第109話 私の手は、もう汚れている
目が覚めると、なぜか拓真は白い天井を見上げていた。
どうやら今まで、自分は眠っていたらしい。
一体、ここはどこなのか?
一体、いつから眠っていたのか?
その記憶すらも曖昧だった。
どうにか思い出そうとしても、寝起きの頭がぼんやりとして上手く働いてくれない。
なにはともあれ、知らない場所で寝ているのも気分が悪い。さっさと起きて、寝床に帰ろう。しばらく眠っていた所為か、女とヤりたくて仕方ない。また適当に見繕って、溜まった性欲を発散しなくては――
そう思った拓真が何気なく起き上がろうとしたが、ふと、その違和感に気づいた。
なぜか身体が、思うように動かなかった。どうにか動かそうとしても、手足がピクッと震えるだけで動く気配すらない。
その違和感に拓真が困惑していると、少しずつ寝ぼけていた意識がハッキリとしてきた。
彼の耳に、奇妙な電子音が響いた。ピッ、ピッと鳴り続ける電子音が煩わしくて仕方ない。
なにかと思って見ようとしても、首すらも動かせなかった。
窓から差す日差しが鬱陶しい。更に遠くから聞こえる物音も、そして鼻に感じる消毒液の匂いが拓真により一層の不快感を与えていた。
「ぁ…………?」
その感じる五感が、拓真の脳に告げていた。
ここが病院だと。
なぜ自分が病院にいるのか?
そんな疑問を拓真が抱いていると、おもむろに扉が開く音が聞こえてきた。
微かに聞こえるとてとてと鳴る小さな足音。どうやら誰かが近づいてきているらしい。
怪訝に眉を寄せたくても顔の表情すら動かせないことに拓真がまた困惑していると、
「……驚いた。まさか意識があるなんて、大した男だよ」
近づく足音と共に、女の驚く幼い声が拓真の耳に届いた。
天井を見上げる拓真の顔を、近づいてきた女が見下ろしてくる。
そしてその女を見た途端、拓真は素直に困惑してしまった。
なぜか深く帽子を被った小柄な童顔の女が、拓真を見下ろしていた。
この少女を、見たことがある。
その顔を見た瞬間、拓真は思い出した。
そうだ。ついさっきまで、自分はあの憎き悠也を殺そうとしていたはずだった。
自分からヒロインである咲茉を奪おうとする悪党を成敗して、彼にヒロインと結ばれる瞬間を見せつけようとしていたはずだ。
それを、突然現れたこの女が邪魔してきたのだ。
この女がいた所為で、全て邪魔された。彼女から背中を殴られなければ、全てが上手くいっていたというのに――
その湧き上がる怒りを拓真が視線に込めて見つめていると、おもむろに乃亜がクスクスと笑っていた。
「まぁ、そんなことはどうでも良いか。どうせお前は動くこともできないだろうしね」
その生意気な口を今すぐ黙らせてやる。
その意思で拓真が起き上がろうとしたが、やはり彼の身体は全く動かなかった。
指の先がピクッと動くだけで、小刻みに痙攣する拓真の姿に乃亜は失笑した。
「お前が運ばれた病院を見つけるのに随分と苦労したよ。流石に3日も掛かるとは思わなかった」
3日。その数字が、拓真を困惑させた。
まさかそれだけの時間を眠っていたというのか?
驚く拓真だったが、そんな些細なことはどうでも良いと言いたげに乃亜が鼻を鳴らす。
その全ての所作が、まるで拓真を馬鹿にしているようだった。
苛立った拓真が動こうとしても、やはり彼の身体は動かない。
その様子に乃亜が嬉しそうに笑みを浮かべると、その笑顔が拓真をまっすぐ見つめていた。
「ここまで上手く行くと笑いが止まらないよ~。この時代の私も非力だったからね。それでお前の脊髄の損傷ができて、機械の限界まで電圧を上げたスタンガンだけで人間の神経をここまで壊せれば……十分過ぎる成果だった」
一体、この女は何を言っているのだろうか?
唐突に告げられた乃亜の話を、拓真は全く理解できなかった。
しかし彼が理解できなくとも、乃亜は気にする素振りも見せなかった。
「ふふっ、動けないでしょ~? お前の苦しむ姿が見られて、実に私は気分が良い」
終始嬉しそうな笑みを崩さず、乃亜が楽しげに語る。
「このまま動けないお前を眺めているのも捨てがたいけど、悪いけどあまり時間がないんだ。時間が経つとすぐに警備の人が戻って来るからね。犯罪者のお前が逃げないように見張られてる彼等の隙を見つけるのにもかなり苦労したよ」
そしてそう言うなり、乃亜は手に持っていたポーチを開けて、何かを漁っていた。
ポーチの中から液体の入った小さなビンを取り出し、更に注射器を取り出す。
その注射器にビンに入った液体を入れていると、ふと乃亜が饒舌に話し出した。
「あ、そうだ。気分が良いから手短に教えてあげるよ。今ね、世間でお前はいまだかつてないほど劣悪な性犯罪者だって言われてるんだよ。もう外も出歩けないくらい顔写真がニュースに出てるよ。それもそうだよね、だってお前達が犯した女の数、警察が分かってる限りでも30人は余裕で超えてるんだもん。そりゃ嫌でも騒がれるよ」
笑っていたが、乃亜の顔を見れば、その違和感に誰もが気づいただろう。
「でも、それもこの先のお前が手に掛ける女の数に比べれば大した数じゃない。私だって胸が痛かったよ……今後お前に犯されて人生が壊される100人以上の女達と、この時代でお前が犯した30人を天秤に掛けたんだ。ははっ……きっと、また次も私はロクな死に方はしないだろうね」
口角を上げて語る彼女の顔は、なぜか微塵も笑っていなかった。目も表情も無表情のままで、口だけが笑うだけだった。
「ちなみにお前が仲間達と好き勝手にし続けた強姦は証拠がたくさんあったよ。お前や仲間のスマホに行為の映像が山のように残ってたみたいだね。それだけで最大20年の懲役だってさ」
そう告げて、乃亜が我慢できないと笑い声を漏らす。
「だけど、お前にはそれだけじゃ到底足りない。豚箱に入る時間は長ければ長いほど良い。だから強姦関連以外の罪も増やそうと思ったから、しっかり私の方で悠也との喧嘩は録画させてもらったよ。心配しなくてもお前が悠也を刺した場面もバッチリ撮ってるから安心してね。これでお前に拉致監禁とか諸々に、殺人未遂も加わる。それで犯罪のフルコースだ」
あの時の喧嘩を全て録画していた?
その言葉に、拓真は唖然としてしまった。
その話が本当ならば、拓真が悠也と喧嘩している時から――ずっと彼女は見ていたことになる。
仲間の悠也を助けることもなく、襲われている咲茉を助けるわけでもなく、目の前で起きている光景を見ているだけだったと。
それがどれだけ異常な行動であるかは、拓真にも理解できた。
驚く拓真の目が大きくなると、その反応に乃亜は失笑していた。
「お前が馬鹿なおかげで、このイカれた大博打に私は勝ったんだよ。親友2人の命を掛け金にして、お前の罪を増やそうとした。本当に助かったよ、ありがとう」
一体、この女は何を言っているのだろうか?
彼女の話がひとつも理解できずに拓真が困惑しているが、しかしそれでも乃亜は彼を気に掛けることはなかった。
全く意識すら向けず、手に持った注射器を乃亜は嬉しそうに見つめていた。
「でもね、これも仕方ないことだったんだよ。悠也と咲茉の手を汚させるわけにはいかなかったからね。だからあの二人がタイムリープしていると気づいてから、私は子供という役割を演じ切った。多少は頭の回る、自分勝手で生意気なクソガキをね。それはこの先も続く、この役割を私は大人になるまでずっと演じ続ける」
本当に、このガキは何を言っているのか?
子供を演じるもなにも、拓真には目の前にいる彼女は子供にしか見えなかった。
「咲茉が消えてからの悠也は本当に見てられなかった。良い男になるはずだったのに、落ちぶれてく姿を見てるのは辛くて仕方なかったよ。それで最後はお前に殺されたんだ。運良く咲茉と再会できたっていうのに……お前に壊されたんだよ。そんなの、この私が許せるわけがない」
困惑している拓真を他所に、語る乃亜の手が彼の腕に伸びる。
そして持っていた注射器を押し込むと、そのままゆっくりと液体を注入していた。
「お前を見つけるのに何年掛かったかもう忘れたよ。まぁ、お前を殺せれば時間なんてどうでも良かったからね。私の全てを投げ捨てて、お前を捕まえてあれだけ苦しめて殺したのに……また馬鹿にみたいに同じことを繰り返した。お前は正真正銘の馬鹿だよ。本当、死んだ方が良い人間っているんだね」
その言葉で、ふと拓真は思い出した。
自身が死んだ時の忘れていた記憶を。
悠也と咲茉を殺したことで指名手配された後、逃げ続けた地方で適当に犯した女の家を寝床にしていた時、起きると知らない女に捕まっていた。
そこから意味の分からないことを呟きながら、酷い目に遭った。
爪を全て剥がされ、電流で苦しめられ、火の付いたタバコで何十回も肌を焼かれた。
その壮絶な苦しみの先に、最後はゆっくりと背中にナイフを何度も刺された。
死ぬ最後の時まで、ゆっくりとナイフを刺しては抜き、それを何度も繰り返して。
泣き叫ぶ自分を、知らない女が淡々と手を動かしながら、無表情で見つめていた。
その目を、拓真は忘れていなかった。
憎悪に満ちた、黒い瞳を。
そして今、目の前の少女から向けられている目も――どこか同じに見えた。
「咲茉はね、幸せになる女の子だったんだ。好きだって気づきもしない悠也と、いつか幸せに添い遂げるはずだったんだ」
まさかお前も――!
思わず拓真が叫ぼうとしたが、乃亜に注射をされた途端、頭が焼けるように痛くなった。
まるで何かが壊れるような、頭が割れるような痛みに拓真が悶える。
しかし痛みに悶えても、拓真の表情は変わらなかった。人間としての機能を失っている彼の身体では、その意志のままに身体が動くことはなかった。
「あの子は本当に優しい子だったんだよ。生意気で頭の良さで他人を見下してた独りぼっちの私と、親友になってくれたんだ。お前みたいな人間と違って、私の灰色だった人生を彩ってくれた彼女こそが誰よりも素敵な人間だよ。あんな人間がたくさん居たら、こんな腐った世界も幸せになるんだろうね」
そこで、おもむろに乃亜が目を閉じた。
思い出すのは、懐かしい記憶。
独りぼっちで、他人を見下していた自分には、当然のように友達が1人も居なかった。
そんな日々を小学生から過ごしていけば、心が荒んでしまう。でも、1人でも良いと思い続けてきた。
そんな日々を過ごしていると、ある少女と出会った。
『あー! 難しそうな本呼んでる! ねぇねぇ! なに読んでるの?』
その少女も最初は煩わしい馬鹿な子供の1人だと思った。
適当にあしらっても、何度もしつこく付き纏ってくる。そして諦めてしまったのが、運の尽きだった。
思いのほか、他人と過ごす日々と悪くなかった。
友達になり、親友に変わり、気づくと咲茉のことが大好きになっていた。
そして自然と友達も増えて、つまらなかった人生が少しは楽しいと思えるようになってきた。
こんな自分を拾ってくれた彼女を、乃亜は心から尊敬していた。
彼女こそ、幸せにならなければならない女だと。
そんな確信を、ずっと抱いていた。
「だから、これなら幸せになる咲茉に……お前は邪魔だ。でもお前を殺すとタイムリープされる可能性がゼロじゃない以上、残念なことにお前は絶対に殺せない」
そして目を開けた乃亜が、語る。
その可能性がある以上、拓真という人間は殺さない。
殺せば、タイムリープした拓真が何をするか分からない。
彼がタイムリープしても、他の人間もタイムリープできると断言できない。
「なら簡単な話だ。単純にお前を縛りつければ良いだけだった。神経も全部壊して、自殺もさせなければ、お前はもう何もできなくなるからね」
だからこそ、ずっと乃亜はその一手に全てを賭けていた。
その一手が決まれば、全ての問題が解決すると。
「ねぇ? 人間が本当の意味で死ぬ時って、どんな時と思う?」
突然告げられた乃亜の質問に、拓真が呆然とする。
しかし彼の反応など、もう彼女には関係なかった。
嬉しそうな表情で、乃亜は語り始めた。
「それはね、忘れられることだよ。家族にも、友達にも、みんなに忘れられて、1人で孤独のまま、お前は死ね。それがこの私がお前に与える最後の断罪だ」
そんな彼に、笑顔の乃亜が口を動かす。
「馬鹿なお前には分からないでしょ? 人間は退屈だと心が死ぬ生き物なんだよ?」
そう語ると、また乃亜が楽しげに語り出した。
「この先に一切の娯楽もなく、食欲も満たせず、性欲も発散できない。ただ過ぎる時間を無意味に1秒ずつ感じて、孤独である時間を存分に堪能してよ。時間が経てば経つほど、それがお前の心をひたすら苦しめる」
それがどれだけの苦悩の日々か、拓真には想像もできなかった。
ただ今の彼に分かることは、このままでは女で性欲が発散できないという絶望だけだった。
今すぐ逃げなければ――
そう思っても、拓真の身体は微塵も動かなかった。
「大丈夫、安心して良い。私はお前を死なせないよ。服役してる時も、出た後も、私が面倒を見てあげる。もう二度と会うこともないけど、金さえあれば大抵のことなんてどうにでもなる。まだこの時代は仮想通貨も流行る前だ。これからの世情の動きも覚えてる。金の稼ぎ方なんて腐るほどある。だから安心して余生を過ごすと良いよ」
そう言って、ずっと拓真を見下ろしていた乃亜が見上げていた彼の視線から外れる。
「あぁ、言い忘れてた。さっきお前の身体に打った薬品はね、10年後に私が作る予定だったお手製一品だよ。製薬の仕事で研究していた知識も捨てたモノじゃないね。本当なら脳の活性化を図る薬品だけど、ちょっと手を加えるだけで、その効力は反転する。これで脳神経を壊して、お前の身体を更に封じれば、晴れて肉人形の完成だ」
そう告げながら、とてとてと小さな足音が部屋に響く。
この先、なにもすることができない。
手足を動かすことも、顔の表情すらも満足に動かせない。
だが、時間だけが過ぎていく。
その日々がどれだけの絶望であるか、やっと拓真は気づいた。
叫びたくても、身体が動かない。
ただ聞こえる乃亜の小さな足音に、すでに拓真の心は壊れそうになっていた。
「もし寿命で死んでタイムリープしても、どの時間でも咲茉に手を出せば、私がお前のことを必ず見つける。だからもし次もタイムリープしたら、次は静かに生きることをおすすめするよ。私に見つけられればどうなるか……その馬鹿な頭でも、分かるよね?」
扉の開く音が聞こえる。
彼女が居なくなれば、もう自分は助からない。
自殺することもできなければ、一体これから自分はどうなってしまうのか?
襲い掛かる絶望感に拓真の目から涙が溢れる。
しかし溢れた涙も、もう拭うことすらできなかった。
「私の手は、もう汚れてる。だからもう何回汚れても、どうでも良い。だから私は地獄に堕ちたとしても、大好きな咲茉が傍で笑って幸せになるなら……それだけで私は満足だよ」
そう言い残して、乃亜が病室から出ていく。
そして扉が閉まった途端、拓真の喉から呻き声が吐き出された。
その声も、もう誰にも聞こえない。
自分は主人公だったはずなのに――
ヒロインと結ばれるはずだったのに――
咲茉と過ごす快楽の日々を、ずっと楽しみにしていたというのに――
それが全て、間違いだったとでも言うのか?
しかしその問いの答えを、拓真が知る由もなかった。
「ッ――――⁉︎」
1人だけの病室には、拓真の呻き声だけか空しく響くだけだった。
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