第40話 それじゃないの
「……」
その言葉に、思わず悠奈の目が吊り上がった。
もし咲茉が自分の現状を理解してない上で両親に話していなければ、まだ悠奈も納得できた。
今現在、学校で咲茉の身に起きていることがどれほど異常であるか。それを彼女自身が理解していなければ両親に話さなかったことにも、多少は納得がいく。
単純に咲茉が子供であるが故に、その異常を全く理解してないのだと。
しかし、それを本人が理解してるのにも関わらず話してないのなら……こればかりは流石の悠奈でも許せるはずがなかった。
それはあまりにも親を、大人を馬鹿にしてるとしか思えない言葉だった。
「咲茉ちゃん……そんなに私達のことが信用できなかったの?」
咄嗟に出かけた大声を抑えることができた自分を、悠奈は褒めたくなった。
咲茉が意図して話さなかったということは――つまり、それは言っても無駄だと言われているのと同じだった。
話したところで問題は解決しない。そうとしか受け取れない言葉を子から向けられれば、親が激怒しないはずがなかった。
悠奈も、すでに咲茉のことは自身の子供同然だと思っている。血の繋がりはなくとも、愛する息子の悠也と同じように、親として決して変わらぬ愛情を彼女に注いできたつもりだった。
たとえ、それが他人からの身勝手な愛情だと分かっていても、幼い頃から今日までの成長を見届けてしまえば、もう悠奈にとって咲茉はどうしようもなく可愛い娘なのだ。
また咲茉も、自分のことを親のように慕っていると思っていた。もう昔のことだが、彼女から『もう一人のお母さん』と言われた時のことを悠奈は昨日のことのように思い出せる。
そんな娘に信用されてないと思わされれば、悠奈が怒るのも無理はなかった。
「……信用? なんでそんな変なこと言うの?」
意味が分からないと、キョトンと咲茉が首を傾げる。
呆気に取られている咲茉に、悠奈は湧き上がる怒りを抑え込みながら口を開いた。
「だって、そうじゃない。咲茉ちゃんが学校でずっと辛い思いしてたのに、私達に相談もしてくれなかったなんて……そんなの、あんまりだわ」
我慢できないと、胸の内を晒した悠奈の表情が怒りで歪んでいく。
4月から5月まで、約1ヶ月も咲茉は学校で辛い思いをしていた。それを気づくこともできず、知らされることもなかった自分があまりにも情けなくて、自然と悠奈は下唇を噛んでいた。
悔しくて、泣きたくなる。そう言いたげに表情を歪める悠奈を、咲茉は呆然と見つめていた。
しかし、それも一瞬だった。少し考えれば、咲茉も自身の失言に気づいてしまった。
「……ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの」
咄嗟に咲茉が謝罪するが、もう遅かった。
そんな言葉だけで、悠奈の怒りが収まるわけがなかった。
「じゃあ、どういう意味? 私に説明できるの?」
淡々と告げられた悠奈の声が、咲茉の表情を強張らせた。
声だけで分かってしまった。いつも優しかった彼女が、今まで見たことがないほどに怒っていると。
「勘違いさせて、ごめんなさい」
「もう謝らなくて良いのよ。私が聞きたいのは、それじゃないの」
ぞわりと、咲茉の背筋が凍った。
そして恐る恐ると視線を動かせば、悠奈の顔を見た瞬間、彼女は息を呑んでいた。
真顔の悠奈が、まっすぐに自分を見つめていた。
「なにが勘違いなのか。ちゃんと、説明しなさい」
落ち着いた声色が、自分に選択の余地すら与えられてないと分からされた。
それは咲茉にとって、まるで親に怒られているような感覚だった。
怖くてしかたない。早く誤解を解かなければ……
そう思う咲茉だったが、不思議と胸からこみ上げてくるナニカが勝手に言葉を紡いでいた。
「ありがと。私のために、そんなに怒ってくれるなんて思わなかった」
なぜか彼女の口から出てきたのは、弁解ではなく感謝だった。
無意識に出てしまった言葉に、咲茉自身も驚いてしまう。
それは悠奈にとっても予想外の反応だった。
「……急にどうしたの?」
突然のことに困惑した悠奈が、思わず訊き返してしまう。
その問いに、咲茉は咄嗟に答えを出せなかった。
なぜ怒られているのに感謝してしまったのか?
今も胸の中で溢れるこの感情は一体なにか?
その答えが分からず、呆けた表情で咲茉が自問自答を繰り返す。
しかし、ふと気づいてしまった。自分の中にある、この気持ちの正体に。
少しの間が空いた後、ふと、咲茉の肩がゆっくりと落ちた。
「……悠奈さんが、そこまで私に怒ってくれるなんて思わなかったの」
その言葉を告げた途端、本人の意思も関係なく咲茉の表情は歪んでいた。
今、彼女から向けられている怒りの根底にある感情が、たまらなく嬉しくて。
自然と、咲茉の目に涙が浮かんでいた。
その涙に、悠奈も気づいた。たった今、彼女が見せた涙の意味を。
それは悠奈にとって、たまらなく嬉しい涙だった。
「怒るなんて当たり前よ。私にとって咲茉ちゃんは、血が繋がってなくても私の可愛い娘だもの」
「勘違いさせてごめんなさい。怒らせて、ごめんなさい。怒られてるのに、嬉しいって思って……ごめんなさい」
溢れてくる涙を何度も拭って、咲茉が謝罪の言葉を繰り返す。
そして嗚咽交じりに、彼女は続けて口を開いていた。
「信頼とか、信用してなかったわけじゃないの。全部、私の我儘で。ただ……悠也との学校生活を滅茶苦茶にしたくなかっただけなの」
それは二度目の高校生活を送っている咲茉だからこその思いだった。
今は告白と、ただ男子生徒から不意打ちで言い寄られているだけで済んでいる。そのどちらも、悠也達の手助けによって耐えることができている。
この時点で、もうすでに一度目の高校生活と同じではない。そもそもの話、一度目は咲茉も男性恐怖症を持っていなかった。
共学の学校で男性恐怖症を抱えて通っていれば、嫌でも困ることが多くなるのは彼女自身も理解している。当然、悠也達に迷惑を掛けている自覚もある。
「悠也にも相談した方が良いって言われたけど、私が嫌だったの」
それは悠也からも提案されたことだった。咲茉の身を案じて、一度両親に相談するべきではないかと。
「きっとお母さん達に学校のこと言ったら、大事になるって分かってた。言えないよ。だって言ったら、もう普通の学校生活が送れなくなるから」
もし学校の件を両親に話せば、間違いなく学校生活が変わってしまう。
良くも悪くも、どちらに転んでも、間違いなく学校に伝われば自分は周囲から敬遠されてしまう。
そうなれば、もう悠也と普通の学校生活など過ごせるはずがない。
それだけは絶対に嫌だと、咲茉は思っていた。
「だから私も、頑張ろうって思ったの。もうこれ以上、悠也達に迷惑を掛けたくないから。今もどうしようもないくらい男の人が怖いけど、これは絶対治さないといけないから……無理矢理にでも男の人に慣れようと思ったの」
そこまで話してもらえば、悠奈も察せた。
それが決して良いとは言えない選択でも彼女なりの考えがあったと分かれば、納得はできなくとも理解はできた。
間違いなく大人が咲茉の話に関われば、この話は大事になるだろう。
それを危惧する彼女の気持ちは、容易に察せる。
悠也と過ごす高校生活をなによりも大事にしてるからこそ、そう思っているのだと。
そう考えれば、確かに今の環境は咲茉にとって荒療治のできる環境だった。
しかし、悠奈には今でも分からないことがあった。
「……そんなに男が怖いの?」
「私から触ったり、話したりするのはできるよ。でも、その逆は駄目。急に声を掛けられたらビクッてするし、触られるのも、好きだって言われるだけで……どうしても怖くなるの」
悠奈の問いに、俯いた咲茉がありのままの現状を伝える。
その返事を聞いて、無意識に悠奈は怪訝に眉を寄せていた。
果たして、そこまで異性を怖がる理由が一体どこから来ているのか?
悪夢を見たからと話には聞いているが、その内容は悠奈も知らない。
その内容だけは決して咲茉は語らず、悠也も知らないと聞いている。
他人に明かせない、異性を怖がるほどの悪夢。
もし大人の悠奈でも同じことが起きるとすれば、どんな夢だろうか。
想像の域を出ないが、悠奈も考えられることは幾つもあった。
軽い内容から、声に出すことも躊躇う内容まで、数多くある。
もし仮に、咲茉が一番考えたくない内容の夢を何度も見ていれば……今の彼女の現状にも納得できてしまう。
あり得ないと一蹴できる話だが、それだけは咲茉本人しか分からないことだった。
だが、もしも本当にそうだとすれば絶対に咲茉は話してはくれないと悠奈は確信してしまった。
もし自分が彼女と同じ歳で同じ立場になれば、絶対に公言しないだろうと。
あまりにも馬鹿馬鹿しい自分の想像に、悠奈は溜息を吐きたくなった。
そんなことがあり得るはずもなかった。
「……そう。だから言わなかったのね」
「うん。私も、男の人が怖いの治したかっただけだから。勘違いさせて本当にごめんなさい」
鼻をすすりながら謝罪する咲茉だったが、悠奈の認識は違った。
やはりこの話は、勘違いで済ませて良い話ではなかった。
「なら尚更、それは御両親にも話さないと駄目よ。そこまで咲茉ちゃんが分かってるなら、自分なりの考えがあっても話さなかったことの方が相手を心配させることも分かるでしょう?」
たとえ自分の考えがあろうとも、知らない人間からすれば不安にさせるだけだった。
場合によっては知らないままの方が良いこともあるが、知っていることが良いこともある。
悠奈の話に咲茉は困った表情を浮かべるが、悠奈から見つめられれば嫌とは言えなかった。
渋々と、咲茉は頷いていた。
「うん。ちゃんと話すよ」
「誤魔化したら駄目よ。ちゃんと御両親に話したか確認するからね。私から話が伝わる方が面倒なことになるわよ?」
「……はい」
しょんぼりと落ち込む咲茉を見れば、近いうちに必ず話すだろう。
ここ最近で随分と大人びたと思えたが、やはり彼女もまだまだ子供なのだと思わされる。
それもまた可愛いと思える自分に、悠奈は呆れたくなった。
「……なんで咲茉ちゃんは、その話を私にしてくれたの?」
そう思いながら、おもむろに悠奈はそう訊いていた。
悠奈の疑問に、咲茉の表情が強張った。
「……きっと言ったら、怒るもん」
「もう怒らないわよ」
「絶対怒るよ。だって……」
「だって?」
そして言いづらそうに咲茉が恐る恐ると悠奈の顔色を伺いながら、その口を開いていた。
「あんなに怒ってくれるくらい悠奈さんに大事にしてもらってるなんて全然思わなかったから」
どうやら自分も、人のことは言えないらしい。
そんな言葉を言われてしまった事実が、悠奈には恥ずかしくて仕方なかった。
読了、お疲れ様です。投稿が遅れて申し訳ありません。
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