第1話 久しぶり
12月24日。世間ではクリスマスイブだと騒がれているが、高瀬悠也には全く関係のない話だった。
多くの人で賑わう夜の煌びやかな街をふらついた足取りで歩きながら、そんなことよりも悠也は自宅のベッドが恋しくて仕方なかった。
「寝てぇ……」
無意識にそう呟いてしまうほど、とにかく仕事で疲れ果てた彼の身体は睡眠を欲していた。一秒でも早く布団で寝たいという渇望が、まるで鉛のように重たい身体にムチを打つ。
今日も終電間際まで仕事だった。明日も始発から出勤する。家に帰ってから寝れる時間は、おそらく3時間もあれば良い方だろう。
自宅から会社まで約30分。往復で通勤時間に1時間も掛かれば、その分だけ睡眠時間は削られる。
都心部の家賃が高いとケチった過去の自分を呪いたくなった。社会人になって嫌というほど自分の時間があることの大切さを実感してしまう。
果たして、最後に熟睡できたのはいつだったか……それすらも悠也は覚えていなかった。
大学を卒業し、上京してから3年も経つというのに、社会人になってから今日まで片手で数える程度の休みしかなかったような気がする。
とは言っても、仮に休日だろうと終わらない仕事の所為で休日出勤を強いられてる彼には事実上、休みなど1日もなかった。
だからか、この3年で驚くほど老けた。まだ25歳だというのに白髪も目立つほど増えて、顔も驚くほどやつれた。鏡に映る自分の顔を見る度、自分の年齢が分からなくなってしまうほどに。
これもきっと仕事の疲労とストレスが原因かもしれない。
終わらせても次から次へと上司から山のように積み上げられるデスクワーク。その所為で肩こりと腰痛が慢性化した。更に去年辺りから目眩もして、眼精疲労で瞼も痙攣するようになった。
そして毎日、飽きることなく上司から浴びせられる罵声。業務の進捗や会社の業績が悪ければ怒鳴られる日々に最初は精神的に参っていたが、今では慣れて胃痛に悩まされるだけで済んでいる。
そんな日々を過ごしていれば、嫌でもこうなってしまうのだろう。
「なにアイツ? 見た目ヤバくない?」
「あんな風になるまでクリスマスでも仕事とか可哀想~」
ふらふらと歩いている悠也とすれ違ったカップルが、彼の姿を見るなり失笑する。
そのカップルの会話は、しっかりと悠也の耳まで届いていた。
「……うるせぇよ」
ポツリと呟く悠也だったが、その不満も鼻を鳴らすと一瞬で消え去った。
老けてしまった自分を自覚してから、気づけば身なりも気にしなくなった。
風呂には入っているが、そこまで生えていない髭は伸びたまま。髪も自分で適当にハサミで切っただけ。我ながら酷い姿だと悠也は笑いたくなる。
それとくたびれたスーツと皺の目立った白いシャツ。手には傷んだビジネスバックに、乱暴に緩めたネクタイが首に下がったままという、なんともみすぼらしい姿の自分が笑われないはずがない。
別に外見を気にしたところで仕事の残業が無くなるわけでもない。無意味なことに時間を使うくらいなら少しでも多く寝ることを優先した結果、今の姿になってしまった。
「友達、か」
カップル以外にも、夜の街中を悠也が歩いていると楽しそうに騒いでいる集団と時折すれ違う。
歩いている悠也に目もくれず、酒で酔った男だらけの集団や大学生みたいなノリで騒ぐ男女達。とても楽しそうだった。
就職してから友達とも会わなくなった。久々に会おうと連絡が来ても休みがない上に、積み重なる疲れとストレスで全てが面倒になって返事をしなくなったことで、今では誰からも連絡が来なくなった。
仲の良かった彼等は、今はなにをしてるのだろうか。
一瞬だけ気になったが、すぐに悠也はどうでもよくなった。休日がないから会えるわけでもないし、そもそも3年も音信不通になれば友達から他人になる。今更連絡したところで困らせるだけだ。
両親と最後に会ったのも、いつだったか。たまに来る連絡だけは義務感で返事をしてるが、年々返事をする回数も減ってしまった。実家を思い出すと、どうしようもなく家族が恋しくなる。
なんとなく大学生時代に作った恋人もいたが、社会人になってからフラれてしまった。仕事で会う時間が無くなれば、当然だが愛想も尽かされる。
多分、そこまで好きではなかったんだろう。彼女から別れを告げられた時、特に悲しいとすら思わなかった。
「……そう言えば、職場以外で誰とも話してないな」
本当に今更だった。思い返すと自分の周りに誰もいない事実に気づいて、気がつけば悠也はそう呟いていた。
ここまで心身を削って働いていても、決して給料が良いわけではない。そもそも金は使わない。いや、使えないという方が正しい。
趣味に使う時間もないし、昔に比べて物欲もなくなった。社会人になる前は、もっと色々なことをしていた気がする。
欲しいゲームだってあった。読みたい漫画や見たい映画もあった。友達と行く飲み会も、音楽のライブも楽しかった。時間があっても金が足りないことが多かった。
そんなことも、いつの間にか忘れていた。
仕事に追われる毎日に、楽しいことを考えることすら放棄したのかもしれない。
「なんで俺……働いてんだろ」
そう呟くと、悠也は歩いていた足を止めていた。
今まで考えないようにしていたことを考えてしまった。それが運の尽きだった。
そう思った途端、悠也の中に色々な思考が溢れ出た。
就職先を間違えた。休みもなく働かされるブラック企業に就職しなければ良かった。もっと就職活動を頑張って、学生時代も勉強してれば良い会社に就職できたかもしれない。
もっと早く転職をすれば良かった。なにも取り得がない自分が転職できるわけがないと上司に責め立てられてしまえば、なにも言い返せなかった。
しかし、少し考えれば分かることだった。世の中には色々な仕事があるのだから、選ばなければ転職くらいできる。だから、あとは仕事を辞める勇気だけあれば良かったのに……その勇気すらない自分がひどく惨めになる。
友達や家族に相談するべきだった。いや、こんなことを言ったところで迷惑を掛けるだけだ。自分を慕ってくれた人達に哀れまれたくないなんて意地を張らなければ良かった。
考えれば考えるほど、後悔という言葉が悠也の頭を埋め尽くした。
「今更……どうしろって言うんだよ」
近くにあったガラスに映った自分の姿に、悠也が失笑してしまう。
今からでも遅くないと思ったが、心も擦り減って外見も変わり果てた自分が今更変われるなんて思えるはずもなく。
もうなにもかも、気づくのが遅過ぎた。
これも全て、その場だけの適当な生き方をしてきた自分が悪い。
間違った選択を続けてきた。それが今の自分を作っただけの話だった。
今思えば――なんでこんな生き方をするようになったのか。
そんなことを悠也が思った時だった。
「……咲茉」
無意識に彼の口が、そう呟いていた。
自分の口から出てきた女の名前に、悠也の顔が強張った。
同時に彼の頭の中で過ぎった、懐かしい記憶。
子供の頃から、なにかと一緒にいることが多かった幼馴染。幼稚園から高校まで一緒だった、腐れ縁とまで言える彼女と過ごした数々の思い出。
いつも見ていた彼女の綺麗な顔を思い出すと、悠也は無性に泣きたくなった。
「どこに行ったんだよ……咲茉」
高校一年生の夏。突然、幼馴染だった彼女――涼風咲茉は転校していなくなった。
連絡も取れず、どこに行ったのかも分からない。子供だった自分が探したところで行方不明になった彼女を探し出せるわけもない。
いつも当然のように一緒だった彼女がいなくなった。その喪失感に、ようやく自分の気持ちに気づいたのだから……実に笑える話だった。
彼女が消えて自分の気持ちに気づいてから、悠也は全部がどうでもよくなった。
もっと早く自分の気持ちに気づいていれば、何か変わったのかもしれない。その後悔すらも、今まで忘れていた。
「アイツと一緒に居れたら、もっと違う人生だったかもな」
あの時の彼女が自分のことをどう思っていたか分からなかったが、それでも一緒に居れるように努力できたかもしれない。
しかし、そう思ったところで今更だった。この人生をやり直せるのなら、もっと彼女の傍に立てる男になれるよう努力だってできるのに――
「死ねば、人生やり直せたりしねぇかな」
なにげなく視線を横に向ければ、道路に行き交う車が目に入った。
あと数歩だけ道路に足を進めれば、この人生も簡単に終わらせられる。
死んで過去に戻るなど、あり得ない話だ。
しかし、限りなくゼロに近い話だと分かっているが、一度終わらせてみるのも悪くなかった。
今の人生に未練はない。何も楽しくない人生を生きる意味もない。むしろ、後悔しかない。あるとすれば、親よりも先に死ぬことくらいだろう。
別に今のまま生きていても、どうしようもない。両親には申し訳ないと思うが、もう終わらせた方が楽になれた。
「…………」
そう思うと、自然と悠也の足は動いていた。
自宅に帰るのではなく、道路に向かってゆっくりと足が動く。
そしてあと一歩で、悠也の身体が車道に出る時だった。
「……悠也?」
ふと、声を掛けられた。
突然、耳に聞こえた懐かしい声。どうしようもなく好きだった彼女の穏やかな声を、決して悠也は聞き間違えなかった。
「えっ……?」
思わず悠也が振り返ると――その視線の先には、みすぼらしい姿の女が立っていた。
少し汚れた白いダウンと灰色のスウェットに、黒のブーツ。そして傷んだ長い黒髪と少しやつれて荒れた肌をしていたが、それでも一目で整った顔だと分かる。
決して今の彼女の姿が綺麗とは言えなかったが、その顔を悠也が見た瞬間――すぐに誰か分かった。
大人になっても、あの時から全然変わってない。
彼女の容姿を、悠也が見間違えるはずがなかった。
「咲茉……?」
「やっぱり悠也だ。すごい久しぶり……お互い、変わったね」
驚く悠也を見て、彼女がクスクスと楽しそうに笑う。
その笑い方は、悠也の記憶の中にいる涼風咲茉と全く同じだった。
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