第60話 メイドよりお嫁さん派
8月も中旬を過ぎ、下旬に差し掛かる頃。
楽しかった夏休みも、もう少しで終わりが近づいてきたと感じてしまう日のこと。
「ねぇ、悠也っち。お嫁さんとメイド、どっちが好き?」
今日も午前に雪菜の家で行われている咲茉の鍛錬を悠也が見守っていると、隣にいる乃亜が奇妙なことを口走っていた。
「は……?」
あまりにも突拍子のない質問に、つい悠也が呆気に取られてしまう。
なにげなく悠也が視線を動かすと、乃亜は先程から変わらずにタブレット端末を弄って眺めているままだった。
「……急になに言ってんだ?」
「単なる知的好奇心だよ。そう言えば悠也っちって、どういう性癖持ってるのかなって」
「いや、女が男に訊くなよ。そんな馬鹿みたいなこと」
同性ならまだしも、異性の女に性癖を訊かれて素直に答えるほど、悠也も恥知らずではなかった。
「えぇ~、人に言えないような好みなの?」
悠也の心情を察してないのか、乃亜が心底つまらなそうな表情を見せる。
とは言っても、彼女の視線と指は今もタブレット端末に向けられたままで、この話題自体が他愛のない世間話だと態度が示す。
しかし乃亜がそう思っていたとしても、悠也からすれば全くそうではなかった。
「そういうことじゃねぇよ。単なる好み訊かれてるだけならまだしも、女に性癖訊かれて素直に答える男がいるかよ」
性癖と聞いて、まず悠也の頭に思い浮かんだのは性的嗜好である。
異性のどんな部分に、性的な興奮を感じるか。
その好みは人それぞれ千差万別である。人の数だけ趣味趣向がある以上、定番から異質なものまで数々のモノが存在している。
それを同性同士の馬鹿話で話すことも少なからずある。仲の良い男同士なら、その手の話もすることもある。大人になって酒が飲めるようになれば、飲み会で口も軽くなって話してしまうことだってある。
だがそれも異性が一緒に居れば、当然しない。それもそうだ。異性に向かって性的興奮を感じるポイントを話してしまえば、大抵ロクなことにならない。
そういった性癖も気軽に話せる人間も世の中にはいるが、少なくとも悠也は気軽に話せる側の人間ではなかった。
「ん? なに言って――」
悠也の返事に、乃亜が怪訝に眉を寄せる。
しかし、ふと何かを察したのかキョトンと呆けた顔を見せていた乃亜が、突然くつくつと声を殺して笑っていた。
「なに笑ってんだよ、馬鹿にしてんのか?」
「ごめんごめん、そう言えば性癖ってそっちの意味になるのかって気づいただけだから」
「そっち?」
勝手に納得している乃亜に、悠也が眉を顰める。
そんな彼の反応に、乃亜は小さな笑い声を漏らしながら答えていた。
「性癖っていう言葉はね、本来その人の生まれつき持ってる考え方や好みのことを指してるの」
知らなかった性癖の本来の意味を聞いても、悠也にしてみれば関係なかった。
相手から性的趣向を聞かれた、そう受け取ってしまったのだから。
そう思う悠也が半目を向けるが、変わらず乃亜はあっけらかんと話し続けた。
「別にエッチな話したいわけじゃないよ。普通に好きなモノ訊いてるだけ。誰だってあるでしょ? 漫画とかアニメでも好きなキャラ誰って訊かれて困る?」
「なら最初からそう訊けよ。てかお嫁さんとメイドって時点でそっちの意味にしか聞こえねぇだろうが」
乃亜の言いたいことは理解できたが、そもそも彼女からの質問が問題だった。
どう聞いても、そのふたつの選択肢は勘違いしてもおかしくなかった。
「ほぉ~? つまり悠也っちはお嫁さんとメイドに興奮するってこと?」
「……」
明らかに揶揄っている乃亜に、悠也が黙って拳を見せつける。
それが彼の最終警告だと分かると、乃亜はけらけらと笑っていた。
「そんなに怒んないでよ。ちょっとした冗談だって」
「ったく……このチビスケは」
「それで? 悠也はどっちが好きなの?」
このチビは、学習という言葉を知らないのだろうか?
たまに彼女の見せる頭の悪い一面に、思わず悠也は深い溜息を吐き出してしまった。
「……お前なぁ」
「別に変な意味じゃないって~」
「誰が言うかよ、馬鹿乃亜」
「えぇ~、答えても良いじゃん。減るもんじゃないし」
「減る。男の尊厳が」
仮に乃亜にしてみれば変な意味ではなくとも……ここまでの前振りを考えれば、悠也が答える気になるはずもなかった。
「じゃあ質問を変えてみよっか」
「……あ?」
「では想像してみましょう。ある日、悠也っちは自分の家に帰りました」
「なんだ? 急に?」
「良いから、目瞑って想像して」
おもむろに乃亜から指示されて、悠也が怪訝に顔を顰める。
彼女の指示に従う必要もなかったが、ここまで頑固に性癖を訊こうとしてくる乃亜をあしらい続けるのも正直面倒くさい。
まだ咲茉の鍛錬が始まって、そこまで時間が経っていない。時計を見ても、まだ10時を過ぎたばかり。鍛錬が終わるまで、かなり時間がある。
それまで乃亜の頑固に抵抗し続けるよりも、適当に付き合っておくのが無難だろう。それで最後にどちらも好みではないと言っておけば、きっと彼女も満足するだろう。
そう判断して、悠也は渋々と目を瞑ることにした。
「ほら、言われた通り目瞑ったぞ」
「ちゃんと家に帰るところ想像した?」
「してるしてる、良いから早く続き言えって」
頭の中で、自宅に帰るところを悠也が思い浮かべる。
「では想像を続けましょう。悠也っちは今、家の扉が閉まった玄関の前にいます」
「はいはい」
乃亜の言われるがままに、頭の中でその光景を作り上げる。
一体、これに何の意味があると言うのか。
「悠也は玄関の扉を開けます」
「ん」
適当な相槌を打って、想像の光景を悠也が動く。
そして頭の中で、悠也が自宅の玄関を開け放つと、
「その先に待っていたのは、咲茉っちです」
「……ん?」
前触れもなく咲茉の名前が出てきて、目を瞑った悠也が怪訝に首を傾げる。
しかし次の瞬間、乃亜は間髪入れずに口を開いていた。
「なんと驚くことに、玄関には咲茉っちが2人いました。その咲茉っちの姿は、お嫁さんとメイドさんです」
「……」
その問い。想像するなと言われても、悠也の頭が想像してしまった。
『ゆーやぁ、おかえり~』
『おかえりなさいませ~、ゆーや様~』
私服にエプロン姿の咲茉と、メイド服を着た咲茉。2人の咲茉が、悠也の思い浮かべる玄関の先に待ち構えていた。
想像でも、咲茉は可愛い。新婚のような咲茉と、従順なメイドの咲茉。
そんな普段とは違った可愛過ぎる2人の咲茉を目の前して、悠也の口が緩みそうになるが――どうにか耐えた。
「なぜか2人の咲茉っちが居て、悠也っちは驚きます。ですが、それも気のせいでした。2人いると思っていた咲茉っちの片方は幻覚でした。2人のうち、片方が消えていきます。果たして、どちらの咲茉っちが残っていましたか? 正直に答えましょう~」
咲茉は2人いるわけがない。そのどちらかは偽物であり、幻覚である。
果たして、どちらの咲茉が消えてしまうのか?
咲茉を出してきた乃亜の意地の悪さに悠也の眉が不快に寄せられるが、それでも悠也は想像するしかなかった。
こと咲茉に関しては、たとえ本人が居なくても正直に誠実であるべきだと心に決めている。
ここで下手に誤魔化して、乃亜に咲茉のお嫁さんとメイドのどちらも嫌だと思われるのも非常に心外だった。それで下手に本人の耳にでも入れば、もしかすれば咲茉に嫌な思いをさせるかもしれない。
ならば心に正直であろう。乃亜の術中に嵌められた気がして不服ではあったが、悠也は思うままに片方の咲茉が消えゆく様を見届けた。
ハッキリ言うと……メイド服は、悠也の好みではなかった。
「……お嫁さんの咲茉が残った」
「なるほど、じゃあ悠也っちはメイドよりお嫁さん派ってことね」
「それは咲茉のこと出してきたから――」
どちらにしてもお嫁さんとメイドの二択なら、悠也が選ぶのはお嫁さんだった。
メイドに心が踊る人間の気持ちも分からなくもなかったが、悠也の好みは新婚の方が胸が高鳴る。
それもそうだろう。どう考えても、メイドよりお嫁さんの方が良いに決まっていた。
「だってさ、咲茉っち」
「は……?」
ふと聞こえた乃亜の一声に、悠也が目を開けると――
「なるほど、悠也。メイドさんよりお嫁さんの方が好きなんだ」
なぜか目の前に、先程まで鍛錬をしているはずだった咲茉がいた。
「悠也ってそういう好みあんまり言わないから良いこと聞いたかも」
「いや、ちょっとそういうことじゃ……」
「え、だって乃亜ちゃんの話を聞いて想像して、残ったのメイドさんじゃなくてお嫁さんの私だったんでしょ?」
キョトンと咲茉が首を傾げる姿に、悠也が頬を引き攣らせた。
彼女の話を聞く限り、どうやら最初から話を聞かれていたらしい。
「なるほど~、悠也はお嫁さん派。改めて聞くと恥ずかしいかも。私、ちゃーんと悠也のお嫁さんになるつもりだったし」
ほんのりと頬を赤くして、咲茉がはにかむ。
いつか悠也のお嫁さんになる。それが必ず来る未来だと、彼女の顔が告げていて。
嬉しそうに笑みを浮かべる彼女があまりにも可愛く見えて、自然と悠也の頬もほんのりと赤く染まっていた。
「ゆーや。私のお嫁さん姿、見たい?」
頬を赤くして、俯いた咲茉が上目遣いで訊いてくる。
そんな彼女に悠也が答えることなど、決まっていた。
だが、それでも乃亜達がいるまで素直に答えるのも癪で。
悠也は小さく頷くだけで、答えていた。
「……乃亜ぁ、お前っ!」
悠也の反応に、嬉しそうに咲茉が笑顔を見せる。
その表情を横目に、悠也は躊躇うこともなく乃亜の頭を鷲掴みにしていた。
「いだだっ! 頭が割れるぅぅぅ!」
「テメェは少し痛い目見せないと気が済まねぇんだよ!」
恥ずかしさを誤魔化すように、悠也が手に力を込める。
それに応じて乃亜が悶絶する姿に、咲茉は呆れた表情を見せる。
「なぁ、雪菜。あそこにいる汚物、シバいて良いか?」
「ダメです」
そんな3人を、凛子と雪菜が呆れながら眺めていた。
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