第36話 私のだから
端的に言えば、昼になる少し前で遂に悠也の身体は限界を迎えてしまった。
幾度となく雪菜に叩きのめされ、何度も立ち上がっては畳に身体を叩きつけられる。
そんなことを数えきれないほど繰り返していけば、嫌でも悠也の身体に疲労と痛みは蓄積していた。
たとえ彼の受け身が上達したところで、それは素人に毛が生えた程度の練度でしかない。武術に関して素人の悠也が、たった数時間の練習で達人の域まで成長することなどあり得るはずもない。
その結果、雪菜に放り投げられる回数が増えると、積み重なった疲労と痛覚が悠也の意識を問答無用に刈り取っていた。
しかし悠也が意識を失っても、雪菜に冷水を顔面に掛けられて叩き起こされる。そしてまた彼女に叩きのめされては気絶し、叩き起こされるのを何度も繰り返す。
ただ彼女に叩きのめされているだけなのに、普段の生活と全く違う身体の動かし方をしている所為で悠也の全身の筋肉が痛みを訴える。
汗も噴き出て、身体が重い。立ち上がって意識も保っているのも精一杯になる。
タイムリープして来てから毎朝続けてきた走り込みで体力も確実に増えているはずなのに、もう悠也の体力を底をついていた。
対して、同じだけ身体を動かしているはずの雪菜は少し汗を流している程度。
もう畳に100回は叩きつけられている。それなのに余裕を見せる雪菜に、悠也は呆れを通り越して尊敬すらしてしまった。
まだ彼女は動けるのに、男の自分は指の先すら動かす気すら起きない。
もはや化物としか思えない。絶対に彼女には敵わないと思い知らされながら、気づけば、また悠也は畳の上で倒れていた。
「はぁ……! はぁ……っ!」
息を整えるだけで精一杯の悠也が、荒い呼吸を繰り返す。
そんな悠也の頭を膝の上に乗せて、咲茉は泣きそうな顔で彼を見つめていた。
「ゆーやぁ……大丈夫?」
心配だと彼女が声を掛けても、悠也は小さく頷くだけだった。
疲れ果てた彼の姿は、もう見ているだけで咲茉には痛々しくてしかたなかった。
雪菜に数えきれないほど打ちのめされ、疲労困憊で身体が汗まみれになっても、何度だって立ち上がる彼の姿は、とてもではないが見ていられなかった。
辛いから途中でやめようと言うことすらなく、数が増えるたびに彼の表情が痛々しくなる光景は、思わず咲茉も目を覆いたくなるほどだった。
「もう良いよ……なんでそこまで必死に頑張るの?」
悠也が雪菜から武術を教わる理由が自分の為だと知っていても、咲茉は訊いてしまった。
悠也以外の男に迫られれば、自分は震えて何もできなくなる。
だから彼は、こんなにも情けない自分を守る為に武術を学ぼうとしている。
どうしようもなく好きな人が自分の為に頑張ってくれている。その気持ちだけで咲茉は嬉しかった。
だが、ここまでのことなるとは夢にも思わず、今の彼の酷い姿に咲茉は泣きそうになるのを必死に我慢していた。
しかし咲茉が訊いても、悠也は荒い呼吸を繰り返しているだけだった。
「雪菜ちゃん、やり過ぎだよ」
だからこそ、悠也から望んだことで理不尽だと分かっていても、咲茉は湧き上がる怒りの矛先を雪菜に向けてしまった。
「いえ、悠也さんにはこれくらいしないと駄目です」
「なんで……!」
ここまで厳しくする必要があったのかと。咲茉が顔を歪める。
しかし彼女に睨みつけられても、雪菜は全く動じなかった。
「咲茉ちゃん。ただ使い方を教わるだけでは駄目なんです。悠也さんの場合、咲茉ちゃんに何かあれば……絶対に加減を間違えます」
淡々と告げる雪菜が倒れている悠也を見つめる。
「今更ながら言いますが、私は危ないことを軽はずみに教える気などありません。ですから、この練習は悠也さんを試してました。生半可な気持ちで私に武術を教わろうとしてるなら……この練習は途中で辛くて投げ出してもおかしくない内容でしたので」
そう告げた彼女の表情は、やはりおっとりとした普段とは違う、真剣な眼差しだった。
「それにも関わらず、悠也さんはこんな姿になるまで必死に私に食らいついてきました。だからこそ、この練習は彼の為になります。ここまで大事な人の為に必死になれる人間は、ちょっとしたキッカケで自制が効かなくなりますから」
「……どういう意味?」
怒りを抱えながらも怪訝な顔で咲茉が問えば、雪菜はじっと悠也を見つめたまま答えていた。
「もし咲茉ちゃんが危ないことに遭えば、間違いなく悠也はお怒りになるでしょう。きっと怒りに我を失って、暴力すら振るうこともあるかもしれません。その時、中途半端に覚えた武術を使えば……その相手を壊しかねません」
そう言って、雪菜は自身の細い手首を空いている手で握っていた。
「この握っている手を少し動かすだけで、人間の身体は簡単に壊せます。方法を知っていれば腕力がなくても関節も外せますし、骨も容易く折れます。その危うさを頭で理解しても、身体が実感してないと意味がありません」
「だから、こんなことしたって言うの?」
「必要なことです。私も子供の頃、似たようなことを泣きながらさせられました」
いつもは心優しいはずの雪菜がここまでハッキリと言うのなら、咲茉も渋々と納得するしかなかった。
果たして自分の為に悠也がそこまでのことをするか非常に疑問ではあったが、確かに今までの練習を見ていれば、彼の執念は一種の狂気すら感じさせるものだった。
こんな姿になるまで、どうしようもなく好きな人が必死になった。
全て自分の為に。そんな彼が怒りで危険なことを絶対にしないとは、確かに咲茉も断言できなかった。
膝の上に置かれた悠也の頭をそっと撫でながら、無意識に咲茉は表情を強張らせていた。
「……もう十分でしょ?」
しかし、もうこれ以上は悠也が痛めつられるのは見たくない。
そう告げるように咲茉が問うと、雪菜は頷いていた。
「はい。ここまでやれば悠也さんも分かったでしょう……悠也さん、返事は?」
「……わかってる」
倒れながら声を絞り出した悠也の返事に、咲茉の目が鋭くなった。
まるで有無すら言わせない雪菜の問いは、彼女も見逃せなかった。
「雪菜ちゃん、そんな聞き方は――」
「咲茉、そんなに怒るな。俺が頼んだことなんだし」
怒りを露わにする咲茉の声を、悠也が遮った。
悠也に遮られた咲茉が不満に眉を寄せる。
「でも……」
「良いから、雪菜の言ってることは正しい」
悠也がそう言うと、頭を撫でていた咲茉の手を握っていた。
「お前に何かあったら……多分、いや絶対に俺はなにするか分かんなくなる。だから、雪菜の教え方は俺に合ってるよ」
「だからって、そこまで私の為にしなくても良いんだよ?」
「これは俺の我儘なんだ……ただ、俺がやりたいからやるんだよ」
ようやく呼吸も落ち着いたらしい、それでも彼の声は力の抜けきった、疲れ果てた声だった。
「ずっとお前と一緒にいるって約束したんだ。絶対に守ってやるって、ちゃんと言ったんだ。男なら好きな女の子に言ったことくらい守らないと」
この場では決して悠也も口にしなかったが、もう後悔はしないと心に決めていた。
後悔しかなかった人生をやり直すと決めた。
この先、どんなことがあっても咲茉を守れる男になろうと。
過去の、タイムリープする前の彼女の過去に何があったかは今も分からないままだが、何か起きても彼女を守れるようになろうと。
今の自分には25歳まで生きてきた経験しかない。多少ある人生経験しか持っていない。
それだけでは足りない。勉強だって、毎日している。筋トレだって怠らない。もう彼女を失わない為なら、どんな努力だって悠也は惜しむ気などなかった。
「そんなことまでして――」
努力する必要はない。そう伝えようと咲茉が口を開くが、それよりも先に悠也は伝えていた。
恥ずかしげもなく、むしろ言葉にできることが誇らしいと言いたげに。
「好きな女の子の前くらい、カッコつけたいのが男なんだよ。雪菜にボコボコされて情けないけどな」
「……ゆーや」
「悪いな。我儘言って、少しくらい目を瞑ってくれ」
そこまで彼に言われてしまえば、もう咲茉は何も言えなかった。
悠也から握られる手を、また彼女も握る。
そうすると、悠也は嬉しそうに笑みを浮かべていた。
「本当に素敵ですねぇ……お二人を見てると、私も素敵な恋人が欲しくなります」
「……お前に見合う男なんていないだろ?」
羨ましいと微笑む雪菜に、思わず悠也が苦笑する。
そんな彼に、雪菜は小さく肩を竦めていた。
「ふふっ、そうでもないですよ。もし今の悠也さんが咲茉ちゃんの彼氏じゃなかったら、私がもらいたいくらいです」
「私のだから。絶対にあげないからね」
「あら、それは残念」
「……雪菜ちゃんのいじわる」
頬を膨らませる咲茉に、雪菜はクスクスと笑っていた。
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