第54話 練習通りにできる
海に響いた咲茉の声は、確かに周囲の人達に届いた。
「ん? なんだ?」
「なんか今助けてって聞こえたけど……?」
「連れ去られるとか言ってたのってマジ?」
唐突な咲茉の大声によって、一斉に周囲の視線が聞こえた声の方へと向く。
そして男3人に囲まれている咲茉と悠也を見ると、一瞬で周りの人間達が状況を理解した。
「おい、あそこだ」
「ちょっと様子見に行くぞ」
子供が大人3人に囲まれている状況で、女の子が助けを求めた。
その時点で一刻を争う状況だと察した大人達が駆け寄ってくる。
「チッ! マジでこのクソアマやりやがった!」
「おい! 早くずらかるぞ!」
そんな大人達を見るなり、咲茉と悠也を囲っていた男達が慌ただしく逃げようとする。
だが3人のなかで、ひとりの男が慌てることなく咲茉を睨みつけていた。
「早く逃げますよ! このままいるとマズイですって!」
逃げようとしない男に、仲間の男が慌てて声を掛ける。
しかし、それでも咲茉を睨む男は逃げようとしなかった。
「舐めたことしてくれたな、クソアマ」
「だからなに? さっさと逃げた方が良いんじゃない? 捕まっちゃうよ?」
睨まれても負けじと睨み返す咲茉に、男の表情が怒りに歪む。
確かに、このままでは面倒なことになる。目の前にいる子供が助けを呼んだ以上、周囲から悪いと思われているのは間違いなく大人の自分達である。
たとえ“まだ”犯罪を犯してなくとも、今は周りから子供を連れ去ろうとした人間として見られている。警察でも呼ばれてしまえば、面倒事は避けられない。
逃げるのは容易い。周りから近づいてくる大人達は、ただ正義感に駆られただけの貧弱な男達だけである。強行突破するのも簡単だろう。
そこまで判断して、咲茉を睨む男がおもむろに拳を握り締めていた。
「……その拳で、今更なにするつもり?」
「なにって? そんなの決まってんだろ? ここまで強気な女だとは思わなかったが、こんな好き勝手に舐めたことしてくれたクソアマには痛い目に遭ってもらわないと……俺の気が収まらねぇだろ?」
「そんなことしてる時間あるの?」
「んなの関係ねぇんだわ。こんなクソガキに舐められて……この俺がタダで逃げるわけねぇだろうがッ!」
淡々と答える咲茉に男が怒声をあげた瞬間、大きく拳を振り上げていた。
「ッ⁉︎ 咲茉っ⁉︎」
まさかこの場で逃げることもなく咲茉に殴り掛かると思わなかった悠也が反応する。
先程までの咲茉の行動に困惑し続けていたが――それでも、もしもの時にと身構えていた悠也が咲茉の腕を掴んで位置を変えよう試みる。
咲茉と自分の立ち位置さえ変われば、あの程度の拳なら問題なく対処できると判断して。
咲茉と入れ替わって迫る拳を弾いて逸らし、即座に反撃する。
その想定で悠也が手を伸ばしたのだが……なぜか彼の手が咲茉の腕を掴むことはなかった。
「なっ――⁉︎」
彼が掴もうとした途端、なぜか咲茉の身体が半歩前に出ていた。
その半歩の距離で、伸ばした悠也の手が虚空を掴む。
それによって、もう悠也の行動は全て間に合わなくなった。
たとえ悠也が何かしようとしても、男の拳が咲茉に迫る方が早い。
「こんのクソアマがぁぁぁァッ‼︎」
すでに撃ち出された男の拳が、瞬く間に咲茉に迫っていく。
その光景に、脊髄反射で悠也が声を荒げた。
「――咲茉ッ‼︎」
あの体格のある男の拳を食らってしまえば、どこに当たっても小柄な咲茉なら一瞬で吹き飛ぶ。間違って顔にでも当たれば、致命傷になる可能性だってあり得る。
咲茉が大怪我をする。その可能性が脳裏を過った悠也の表情が悲痛に歪む。
黙って自分に任せておけば良かったのに、どうして彼女がこんなことをしたのか?
つい先程聞こえた彼女の呟きが、悠也の脳裏を過ぎった。
――私も、いつまでも弱い女の子じゃない
その呟きが示した咲茉の意思は、悠也も察していた。
変わろうとしている彼女だからこそ、あの男達に自ら対峙したのだと。
自分から拒絶する意思を見せる。それが咲茉なりの覚悟であると。
ずっと守られる女で居たくない。そう思い続けてきた彼女の覚悟は、尋常なものではない。
彼女の抱える過去を考えれば、彼等と対峙するだけでも怖いはずなのに――全く怯えていなかった。
それなのに目の前の男に一切恐れることもなく、毅然とした態度を見せた。それは咲茉のことを知っている人間ならば、驚愕に値する行動である。
突然、悠也もその1人だった。驚きを超えて困惑すらしてしまうほどに。
しかし、その勇気の結果がこれでは……あまりにも報われていない。
恐れていた男に立ち向かえた勇気の代償が大怪我では、また咲茉の心が折れる。
もしかすれば、更に彼女の心の傷が酷くなる。もう2度と立ち直れなくなるかもしれない。
その未来が訪れる可能性が、咲茉に迫っている。
「――ッ!」
それを悠也は、ただ見ていることしかできなかった。
迫る男の拳が、咲茉に向かう。
雪菜から鍛え抜かれた悠也の目が、その拳の動きを追う。
目で追えている。もし咲茉ではなく自分なら問題なく対応できる。
それなのに何もできないことが、もどかしくて。咲茉の腕を掴めなかった自分を死ぬほど殴りたくなる。
どうしてあの時、咲茉が半歩前に進んだのか?
その意図は、一体なんだったのか?
その疑問が頭を埋め尽くした時、ハッと悠也が息を飲んだ。
咄嗟に悠也が、咲茉と男の立ち位置を視線で追う。
そして2人の位置を確認した瞬間、悠也の全身に鳥肌が立った。
見覚えがある。あの2人の距離は――
今まで悠也自身が何度も繰り返してきた、雪菜と組み手をする時の間合いだった。
「……ここなら、練習通りにできる」
ふと、咲茉の呟きが聞こえた。
そして悠也が驚いているのも知らずに、咲茉の瞳が目の前の男を見据える。
この間合いなら、何度も練習してきた。
近過ぎても駄目。少しでも離れると、練習通りにできない。
今日まで何度も練習を繰り返して、ようやく雪菜に使えると認めてもらえた技は、この間合いの時だけだった。
だから本番で失敗して怪我をしても悔いはない。まだ自分が未熟だったのだと納得できるから。
「っ――!」
迫る拳を怖がらずに見つめて、動きを見る。
本気で撃ち出した雪菜の拳より遥かに遅い大振りの右拳。上から下に叩きつけるように振り抜いている。
これなら、見える。やっと見えるようになった。
あの拳も怖いけど、当たらなければ痛くない。
だから動きをよく見て、迫ってくる相手の拳の甲にそっと右手を添える。
そして外側に押し出せば、簡単に男の拳が咲茉の横を通り抜けた。
「……あ?」
当たるはずだった拳が外れて、男が呆気に取られた声を漏らす。
だがそんな彼を気にすることもなく、咲茉は動いていた。
相手の拳を外側に逸らしながら、左足を軸に半転しておいた。それと同時に、左手を右肩の辺りまで引き寄せておく。
そこまで準備しておけば、あとバランスを崩して前に倒れ込む相手の勢いを利用して、反撃するだけだった。
「てやぁぁぁぁぁぁッ‼︎」
無意識に咲茉が声を荒げる。
そして裏拳の要領で、渾身の力で薙ぎ払った咲茉の左手が男の頬を撃ち抜いた。
「ぐほっ――!」
カウンターで放たれた咲茉の裏拳を食らった男が、数歩後方に後ずさる。
たとえ体格の良い男でも無防備な状態から放たれたカウンターを受ければ、相手が非力な女であろうと絶大なダメージを負う。
「こんのっ――!」
そしてよろめく男に、咲茉がすかさず前蹴りを放つと簡単に倒れてしまった。
尻餅をついて、男が倒れる。
そして今も頬から走る痛みに苦悶している男を見下ろすと、咲茉は怒りのままに声を荒げていた。
「私が女だからって舐めないで! 女だってやる時はやるんだから!」
思うままに言葉を吐き出した咲茉が誇らしそうに胸を張る。
自分は弱い女じゃないと、そう言いたげに。
そんな彼女を呆然と見つめながら、悠也は引き攣った笑みを浮かべていた。
そこには、もう今までの知る咲茉の姿はどこにもなく。
倒れる男を前に堂々としている彼女は、悠也も呆れるほど危なげな勇気のある女の子が立っていたのだから。
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