に叶わないと思っていた時間を、こうして過ごせている。これから先も続くと信じている彼との時間を過ごせるだけで、もう満足だった。
そう思いながら、咲茉が悠也の頭を撫でていると――ふと、彼が呟いた。
「……絶対、なるから」
「ゆーや?」
その声が聞こえて、起きているのかと思った咲茉が恐る恐ると悠也の顔を覗き込む。
しかしどれだけ近づいて見ても、呼吸は穏やかなままで、だらしない表情を見れば、彼が寝ているのだと察せた。
寝ぼけている。おそらく今のは寝言だろう。
そう咲茉が思っていると、悠也が寝言を呟いていた。
「……絶対、咲茉に吊り合う男になるから」
それはまるで、今の自分が見合っていないと言っているようだった。
咲茉はムッと眉を寄せると、悠也の頬を優しく突いてしまった。
「……ばか」
むしろ吊り合っていないのは自分だと、咲茉は思った。
今日まで悠也が色々な努力をしてることを、ずっと見届けてきた。
身体を鍛えて、武術も習って、勉強も必死にしている。
隠れてファッション誌を読んでいることも知っている。悠奈から息子にデートプランの相談を何度もされたとこっそりと聞かされている。
こんなに努力してる彼は、どんな男性よりも素敵だと咲茉は断言できた。
だからこそ、自分こそが悠也に吊り合わないとしか咲茉には思えなかった。
「まだ私は、何も悠也にあげてないんだよ?」
悠也から色々なモノを貰い続けているのに、自分は何も差し出していない。
それが堪らなく、咲茉は悔しかった。
そして恋人としても、まだ彼とは大したこともできていない。
彼と手を繋いだり、抱き合うことはしているが……それより先には、まだ進めていない。
「やっぱり、男の人って……そーゆーことしたいのかな?」
頭に思い浮かんだ行為を想像して、思わず咲茉の表情が強張った。
こんなに互いに好き合っているのに、まだ彼とはキスもしていない。その先のことすらも。
「悠也も、分かってるんだね」
眠っている悠也を見ながら、つい咲茉が失笑してしまう。
なぜ悠也がキスを迫ってこないのか。その理由が自分にあると分かれば、咲茉も失笑するしかなかった。
「――私が、まだ怖がってるって」
咲茉が男性を怖いと思っているから、悠也は何もしない。本来なら恋人が当然のようにする行為も、なにひとつ求めない。
それが有難いと思いつつも、そう思う自分が情けないと咲茉は思うしかなかった。
「私も、悠也としたいよ。でも……」
今よりも、もっと悠也と親密になりたい想いはある。
しかし今より先へと進もうと思えば、避けられない行為がある。
それをほんの少しでも想像するだけで、咲茉の身体は小さく震えていた。
「まだ無理だよ……まだ、やっぱり怖い」
心の底に根付いている恐怖心が拭えない限り、きっと自分は先に進めない。
このまま時間が経てば、いつか彼と結婚だってするだろう。
その時、きっと悠也は更に素敵な男性になっていると咲茉は断言できた。
なら自分も、変わっていく悠也に見合う女になっていなければ吊り合わない。
「私も、変わらないとダメだよね」
彼と同じように、自分も変わらなければならない。
そうしなければ、いつか彼から捨てられる日が来るかもしれない。
そうならない為に、自分が何をしなければいけないのか?
そんなことは、初めから分かっていた。
「……あと少しだけ待っててね。心の整理ができたら、ちゃんと話すから」
眠る悠也の頭を撫でながら、咲茉が囁く。
伝えれば、嫌われるかもしれない。汚くなった自分を、軽蔑するかもしれない。
そんな不安が、ずっと今も咲茉の胸の奥に埋め込まれている。
しかし、それも少しだけ和らいでいた。
数日前。悠奈から告げられた言葉が、彼女の不安を少しだけ解いていた。
どんなことがあっても嫌うことはない。そう真摯に伝えてくれた二人目の、大好きな母の声。
こんな自分を大好きだと抱き締めてくれた悠奈の感触が、今でも咲茉はハッキリと思い出せた。
「ゆーやは……私のこと、愛してる?」
もしその言葉を愛しい彼から聞ければ、きっと変われるかもしれない。
それであと少しの勇気が出せる。そう思わせてくれた悠奈に、咲茉は心の底から感謝していた。
彼から愛されたい。その言葉を囁かれたい。
そんな我儘すら直接言えない自分が、情けなくて泣きたくなる。
だから愛される為に、愛してることを証明しなければいけない。
言葉にしなければ伝わらない。そんな簡単なことすらできない自分が、まず変わらなければ――
面と向かって言うのは、まだ恥ずかしい。
だから今は、少しだけズルを許してほしい。
そう思いながら、咲茉が悠也の顔に自身の顔を近づけると――
「……ずっと、愛してるからね。ゆーや」
彼の額に唇を添えると、そう呟いていた。
「今は、これで許して。いつか、ちゃんと伝えるから」
頬を赤くした咲茉が恥ずかしそうに笑みを浮かべて、悠也の頭を撫でる。
そして時間が過ぎ、夜も遅くなって悠奈が様子を見に来るまで、ずっと悠也の頭を咲茉は撫で続けていた。
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