第44話 膝枕
今回の中間テストで、悠也は全教科を満点とは言わずとも最低90点以上を目標としていた。
今後の就職や進学を見据えれば、学業の成績が良いほど都合が良い。大学進学も、推薦だろうと、就職活動でも、ただ成績が良いだけで選べる選択肢が山のように増える。
それをタイムリープする前の人生で思い知られたからこそ、悠也は日頃の勉強を怠っていなかった。
絶対に幸せにすると咲茉に掲げた誓いを守る為に。ずっと辛い思いをしてきた彼女を幸せにする為なら、どんな努力も惜しまない。もう絶対に後悔だけはしないと決めたのだ。
そして誰よりも可愛くて、素敵な彼女に見合う男になると。なら学校の成績程度で躓いてなどいられなかった。
それこそあの乃亜に、自身が知る人間の中で最も頭が良い彼女に勉強で勝てるくらいの男になりたい。
そんな大きな目標を密かに掲げていたのだが――まさか乃亜本人から直接勝負を挑まれるとは悠也も思ってすらいなかった。
それも考えを見透かされた上で、絶対に負けないと確信しているとしか思えない賭けまで提示して。
あの意地の悪い乃亜の笑みが、一体なにを企んでいるのか。
本来なら、その賭けも不安なることなどなかった。子供の勝負事で賭け更に乗るモノなど、所詮は大したモノではない。それこそ凛子が提示した1ヶ月のパシリが最上位と言っても良いだろう。
しかし、なぜか悠也は、あの時見せた乃亜の笑顔に嫌な予感がしていた。
相手の言うことを何でもひとつ聞く。
それは上限のない最上級の賭け金と言っても過言ではない。
友人としての良識を考えれば、おそらく乃亜は高額な金銭や無理難題の要求はしないだろう。彼女の人柄なら、そんな馬鹿なことをするはずがない。
だからこそ、悠也は素直に怖かった。一体、彼女がどんなことを言い出すのか見当もつかなくて。
その不安が、悠也を必要以上に勉強へと駆り立てた。
テスト期間中、毎日行われた乃亜達との勉強会に加えて、悠也は否応なく使える時間の全てを勉強に捧げざるを得なくなった。
学校の授業、乃亜達との勉強会、夜は咲茉と二人で勉強し、深夜は一人で自習。この無茶の所為で、彼のテスト期間中の平均睡眠時間が3時間を下回った。
雪菜からテスト期間だけは絶対に武術の練習は禁止と言われたのが唯一の救いだった。もし身体の疲れが重なれば、間違いなく倒れていたかもしれない。
この時だけは社畜だった頃の経験が活かされた。どれだけ辛くも耐えられる精神力が、彼の身体を強引に動かしていた。
そんな無茶を続けて、中間テストまで残り2日となった夜。
遂に――あの咲茉も、我慢の限界を迎えてしまった。
「悠也、流石に頑張り過ぎだよ」
それは、今日も悠也が自室で咲茉と二人でテスト勉強している時だった。
突然、悠也が使っているペンを咲茉が強引に奪い取っていた。
「……え?」
数学の問題を解いていたはずの手からペンが消えて、悠也が呆けた声を漏らす。
どうやら彼は、咲茉にペンを奪われたことを理解できなかったらしい。
怪訝に眉を寄せた悠也の手が、ペンを求めてテーブルに置かれたペンケースに向かっていく。
どこかおぼつかない表情で、ペンケースに向かう彼の手が僅かに震えている。
その震えを見た瞬間、咲茉が伸ばされた悠也の手を咄嗟に掴んでいた。
「……もう今日は休んだ方が良いよ」
「なに言ってるんだ? まだ19時だぞ?」
どこかおぼつかない表情で答えた悠也の返事に、思わず咲茉の鳥肌が立った。
咲茉が見た時計の針は、20時を指していた。
「……もう一回訊くね? 今何時?」
「21時だろ?」
また答えが変わっている。彼の返事に、咲茉の頬が引き攣った。
ここ数日の無茶で、もう彼の身体が限界を超えている。むしろ先週末から今日まで、よく耐えていたと言うべきかもしれない。
「悠也、寝なさい」
「まだ勉強する。復習は何回しても足りない」
しかし咲茉がそう促しても、悠也が彼女に掴まれていない逆の手でペンを取ろうとする。
流石の咲茉でも、やはりそれは見逃せなかった。
「もう良いから。また明日も勉強できるから今日は寝てよ」
「いやだ、まだやる。成績良くないと進学とか困るし……乃亜にも勝ちたい」
まるで我儘を言っている子供のように、悠也が口を尖らせる。
そして咲茉に両手を掴まれていても、強引にペンを取ろうとしている始末だった。
その姿に、思わず咲茉の目が僅かに吊り上がった。
「もう十分だから、お願いだから寝て」
「これくらい平気だって。社畜だった頃はこれくらい普通だったし」
彼がなにを言っているのか、本当に咲茉は分からなかった。
明らかに今の彼は異常としか思えない。それを普通だと言い出すとは夢にも思わなかった。
「……こんなになるまで働いてたんだ」
ブラック企業で働いていたと彼から一度聞いていたが、その恐ろしさを咲茉は改めて実感してしまった。
引きこもりの期間が長かった彼女には、ブラック企業に関する知識も聞きかじった程度しかない。だが、それでも彼の経験が異常であることだけはハッキリと分かった。
確かにここまで酷ければ、悠也と再会した時の姿にも納得できてしまった。
「それは大人だった時でしょ? 今は私達も子供なんだから、無茶し過ぎたら身体壊しちゃうよ?」
「まだ大丈夫だから。ここから結構耐えられるんだよ。それに、あとで少しだけ寝れば元気になる」
「……今日は何時間寝るつもりだったの?」
「3時間くらい寝れれば十分だ」
おそらくブラック企業で働いていた生活が、彼の精神に染みついているのだろう。
間違いなく、今の彼をこのままにすれば近いうち絶対倒れる。
過労で人間が死ぬニュースは、咲茉でも何度か見たことがあった。
「それじゃあ元気にならないよ。疲れはちゃんと取らないとダメ。もし悠也が倒れて死んじゃったら……私、嫌だよ?」
きっと自分と再会していなければ、悠也は過労で死んでいたかもしれない。
そして今の彼も、このままでは死んでしまうかもしれない。
そう思った咲茉が告げた言葉に、自然と悠也の表情が強張った。
「……そんなに辛そうに見えるか?」
「見えるよ。もう見てられない」
以前にも、咲茉は似たような光景を見ていた。
雪菜に武術を教わっている時も、彼は異常なまでに頑張っていた。
その努力の源が自分だと知っているからこそ、咲茉はどうしようもなく怒りたかった。
「まだやるって言うなら、流石に私だって怒るよ」
だからこそ、彼を止めるのは自分の役目だと咲茉は思った。
こんな自分の為に努力してくれる彼が堪らなく愛おしいと思っても、努力にも限度があるのだから。
彼女から怒られると言われてしまえば、流石の悠也でも折れるしかなかった。
「……分かったよ、そこまで言うなら寝る」
「ほんとに寝るの?」
絶対に嘘だと確信した咲茉が問い詰めると、悠也の表情が僅かに強張る。
それだけで、咲茉は心底呆れてしまった。
「はぁ……もう悠也が寝るまで帰らないからね」
「それは駄目だ。咲茉のこと家まで送ってから寝る」
咲茉が悠也の家から帰る時、必ず悠也は彼女を家まで送り届けている。
それはタイムリープしてからずっと続いている悠也の日課だった。
「別に一人で帰れるよ」
「俺が夜道を咲茉だけで歩かせるわけないだろ……あの時のこと忘れたのかよ?」
そしてタイムリープしてしまった原因から、悠也は必要以上に咲茉が夜道を歩くことを警戒している。
それこそ過保護と言っても良いほどに。二人で歩いている時も、必ず背後を警戒しているくらいだ。
確かに彼の言う通り、咲茉も夜道を一人で歩くのは怖い。それはタイムリープの原因もあるが、それ以外の理由でも怖いと思っている。
だがそんな恐怖を我慢してでも、彼女は悠也を寝かせたかった。
「でも私帰ったら寝ないでしょ?」
「ちゃんと寝るって、信じないのかよ?」
「信じられないから困ってるの」
正直なところ、咲茉には泊まるという選択もあった。
悠也の両親である悠奈達からは、もう咲茉も家族として扱われている。急に泊まると彼女が言っても、間違いなく快諾されるだろう。
昔から何度も泊まっているので、自宅から持ってくるのが手間になるからと悠奈に提案され、自分の衣類も悠也の家に少し置いてあるくらいだ。
だが、困ったことに明日は学校がある。流石に制服は持って来てない。それに弁当の準備もある以上、今日は帰っておくのが無難な選択だった。
しかし悠也が寝るのを見届けなければ、安心して帰ることもできない。
そう思って悩んでしまう咲茉が困り果てると、
「今日はちゃんと寝るって、母さん達に見張ってくれって言っても良い」
「お母さんに言ったら悠也と一緒に寝るって言い出さない? それでも良いの?」
息子を溺愛している悠奈なら、そう言っても不思議ではない。むしろ今でも稀に息子と一緒に寝ようと試みて失敗していると、悠奈本人から咲茉は聞いていた。
「……咲茉が納得するなら、別にそれでも良い」
やはり悠也もそれは嫌らしい。身体は子供でも、中身は大人のままの彼が親と寝たいとは流石に思わないようだ。
だが彼の提案は、思っていた以上に良い案だった。
義母の欲望を叶えることもでき、自分も安心して帰れる。まさに一石二鳥と言える。
だが、それでも咲茉は気になってしまうことがあった。
「でも今の悠也に送られるのも心配だから嫌かも……帰りに倒れるかもしれないし」
不安で仕方ないと咲茉の半目が悠也を見つめる。
大丈夫と答えたかった悠也だったが、先程のやり取りで言っても彼女は頷かないだろう。
なら、少しでも今の状態を回復させなければいけない。
そう思うと、悠也は少し恥ずかしそうにしながら口を開いていた。
「なら、ちょっとだけ我儘言っても良いか?」
「なに? もし勉強のことだったら本当に怒るよ?」
「違うって、ただ……咲茉にして欲しいことある」
「なら何でも聞いてあげるけど……?」
妙に気恥ずかしそうな悠也に、怪訝に咲茉が首を傾げてしまう。
自分にやって欲しいこととは、一体なにか?
そんな疑問を咲茉が思っていると、
「膝枕、してよ」
頬を赤くした悠也が、そんなことを小声で呟いていた。
「膝枕?」
「前に雪菜の家でしてくれたけど、もう一回してほしいなって……少し仮眠した後なら、別に送っても大丈夫だろ?」
確かにそれならば、家まで送られても問題ない。少し寝てくれさえすれば、多少は体調も戻るだろう。
それに好きな人に膝枕、というのも実に心が惹かれるものがある。それが仮に何度目であろうとも。
「まったく、我儘な彼氏さんだね〜。ほら、私の膝で良いなら好きに使って良いよ」
そう思った咲茉が笑みを見せると、自分の膝を優しく叩いていた。
読了、お疲れ様です。
もし良ければブックマーク登録、
またページ下部の『☆☆☆☆☆』の欄から評価して頂けると嬉しいです!
今後の励みになります!




