第50話 滅茶苦茶嬉しいです
隣で聞こえる、クスっと声を殺して笑う悠也の声が、どこか小馬鹿にしたようにしか聞こえなくて。
その声に、目を伏せて唸っていた彼女の眉がムッと吊り上がった。
ものすごく悩んでいるのに、なにも笑うことはないだろう。
彼女も真剣なのだ。こんなにも尽くしてくれて、たくさんの幸せをくれる悠也を自分も幸せにしてあげたいと。
その悩みを笑われてしまえば、たとえ相手が大好きな人でも怒るに決まっていた。
「もうゆーや! そんなに笑わないでよっ!」
湧き上がる怒りに身をまかせて、勢いのままに咲茉が顔をあげる。
これは流石に小言のひとつでも言わないと気が済まないと、そう思いながら。
「私だって真剣に悩んで――」
しかし怒る彼女が悠也の顔を見た瞬間、そこから先の言葉が出てこなかった。
きっと馬鹿にした顔をしていると思っていた。
もしくは、呆れて小馬鹿した顔をしてるかもと思っていた。
そう思っていたのに。
なぜか彼から向けられていた表情は……本当に幸せそうな、優しい微笑みだった。
緩んだ頬と、ほんの少しだけ吊り上がった口角を見れば、とても馬鹿にしてるとは思えなくて。
僅かに下がった眉と目尻から向けられた彼の優しい目に、つい見惚れてしまって。
どうして……今、そんな顔をするの?
という疑問が出るよりも早く、思いもしなかった彼の表情に、咲茉は一瞬で自分の頬が熱くなるのが分かった。
「……ぁ、ぁぅ」
なにか言おうにも、思うように声が出ない。
彼の可愛くて優しい表情を見るたびに、この胸が高鳴るのはいつものことだが……これは反則だった。
その表情から自然と伝わってくる彼の“愛してる”という感情が、問答無用に咲茉の体温を上げる。
顔全部が熱くて、身体も熱くなるのが分かる。無意識に繋いでいる彼の手を力加減も忘れて咲茉が握れば、同じ強さで握り返された。
無意識に求めたのに、応えてくれた。たったそれだけで心臓の鼓動が早くなる。耳が痛いくらい、全身の血流が脈を打つ。
今も見つめてくる悠也の目から視線が外せない。きっと今、彼に見られたくないほど恥ずかしい顔をしているはずなのに……どうしても外せない。
今の顔を見られたくないのに、もっと彼の顔を見ていたい。もっと彼に私を見ていてほしい。でも、顔は見られたくない。だけど、ずっと見てほしい。
その葛藤のあまり赤面する咲茉の顔が少しずつ下がるが、それでも見つめる彼から視線を外したくないと上目遣いで見つめてしまう。
そんな彼女に、見つめる悠也がゆっくりと口を開いていた。
「本当、馬鹿な咲茉だな。返すもなにも……もう俺はお前から返しきれないくらい、たくさんの幸せを貰ってるよ」
そう告げる悠也に、咲茉が意味が分からないと眉を寄せる。
一体、自分が彼になにをしてあげたというのか?
そう思う彼女に、悠也は穏やかな声色で語り掛けていた。
「ずっと、ずっとずっと夢だったんだ。何度も、何十回も数えきれないくらい夢に見てたんだ。こうしてお前と過ごせる時間が、今でも夢みたいで……ずっと今も夢見てるのかなって思う時もあって」
咲茉と一緒に居られて幸せだと、悠也が語ることはよくあることだった。
のんびりと2人で自室に過ごしている時も、なにげなく互いに自然と抱き締め合う時も、全く飽きることもないキスをする時も、一緒に肩を並べて寝てる時も。ふとした時、そんなことを彼が呟く時がある。
傍に咲茉が居て、幸せだと。
「将来を誓い合ってさ。恋人同士になれただけでも夢みたいなのに……いつでも咲茉の顔が見れて、こんな風に咲茉に触れられて、誰でも過ごせる当たり前な日常を咲茉と過ごせる時間の分だけ、俺は咲茉から山のような幸せをもらってるんだ。お前から返してもらうモノなんてあるはずないだろ?」
そう語る彼の声は、幸せの感情が満ち溢れていた。
こうして彼女と過ごせる“今”が、幸せで堪らないと。
だが、それは咲茉も同じだった。
互いに大好きな人と一緒に居られて、幸せを感じるのは当然のことだろう。
お互いに、同じ分だけ幸せを分かち合っている。
だからこそ、それ以外の幸せをくれる悠也を咲茉も幸せにしたかった。
「ううん。私の方がゆーやにいっぱい幸せにしてもらってる。ゆーやが私と一緒に居て幸せだって思った分だけ、私も幸せだなって思ってるの。私とデートしてくれたり、ずっと私と一緒に居てくれたり、私の為に色々なことをしてくれるゆーやに……私もゆーやにたくさん幸せをあげたいの」
今も身体が熱くても、恥ずかしいと思って彼から一秒も目が離せないままでも、その言葉は淀みなく言えた。
彼から尽くされた分だけ、自分も尽くしたい。愛された分だけ、愛したい。貰った幸せの分だけ、幸せをあげたい。
だから彼の言葉に、咲茉が素直にできるはずがなかった。
「違うよ。俺がデートしてもらってるんだ。ずっと俺と一緒に居てくれて、俺の為に咲茉が色んなこととしてくれてるだろ?」
咲茉からすれば、その考え自体が間違っていた。
やはり比べても、彼の方が尽くしてくれているとしか思えないのだから。
「私……ゆーやみたいに大したことしてないもん」
「なに言ってるんだか、俺のために毎日弁当作ってくれてるだろ? 毎日の夕飯だって母さんと一緒にしてるだろ? 知ってるんだぞ? 最近は咲茉だけで夕飯作ってるって」
1日も欠かすことなく、毎日弁当を用意することがどれほど手間であるかは悠也も理解していた。
それを嫌な顔すらせず、むしろ嬉しそうに料理をする咲茉の顔を見ているだけで悠也は幸せを感じていた。
「それは……私がしたいからってだけだから、ゆーやと違うもん」
悠也に自分の作った料理を食べてほしい。その自分勝手な思いで続けていることに、彼から幸せを感じられても困るだけだった。
悠也は自分の為に尽くしてくれている。それと違って、自分は彼に作った料理を食べて美味しいと言ってくれたら良いなという自己満足である。
それと比べるのは、あまりにも馬鹿げていた。
「悠也に美味しいって言って食べて欲しいだけだし……私の作った料理を悠也が食べてくれたら、私の好きって気持ちが悠也の中に入ってく気がするからしてるだけだし」
改めて言うと、我ながら随分と気持ちの悪いことを口走っている気がするが、今の悠也に不思議と隠そうとは思えなかった。
彼に料理を作ってあげたい。美味しいと言ってほしい。それとは別に、気づくともうひとつの想いが生まれていた。
彼を独り占めしたい。誰にも渡したくない。いつしかそんな思いで、咲茉は料理をするようになっていた。
想いを込めて作った手料理を彼が食べれば、この気持ちが彼の身体に入っていく。それが堪らなく嬉しくて、彼が自分の料理を口にした分だけ咲茉も幸せを噛み締めていた。
「気持ち悪いでしょ……私、いつの間にかそういう気持ちになってたの。最初はゆーやの為にって思ってたのに、自分がゆーやを独り占めしたいからって思うようになって。全然ゆーやの為じゃない、自分勝手なだけだよ」
相手のことを想う悠也と違って、自分の為にしてきた行動はあまりにも自分勝手だとしか思えなかった。
だからまだ自分は、悠也に幸せをあげれてない。そう思う咲茉だったが、その言葉を聞いても悠也は笑顔を絶やさなかった。
「馬鹿言ってんじゃない。男ってのは、好きな女の子の手料理が食べれるだけで死ぬほど幸せな生き物なんだよ。それにお前から食べさせてもらってる時も、滅茶苦茶幸せなんだからな」
「……そんなこと言って、誤魔化されないもん」
「それで俺が嬉しいって思ってくれたら、咲茉も嬉しいんだろ? そう言うことする時、咲茉も俺が喜んでくれたら嬉しいなって考えてくれてるんじゃないのか?」
「それは……そうだけど」
返す言葉もなく、咲茉が口ごもってしまう。
悠也が喜んでくれるなら、自分だって嬉しくるに決まっている。
だから彼に何かすることも、無意識に彼の笑顔を想像してしまう。
「そんなこと言ったら、俺も同じだよ」
そんな彼女に、悠也は微笑んだまま告げていた。
「俺のしたことで咲茉が喜んでくれたら、お前の笑顔が俺だけのモノだけだって独り占めした気分になる。お前を幸せにして笑わせてあげられるのは俺だけだって、俺も咲茉って女の子を独り占めしたいから。だからお互い様だ」
悠也もまた、自分と同じだった。
大好きな彼が同じ気持ちだと知った途端、咲茉の胸奥が更に熱くなった。
「だからお返しなんて余計なこと考えなくても良い。咲茉は自分のしたいことをしすれば良いんだ。だって俺も同じだから。好きな人を独り占めしたいからって色々して、それで好きな人が喜ぶ顔を考えて、2人で幸せになれば……それで良いと思わないか?」
そんなことで良いのだろうか?
互いに自分勝手なことをして、それて良いと思えるのだろうか?
「もしゆーやが喜んでくれなかったら?」
「それは俺だって同じだ。咲茉が喜んでくれない時だってあるかもしれないけど、その時はその時だ」
「……そんなのじゃ納得できないよ」
「だからずっと一緒に居て、減らしてけば良い。もっと今よりもたくさん咲茉のこと知って、咲茉が喜ぶことを知りたい。もしかしたら、たまに喧嘩だってするかもしれない。でも喧嘩した数だけ、咲茉のことを知れるって思うと喧嘩するのだって俺は嬉しいよ」
そうやって、また恥ずかしげもなく言わないで。
「私と喧嘩しても良いの? 私は嫌だよ、ゆーやと喧嘩するの」
「しない方が良いけど、人間生きてれば喧嘩だってするさ。咲茉が俺に我慢することなんてない。だから思ったことは全部吐き出せ。それで喧嘩した分だけ仲直りすれば、咲茉のことが今よりももっと知れて好きになる。だから喧嘩も悪くない」
「変なこと言わないで。だって私、ゆーやと喧嘩することないもん」
「もしかしたらの話だよ。それ、分かって言ってるだろ?」
「……じゃあゆーや、これは怒る?」
困ったように眉を寄せる悠也の腕に、ふと咲茉がそっと抱きついた。
彼女の柔らかい身体と密着して、思わず悠也の表情が強張ってしまう。
その表情に、咲茉は頬を赤らめながら小首を傾げていた。
「こんな人の多い海で、水着を着た女の子が腕に抱きつくなんて……はしたない女だって怒る? まだそーゆうことはできないけど、今のゆーや見てるとこうしたいの……怒る?」
もっと彼に触れたい。水着で恥ずかしくても、彼の肌に触っていたい。
だからほんの少しの勇気を出して、自分がしたいことをする。それで悠也が怒るかもしれないと、そう思いながら。
「お、怒るわけないだろ。むしろ」
「むしろ?」
口ごもる悠也に、咲茉が訊き返す。
ここまで咲茉から積極的なことをされる機会など、ほとんどなかった。
抱きついたり、キスをしたりなど、そういうことをしても、ずっと言動には気を付けていた。
彼女に性を連想させることを、絶対に言わないようにと。
だが悠也も、ここまでしてくれた彼女に気持ちを隠すわけにはいかなかった。
「好きな女の子に抱きつかれて……滅茶苦茶嬉しいです」
「……ゆーやのえっち」
「お、お前が言わせたくせにっ……!」
「ほら怒ったー!」
「だからそれはお前が!」
ギュッと咲茉が腕にしがみつく度に、悠也の身体が固まる。
それが嬉しくて、つい咲茉が声を出して笑ってしまう。
こんな自分が抱き着くだけで、喜んでくれる。
恥ずかしがる彼の可愛い顔は、本当に見てるだけで飽きない。
ものすごく恥ずかしかったけど、勇気を出せて良かった。
これからも、もっと変わろう。今までの自分よりも、もっと悠也が好きになってくれる女になろう。
そう思いながら恥ずかしがる悠也の腕を引いて、咲茉は歩き出していた。
まだもう少しだけ、2人っきりで歩きたい。
心の中で乃亜達に謝りながら、咲茉は嬉しそうに悠也と浜辺を歩き続けていた。
そんな彼女を、遠くで眺めている男達の視線に珍しく気づくこともなく。
波音を聞きながら、2人は幸せそうに歩いていた。
読了、お疲れ様です。
おそらく作中で台詞もそうですが、キス以外ではじめて咲茉が意思をもって悠也に積極的になったと思います。
ちなみに最後のは安心してください。この章の最後のひと山です。
この章で描くことは、咲茉の変化です。
彼女も、変われる人間だって話を最後に描きます。
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