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第28話 変わろうとしてる


 夏休みと呼ばれる長期休暇は、学生だけに許された至高の時間である。


 学校に行く必要もなく、約一か月にも及ぶ長期間の休みに学生は誰もが恋焦がれる。


 膨大な宿題という拷問を課せられながらも、自由に過ごせる夏休みを嫌う人間がいるはずもない。自由気ままに、そして好き勝手に彼等は夏休みを堪能する。


 そして大人になると、彼等は揃って絶望するのだ。


 あの夢のような日々が、子供だけに許された時間だったと。


 一度社会人になってしまうと、休日のありがたみに誰もが気づく。学生とは違って、社会人に許された休みは限られた時間しか与えられない。


 どれだけ長くても、数日。もしくは1週間程度が関の山だ。学生の長期休暇と比べれば雲泥の差である。


 だからこそ、大人になってから彼等は後悔する。もっと全力で学生の夏休みを楽しむべきだったと。


 ただ浪費するだけではなく、もっと有意義に過ごせば良かった。遊びも、趣味も、そして勉強とあり余る時間の使い方があったというのに、それに気づかないまま時間を浪費してしまった後悔を積み重ねて。


 そんな後悔をしながら、社会人になった彼等は限られた休みを満喫する生き物へと変わり果てるのだ。



 とは言っても――その休日すらロクに与えられなかった悠也に限っては、例外になるのだが。



 こと現代社会の闇。ブラック企業に勤めていた悠也にとって、この夏休みは本当に夢のような時間だった。


「夏休み……なんて良い響きなんだ」


 まだ夏休みが始まって2日目、雪菜の家にて。その離れにある別館の隅に座っていた悠也が静かに涙を流す。


「あのさ、悠也っち……急に泣かれたら普通に引くんだけど」


 そんな彼の突拍子のない行動に、隣で座ってタブレット端末を弄っていた乃亜がギョッとする。


 しかしそれでも、悠也の目から溢れる涙は止まることを知らなかった。


「……ごめん、なんか今が夏休みだって思うと無性に泣けてくるんだよ。社会人になってから休みなんてロクに貰ったことなかったし」


 泣いている悠也が、正直に胸の内を吐き出す。


 その言葉に、流石の乃亜も引き攣った笑みを浮かべるしかなかった。


「まだ社会の社の字も知らない子供の前で現代社会の闇を見せないでよ」

「……しょうがないだろ。勝手に出てくるんだから」


 そう言って、悠也が乱暴に涙を拭う。


 そんな彼の異様な姿に、乃亜は失笑交じりになにげない疑問を口にしていた。


「実際のところ、当時の悠也っちの休みってどんなもんだったの?」

「3年間、1回も休みなかった」

「……闇深過ぎでしょ? そんな会社、やめれば良かったのに」


 あらためて耳にした悠也の就労体制に、乃亜が驚きを通り越して呆れてしまう。


 辞めるという選択肢を選べるはずだったのに、どうして選ばなかったのか。


 そんな彼女の疑問に、悠也が失笑しながら答えていた。


「今思えばそうだったんだけどさ。辞めたくても、俺みたいな何もない人間が他のところに行っても雇ってもらえないって毎日責められてたんだよ」

「……そういう会社って働いてる人を責め立てて精神面を拘束させるってどこかで聞いたことあるなぁ。闇が深過ぎて笑えない」

「働いてた身分だと返す言葉もないわ」

「でも実際さ、選ばなければ仕事なんていっぱいあるから転職できたでしょ?」

「たとえそうだとしても、自分が何もない人間だって分かってると行動できないもんなんだ……今思っても馬鹿だったと思うよ」


 そう答えた悠也が乾いた笑みを浮かべる。


 その笑みを横目に、乃亜が深い溜息を吐き出した。


「そう思うなら、次は咲茉っちを幸せにするためにちゃんとした就職ができるように頑張ることだね」

「当然、だから勉強もお前に負けないくらい頑張るつもりだよ。アイツの為なら、どんな努力だって惜しむつもりはない」

「私に勉強で勝つって? 冗談にしては笑えるね~」

「勝手に言ってろ、その余裕がいつまで続くか見物だ」

「その言葉、そっくりそのまま返してあげる」


 悠也の脇腹を肘で小突いた乃亜が失笑して見せる。


 そして悠也も仕返しにと乃亜の頭を掴むなり、ぐりぐりと撫でまわしていた。


「勝手に女の子の頭を撫でるなぁ~」


 鬱陶しいと言いたげに彼の手を振り払おうと乃亜が頭を振るう。


 だが思っていた以上に彼の手は、まったく振り払えなかった。


「咲茉も変わろうとしてるからな。俺も頑張ろうって思えるよ」


 乃亜の頭を撫でまわしながら、悠也の視線がある方向を見つめる。


 その言葉を耳にした乃亜が彼に釣られるまま同じ方向に視線を向けると、


「そだね、確かにあの子も変わろうとしてる」


 その光景を見るなり、微笑ましそうに笑みを浮かべていた。


「はい、咲茉ちゃん。ここで凛子ちゃんに手首を掴まれたらどうしますか?」

「えっと、ここで私が掴み返して――」


 別館内の中央で、雪菜の指導の元、ジャージ姿の咲茉と凛子が組み手の真似事をしていた。


「まさか咲茉っちが護身術習いたいなんて言い出すとは思わなかったなぁ」


 夏休み前に、咲茉が雪菜に懇願していた時のことを乃亜が思い出す。


 自分もいつまでも守られるだけではなく、自分で自分を守られる人間になりたい。


 そんな彼女の願いを、雪菜が拒否するはずもなかった。


 それをキッカケに、夏休みから咲茉の武術指導が始まることとなった。


「咲茉。それだと弱い。もっと強く捻ってみろ」

「えっ、でもそれだと痛いよ?」

「良いから、練習で遠慮なんてしたら本番でできなくなるだろ。少しくらい痛くても平気だって」


 しかしその練習風景を見ていると、前途多難な気配しかしなかった。


 心が優しい咲茉では、意識して相手に加減をしてしまうらしい。


 それが武術において、どれほど邪魔になるかは乃亜も理解していた。


「まだ初めて2日目なら、あれくらいが普通だ」

「まぁ、そこまで焦ることでもないしね」


 悠也の声に、乃亜が頷く。


 特に焦って覚えなければならないわけではない。


 異性に言い寄られる機会が多い咲茉が、これからのことを考えて覚えようとしているだけだ。今はまだ悠也達が傍にいる環境であれば、焦る必要もない。


 そう思いながら、乃亜が咲茉達の練習を眺めている時だった。


「うーん、咲茉ちゃん? ちょっと試しに腕立て伏せしてもらっても良いですか?」

「えっ? 急になんで?」

「少し確認したいことがありまして」


 おもむろに雪菜が、咲茉に腕立て伏せをさせていた。


 怪訝に思いながらも、咲茉がその場で腕立て伏せをする。


「ふんぬ……っ!」


 凛子と雪菜に見守られながら、1回、2回と回数を重ねていく。


 しかし5回目になった途端、唐突に咲茉がパタリと倒れていた。


「……もう無理」

「咲茉ちゃん、もう少し筋力付けましょう。あとスタミナも……初日から思ってましたが、今のままだと基礎があまりにもできてません」

「確かに、流石にコレだと動くのもキツそうだな」


 倒れる咲茉に、思わず雪菜と凛子が苦笑を漏らす。


 そんな2人に、咲茉が仰向けになりながら息を荒くしていた。


「やっぱり……色々しないとダメ?」

「ですね、少しずつやってみましょう。私達が教える身体の動かし方を覚えつつ、咲茉ちゃんの場合だと基礎能力を鍛えた方が良さそうですから。一緒にやりましょう」

「流石に今の咲茉だと厳しそうだよな、走り込みとか筋トレなら私も付き合うから」

「2人とも……ありがとぉ」


 やはり今の咲茉では、まともに護身術を覚えるのも一苦労のようだった。


 それでも辛い様子も見せずに彼女達が楽しそうに鍛錬に励めているのは、良いことかもしれない。


 そんな彼女達を眺めながら、乃亜は口を開いた。


「悠也も怪我治ったら参加するの?」

「当たり前だろ。もう少しで傷も治る。そしたら俺も一緒にやるさ」

「そりゃそうだよね〜」

「乃亜もやるか?」

「私、そういうのはパス」

「そう言うと思った」


 即答する悠也に、乃亜が苦笑しながらタブレット端末を弄る。


 雪菜の別館に来てから終始タブレット端末を弄り回す彼女に、おもむろに悠也が訊いていた。


「……さっきから何見てんだ?」

「ん? 色々と予定を決める為に調べてるの」

「予定?」


 返ってきた乃亜の答えに、悠也が首を傾げる。


 そんな彼に、乃亜は持っていたタブレット端末を見せながら笑みを浮かべていた。


「高校生の貴重な夏休み、折角なら本気で遊ばないとね? まずはみんなでここ辺りに行こうと思ってるけど……どう?」


 見せられたタブレット端末の悠也が覗き込む。


 そしてそこに映し出された内容を見るなり、思わず悠也も笑みを浮かべていた。


「本当によく調べるもんだ」

「ふっふー! なんでも全力で、それが私のモットーなのだよ〜!」


 そう笑顔で答える乃亜に、悠也は感謝を告げながら、その頭を乱暴に撫で回していた。

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