第110話 言葉だけでは伝えきれない
ゆっくりと悠也が目を開けると、白い天井を見上げていた。
まだ寝ぼけているのか、意識がぼんやりとしている。
もしやここは天国なのだろうかと一瞬思う悠也だったが、鼻に感じる消毒液の匂いが、その思考を一蹴した。
決して寝心地が良いとは言えないベッドに、触り心地の良くない掛け布団。腕に繋がれた点滴を見れば、悠也もすぐに分かった。
どうやら、ここは病院らしい。
病院にいるということは、まだ自分は生きているのだろう。
そう思いながら何気なく悠也が起き上がろうとすると、右肩から走る痛みに思わず顔が強張った。
「痛っ……!」
その痛みが、悠也に忘れてきた記憶を思い出させた。
そうだった。確かあの時、自分は刺されたのだと。
着ている寝巻きを悠也が捲り上げると、右肩に包帯が巻かれていた。どうやら手当てもしっかりとされているらしい。
ならば無理に起きても問題ないだろう。動くと痛いが、肩を動かなさければ思いのほか痛みは少なかった。
「いてて……」
苦悶の声を漏らしながら、ゆっくりと悠也がベットから起き上がる。
そして何気なく周囲を見渡すと、彼のいる場所は誰も居ない殺風景な病室だった。
「やっぱり、病院だな」
そんな分かりきったことを呟きながら、無意識に悠也の視線が近くに備え付けられたテーブルに向けられる。
そのテーブルには、色々な物が置かれていた。
見舞いの果物と折り紙の鶴が数匹。そこに紛れて置かれている美少女フィギュアは、おそらく乃亜の仕業だろう。
なにはともあれ、随分と心配させてしまったらしい。
そう思いながら悠也がテーブルを眺めていると、並べて置かれていた電子時計が目に止まった。
そう言えば、今は何時だろうか?
そんな何気ない疑問を抱いて電子時計を見た途端、少しだけ悠也は目を大きくした。
「……3日も寝てたのかよ」
表示されていた時間は昼頃、そして日付があの一件から3日後という事実に悠也は素直に驚くしかなかった。
「肩刺されたくらいで寝過ぎだろ……はぁ、情けねぇ」
思わず頭を抱えようと右手を動かした途端、右肩から走る痛みに、自然と悠也の口から呻き声が漏れてしまう。
もう肩の怪我を忘れてしまった自分に呆れつつ、痛みが収まるまで悠也が深呼吸を繰り返す。
そしてホッと一息ついたところで、ふと悠也はいくつかの疑問を抱いていた。
「……アレからどうなったんだ?」
そう呟いても、その答えは分からないままだった。
拓真に刺されて、咲茉と乃亜に心配されて、救急隊の人達が来たところまでは悠也も覚えている。
しかしそこからの記憶が意識を失っていた所為で、なにひとつも分からないままだった。
アレから咲茉は無事なのか?
外で騒ぎを起こしていた雪菜と凛子も無事なのか?
そして拓真はどうなったのだろうか?
そう思っても、今まで眠っていた悠也が知る由もない。
その疑問に、悠也が怪訝に眉を寄せている時だった。
突然、悠也のいる病室の扉がゆっくりと開かれた。
「え……?」
そして呆けた声が聞こえた途端、ガシャンと何かが割れる音が響く。
その騒音に心底驚いた悠也が振り向くと、そこにいた少女を見た途端、自然と笑みを浮かべていた。
「……咲茉!」
なぜか私服の咲茉が、病室の前で固まっていた。
その姿を見る限り、特に目立った怪我もない。
「良かった。無事だったんだな」
彼女が無事だったと分かると、堪らず悠也は安堵のあまり胸を撫で下ろしていた。
だが悠也が話し掛けても、なぜか咲茉は呆然としたまま固まっていた。
「……咲茉? どうしたんだ?」
まるで石のように固まっている咲茉に、思わず悠也が首を傾げてしまう。
そして怪訝に悠也が彼女の名前を呼んでいると――
「ぁ……ゆーや?」
「あ、やっと反応したよ。さっきからどうしたんだ?」
遅れて震声を漏らした咲茉に、訊き返した悠也が優しい笑みを浮かべる。
しかしその笑顔を見た途端、咲茉の表情が少しずつ歪んでいた。
「……ゆーや?」
「どうした?」
悠也が訊き返すと、おもむろに咲茉の足が一歩だけ進んだ。
落ちて割れた花瓶のことも気にせず、瓶の破片と水で濡れた床すらも気にすることなく。彼女の足が濡れた床を踏む。
「……ゆーやぁ?」
そして今にも泣きそうな咲茉を見てしまえば、悠也も気づいてしまった。
なぜもっと早く気づかなかったのか。
察しの悪い自分に心底呆れると、悠也は苦笑しながら口を開いた。
「……心配させて悪かった。ちゃんと生きてるよ」
その言葉が、咲茉の限界だった。
ずっと我慢していた涙が、勝手に目から溢れてくる。
その瞬間、思うままに咲茉の震える足が動いていた。
「ゆーやぁぁぁ!」
とてとてと小走りで、ベットにいる悠也に咲茉が駆け寄った。
「ゆーやぁぁ! ゆーやぁぁぁぁっ!」
そして悠也の腰に抱きつくなり、咲茉が泣きながら彼の名前を何度も叫ぶ。
もう離さないと言いたげに、力強く彼女の両腕が悠也の身体を抱き締める。
その姿に、悠也は申し訳なさそうにしながら彼女の頭を優しく撫でていた。
「ごめんな、心配させて」
「ずっと心配じだんだよぉ〜! すぐ起きるって聞いでだのに3日も寝でるんだから〜!」
「悪かったって、俺もこんなに寝てるなんて思わなかったんだよ」
涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにする咲茉に、悠也が何度も謝罪する。
しかし彼が謝っても、咲茉は泣きながら首を横に振っていた。
「寝坊助のゆーやなんでぎらい!」
「ごめんって」
「こんなに心配ざせで! 私のごど1人にじないって言ってぐれだじゃん!」
「ごめん、本当に悪かったよ」
何度も泣き叫びながら、抱きついていた咲茉の両手が悠也の背中を叩く。
そして背中を叩かれる度に、悠也が謝罪していると、当然咲茉が呻き声をあげる。
その様子に悠也が怪訝に眉を寄せていると、
「ざっぎの嘘っ! 大好ぎ! 好ぎ好き好ぎ好き好きッ! 世界で一番ゆーやが好ぎっ! 愛してるっ!」
突然、泣きながら咲茉が叫んでいた。
恥ずかしいと言いたげに、悠也の身体に顔を押し付けて。
何度も大好きと、咲茉が叫ぶ。
その言葉に、悠也も自然と答えていた。
「俺も大好きだよ、咲茉……愛してる」
そう悠也が答えると、ふと咲茉が顔をあげた。
「……ほんと?」
「前にも言っただろ。俺は……咲茉のことが好きで堪らないんだ。好きなところなんて言い切れないくらい、好きで好きで堪らないんだよ」
優しい声色で答えた悠也が、見上げる咲茉の目から溢れる涙を拭い、袖で鼻水を拭き取る。
「……ほんと?」
「本当だよ。咲茉……何度だって言ってやる。愛してるよ。一生、嫌がってもお前の傍にいるから覚悟しろよ」
そう言って悠也が笑顔を見せると、咲茉の表情が更に歪んでしまった。
もう我慢できない。勝手に嗚咽が出てしまう。
彼から向けられる言葉の全てが、心地良くて仕方ない。
この気持ちは、もう言葉だけで伝えられない。
そう咲茉が思った途端、勝手に身体が動いた。
そっと咲茉の両手が、悠也の頬に添えられる。
そしてゆっくりと彼女が顔を近づけると――
咲茉の唇が、優しく悠也の口に触れていた。
「ん――⁉︎」
突然の出来事に、悠也が目を大きくする。
しかしそれも束の間だった。
数秒も経たずに、咲茉の唇が離れてしまう。
「え、えま……お前いまっ――」
キスされたことに驚く悠也だったが、彼の言葉を咲茉の唇が塞ぐ。
それは唇同士が触れるだけの、優しいキスだった。
そしてまた数秒も経たずに咲茉が唇を離すと、潤んだ目で悠也を見つめていた。
「もう言葉だけじゃ足りない。私がどれだけ悠也のことが好きか伝えるには、もうこれしかないよ」
「でもお前キスは――」
「もう関係ない。この気持ちを伝えられるなら、そんなのどうでも良い」
また悠也の言葉を、咲茉の唇が塞ぐ。
恋人なら当然のようにする親密な行為を、ずっと咲茉は避けていた。
それは咲茉の辛い記憶を呼び覚ます行為だと、悠也も分かっていた。
だから、その時が来るまでゆっくりと待つと決めていたのに。
まさか今、彼女からキスされるとは夢にも思わなかった。
「ねぇ? ゆーや、私のこと好き?」
「……好き」
「私も、大好き」
好きと悠也が答えた途端、咲茉からキスされる。
「これからも、ずっと愛してくれる?」
「愛してる。ずっと愛してる」
「……うれしい」
咲茉がそう告げた途端、彼女の唇が悠也の口を塞ぐ。
互いに囁き合いながら、ついばむようなキスを何度も2人が繰り返す。
そして気づくと、2人は見つめ合ったまま、無言で何度も唇を触れ合わせていた。
離しては、触れて。離して見つめ合って、また触れる。
そんな行為を何度も繰り返していると――
突然、病室の扉がガタっと揺れ動いた。
「「ッ――⁉︎」」
その物音が聞こえた途端、悠也と咲茉の肩がビクッと跳ね上がる。
そして反射的に2人が振り向くと、そこには見知った3人の顔が病室の扉から覗いていた。
「はわわわわわ……! 大人です! これが大人のキスです!」
顔を真っ赤にした雪菜が悠也と咲茉を見つめていた。
「雪菜っちに大人のキス教えたら気絶しそうだね〜」
赤面する雪菜に、乃亜が苦笑する。
その手に握ったスマホは、なぜか悠也達に向けられていた。
「悠也ぁ……ぜってぇ殺す。私だってしたことねぇのに……!」
そして凛子も、顔を真っ赤に染めて悠也達を睨みつけていた。
「……お前等なぁ⁉︎ 邪魔すんなよッ⁉︎」
「はぅ……もうお嫁にいけない」
怒りに叫ぶ悠也と、恥ずかしさのあまり咲茉が彼の胸に顔を埋める。
そんな2人を見ながら、乃亜達はそれぞれの反応を見せていた。
「わ、私はやめようって言ったんですよ! でも2人が!」
「でも雪菜っちもノリノリだったじゃん!」
「それは……はぅぅ!」
「私は悠也が咲茉に手を出さねぇか見張っておこうと――」
「凛子っちもガン見してたじゃん。顔、真っ赤だよ。君も思春期だねぇ〜」
「てめぇも思春期のガキだろうがッ‼︎」
あっという間に、病室が騒がしくなった。
その光景に、自然と顔を見合わせた悠也と咲茉が小さく笑ってしまう。
そして騒ぐ3人が看護師に叱られるまで、2人は笑みを浮かべながら――その光景を微笑ましく眺めていた。
読了、お疲れ様です。
あと2話で、本編が終わります(予定)
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