第38話 せーので行こう
「悠也ー! 危ないからあまり遠くに行ったらダメだからね〜!」
「分かってるー!」
心配する悠奈に返事をする悠也と手を繋ぎながら、咲茉は恐る恐ると波打ち際まで歩いていた。
歩いてるだけで熱かった砂が、ある一線で色が変わっている。
「わぁ……ほんとに海だ」
波が打ち寄せて、引いていく。そしてまた打ち寄せる波を、咲茉はジッと見つめていた。
あと1歩踏み出せば、この足が波に触れてしまう。
最後に海に入ったのは、はたしていつだったか。
ずっと子供の頃に感じた打ち寄せる波の感触も、もう覚えていない。知識では知っている海の冷たさも、もう忘れてしまった。
「……わわっ」
そっと踏み出そうとする咲茉だったが、打ち寄せる波が来た途端、ビクッと震えて後ずさってしまう。
この先が自分にとって未知の領域であるからこそ、その一歩が怖くなる。
踏み出せば、もう怖くないと分かっているのに。その先にある楽しさを分かっているのに、どうしてか目の前の波が怖いと思ってしまう。
「ゆっくり、ゆっくりなら……」
思わず悠也の腕に抱きついた咲茉の足が、ゆっくりと1歩踏み出そうとする。
しかし波が押し寄せると、それに合わせて彼女の足が元の位置に戻っていた。
「むぅ……!」
あと1歩がなかなかに踏み出せない咲茉が、目の前の波を睨みつける。
そしてまた足を出しては戻すのを繰り返していると、その姿に堪らず悠也がクスクスと笑っていた。
「笑わないでよぉ! 久しぶりだから怖いの!」
「違う違う、馬鹿にしてるんじゃなくて今の咲茉があんまりにも可愛くて……」
口元を手で隠した悠也が、また声を殺して笑ってしまう。
今も咲茉に抱きつかれて腕に感じる大きな胸の感触に脳が焼き尽くされそうになっても、彼女の可愛い姿を見れば悠也も笑うしかなかった。
「そんな嬉しいこと言っても誤魔化されないからね! 絶対馬鹿にしてる!」
「してないって、本当に咲茉が可愛いなって思っただけだから」
「絶対馬鹿にしてるー!」
不満だと言いだけに頬を膨らませた咲茉が、抱きつく悠也の腕を左右に揺らす。
悠也の身体が揺れる度に、咲茉の身体が密着する。
「し、してないって」
その度に感じる彼女の胸の更なる感触に、思わず悠也の頬が引き攣った。
今までは服や下着のおかげで抑えられていたが、今の彼女は水着しか着ていない。
その所為で、普段とは比べ物にならないほど鮮明に感じる2つの柔らかい感触が、問答無用に悠也脳を痺れさせた。
ふにゅっと自身の腕で形を変えるだけで、あまりにも柔らか過ぎる胸の感触に、悠也の全神経が痙攣しそうになる。
少しでも意識すれば、間違いなく身体が“反応”する。
そう思うと、悠也は気を紛らわすように不貞腐れる咲茉の頭を撫でていた。
「ふんっ! 撫でても誤魔化されないもん!」
「別にそういうんじゃないって。本当に可愛いなって思っただけだから」
「……絶対、私のこと馬鹿にしてたもん」
不満そうにしながらも、咲茉も悠也に頭を撫でられるのは嫌ではなかった。
彼に触れられるだけで、心が落ち着く。自然と頬が緩んでしまう。
しかしそれでも、彼から小馬鹿にされたと思う不満は消えなかった。
「馬鹿にしてないよ。ずっと海に来てなかったなら怖いって思うのも分かる。俺だって久々過ぎて少しビビってるくらいだし」
「……ゆーやも?」
予想もしなかった悠也の言葉に、思わず咲茉がキョトンと呆けた。
先程までの不満が消えて、小首を傾げる彼女に、悠也はわざとらしく肩を竦めて答えた。
「俺も、海に入るのは久しぶりだよ」
「私と違ってゆーやは学校に行ってたのに?」
タイムリープする前。高校1年生から学校に行かなくなり、引きこもり生活をしていた咲茉と違って悠也は大学まで通っていた。
その日々の中で、彼が一度も海に行かなかったとはとても思えなかった。
「……」
そんな彼女の疑問に、悠也が僅かに目を伏せる。
そして今も不思議そうにする彼女に、悠也は失笑
混じりに口を開いていた。
「人並みには遊んでたけど、カップルが行くような場所には行かないようにしてたんだよ」
「……どうして?」
「いなくなった咲茉を思い出すから、行きたくなかったんだ」
その言葉を聞いた途端、咲茉は声が出なかった。
彼女の反応に、悠也が苦笑混じりに続けた。
「咲茉のことが好きだって気づいてから、そういう場所には行かないようにしてたんだよ。カップルを見ると、どうしても咲茉のことが頭を過ったんだ。俺も、もし咲茉と両想いで付き合えたら……コイツらみたいになれたのかなって」
苦笑した悠也が、恥ずかしそうに頭を掻く。
しかし語る彼に、咄嗟に咲茉が口を動かした。
「でも、ゆーや……恋人いたことあるって」
それは以前に悠也本人から聞いたことだった。
一度だけ、彼に恋人がいたことがあると。
ならば海に行っていても、何もおかしくなかった。
その疑問に、悠也は近くに人が居ないことを確認しながら答えていた。
「大学の時に付き合ったこともあったよ。お前のこと、忘れられるかなって……でも、きっと好きじゃなかったんだよ。なんとなく付き合った恋人になっても、カップルが行くような場所には行きたくなかった。本当、我ながら酷い話だよ。だから社会人になってから愛想尽かされてフラれたんだ」
今思えば、我ながら酷い人間だったと悠也も思うしかなかった。
好きでもなかった女と付き合って、適当に過ごしてきた。
そこから社会人になって会わなくなれば、愛想も尽かされて当然だった。
「それに付き合っても無駄だった。あの時付き合って彼女を見るだけで、咲茉のこと……思い出してたんだ。本当にクソな男だよ。今の彼女よりも、ずっと好きだった女のこと考えてたんだから」
もし咲茉に告白してフラれていれば、話は違っていたかもしれない。作った恋人とも、上手くやれていたのかもしれない。
しかし突然居なくなった咲茉と会うこともできずに、ずっと好きだった彼女への想いが心の中に残り続けてしまった。
だからこそ、ずっと忘れることができなかった。
「だから海に最後に海に来たのも、ずっと子供の頃が最後だよ」
それが他人からすれば最低なことをしてしまった理由なのだから、悠也も失笑するしかなかった。
「はぁ……本当はこんなこと言うつもりなかったんだけどなぁ。ごめんな、咲茉。幻滅させるようなこと言って……こんな俺のこと、嫌いになって当然だよ」
深い溜息を吐いた悠也が、悲しそうな表情を浮かべる。
嫌われても不思議ではない。最低だと言って、ビンタされてもおかしくない。
そう思う悠也が失笑してしまうが、
「…………」
そんな彼を咲茉は黙ったまま、見つめていた。
本当ならば、彼の行動は最低だと思えることかもしれない。
怒られ、罵られ、蔑まれてもおかしくない。
もし他の人から同じ話を聞けば、咲茉も最低だと思うだろう。
しかし、なぜか悠也からその話を聞いても……咲茉には微塵も嫌悪感が湧かなかった。
「そんなに……ゆーやも、私のこと好きだったの?」
「……本当に好きで、好きで好きで堪らなかった。なにをしても咲茉のこと、ずっと考えてた。なんでもっと早く気づけなかったのかって後悔するくらいに。社会人になってから働き過ぎて忘れかけたけど、それまでは一度も忘れたことなんてない」
一度忙殺されて仕事以外を忘れてしまった身ではあるが、それだけは悠也も断言できた。
たとえ気持ち悪いと思われても、咲茉を想う気持ちは少しも薄れていなかったと。
「……そっか、ありがと」
そう語る悠也に、咲茉は心底自分に呆れてしまった。
他人の話なら、きっと違う感情を抱いていたかもしれない。
だがそれが大好きな彼の話であれば、嬉しいとしか思えなかった自分に咲茉は呆れるしかなかった。
ずっと自分が想っていたように、彼もまた自分を好きだと想い続けていた。
あの時、偶然会えた時まで叶わぬ恋だと思っていたはずなのに。それでも彼が好きだと想い続けてくれた。
それが嬉しくて堪らないと思う自分が……あまりにも身勝手過ぎて、呆れてしまう。
「私、すごく悪い女かも。悠也の話を聞いても、嬉しいって思っちゃった。悠也が付き合ってた女の子より、私の方が悠也に好かれてたんだって思っただけで……悠也を独り占めできるのが私だけって思うだけで、嬉しくて嬉しくて堪らなくなるの」
「……咲茉」
「私も酷い女の子だよ。ゆーやも、こんな私のこと嫌いになる?」
そっと悠也に寄り添う咲茉が小首を傾げる。
ぎゅっと腕に抱きついて、悠也の目を見つめる。
そんな彼女に、悠也が頷かないはずがなかった。
「俺も酷い男だ。咲茉こそ、嫌いになるだろ?」
そう訊き返す悠也に咲茉が彼の耳に顔を寄せると、耳打ちしていた。
「――ならないよ。私はずっとずーっと悠也のことが誰よりも好きで、心から愛してるの。誰にもあげない、渡したくない。独り占めしたいくらい大好き」
そして離れた咲茉が、嬉しそうに微笑む。
「ゆーやは、私のこと独り占めしたい?」
「したいに決まってるだろ。もう誰にも渡してやるもんか。一生、死ぬまでお前の傍にいる」
「私達がお婆ちゃんとお爺ちゃんになって死んじゃったら、もう一緒に居てくれないの?」
予想外の返しに、思わず悠也の頬が熱くなった。
「……いる。死んでも一緒にいる」
「ふふっ、嬉しい」
彼の返事が嬉しくて、咲茉が笑顔を見せる。
その笑顔を悠也が見つめると、おもむろに彼女の頭を撫でていた。
「……ともかく、話が逸れたけど俺も海は久々だ。咲茉が怖くなるのも分かる。だから――」
「だから?」
「一緒に、せーので行こう」
そう言って、悠也が満面の笑顔を作る。
そう告げる彼に、咲茉の答えは決まっていた。
「うん。私もゆーやと一緒なら怖くないもん」
「じゃあ、せーので行くぞ?」
そして目を合わせた2人が、揃って打ち寄せる波を見つめる。
その先で、こちらに手を振る乃亜達が見える。
そんな彼女達を見つめながら、2人の口が同時に動いた。
「「せーのっ!」」
一歩進んだ途端、2人の足に波が襲い掛かる。
「冷たっ!」
「ほんと! すっごく冷たいっ!」
足を駆け抜ける海の冷たさに、ビクッと身体が震えてしまう。
しかし暑い夏に、その冷たさは心地良くて堪らなかった。
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