黒髪と顛末
「「「「――ッ!」」」」
懐紙の中から現れた一房の黒髪と、それを『今の我が娘』と呼んだ守就の言葉に、大広間に居合わせた者たちは一様に息を呑んだ。
その意味するところは――ひとつしか考えられない。
「な……」
驚いたのは、上座に座る龍興とて同じだった。
彼は、咄嗟に開いた扇子で動揺が浮かんだ自分の顔を隠し、上ずった声で守就に問う。
「なんだと……? そ――それはどういう事だ、伊賀?」
「……実は」
龍興の問いかけに、守就は白い懐紙の上に置かれた漆黒の髪に目を落としたまま、淡々と口を開いた。
「昨夜――稲葉山に帰着した後、半兵衛が武田方に降った旨を自分の口から伝えようと、娘の元を訪れたのですが……」
そこまで言ったところで、守就は口を真一文字に引き結ぶ。
そして、心の底から湧き上がる激しい感情を必死で押し殺そうとするかのようにグッと唇を噛みしめ、それから再び話し始めた。
「……拙者が半兵衛の庵に着いた時にはもう……娘は懐剣で自分の喉を突いており……手の施しようも無く、そのまま……」
途切れ途切れに紡がれた守就の話を聞いた一同の間に、重苦しい空気が垂れ込める。
皆、力無く首を項垂れている守就に目を向けながら、この場で何と声を上げれば良いか分からず、ただただ黙りこくるばかりだった。
……と、
「ふ……ふん」
龍興は、手に持った扇子を忙しなく開閉しながら、口の端を歪める。
「夫と違って、妻の方は恥を知っておったようだな。夫の寝返りを知って自害するくらいには……」
「――殿っ!」
青ざめた顔に冷笑を浮かべながらも皮肉を言う龍興を、日根野弘就が慌てて窘めた。
「さすがにおやめ下され! 如何に半兵衛めの事を好ましくお思いでないといえど、言って良い事と悪い事が御座りますぞ! 特に……実の父であらせられる伊賀守殿の目の前で……!」
「……フン!」
弘就に諫められた龍興は不満げな表情を浮かべる。
一方の守就は、そんな彼の顔を血走った目でじっと見つめながら、カサカサに涸れた声で言った。
「……斯様な次第ゆえ、先ほどの御命に応える事は能いませぬ。――ですが、どうしても娘の身柄がご所望という事であれば、亡骸をこの城に運び込む事は可……」
「要らぬわ!」
守就の言葉を聞いた龍興は、露骨に顔を顰めながら怒鳴る。
激昂のあまり、思わず「生きているからこそ意味があるというに、死体では何の役にも立たぬわ!」と口走りそうになるものの、さすがにまずいと察して言葉を飲み込んだ。
そして、大きく肩で息を吐いて心を落ち着けてから、守就に向けて言った。
「……娘の亡骸は、好きなように弔うがよい。だが、葬儀を挙げるのは後だ。今は、織田の侵攻を阻止する事が万事に勝る」
「――御意」
龍興の言葉に、守就は短く応え、頭を下げるが、再び顔を上げると、「畏れながら」と続けた。
「……葬儀を後回しにするのは構いませぬが、それまで娘をそのままにする訳には参りませぬ。――取り急ぎ、亡骸を荼毘に付すお許しを頂きたく……」
「……フン、勝手にせい」
確かに守就の言う通りだと考えた龍興は、不機嫌な顔をしながらも渋々頷く。
彼の答えを聞いた守就は、「有難きお言葉」と答えながら、床に触れる程に深々と頭を下げ、それから床の上に置いていた娘の髪束を大事そうに懐へしまった。
そして、居ずまいを正し、上座に座る龍興に目線を向ける。
「それでは……先日の戦のご報告を――」
「要らん」
龍興は、口を開きかけた守就に対してぶっきらぼうに言い放ち、冷たい目を向けた。
「先ほども申したであろう。今は、織田勢の迎撃の件が全てに勝ると。もう終わった戦の話など聞いておる暇など無い。……負け戦なら特に、な」
「……畏まり申した」
皮肉と侮蔑に満ちた龍興の言葉にも眉ひとつ動かさず淡々と答えた守就は、おもむろにすっくと立ち上がる。
「それでは……もう拙者がここに居る必要は御座らぬな。失礼仕ります」
「ま、待たれよ、伊賀守殿!」
龍興に立礼してから踵を返そうとした守就の事を、日根野弘就が慌てて呼び止めた。
「軍議はまだ終わっておらぬ! 昨夜帰着したばかりの上、斯様な事もあってさぞお疲れであろうが、今しばらく――」
「構わん、行かせろ!」
守就を引き止めようとする弘就を、龍興が険しい声で制する。
「敗軍の将が軍議に居合わせたら運気が下がるわ!」
脇息にもたれかかり、だらしなく頬杖を突いた龍興は、不機嫌を隠そうともせずに吐き捨てた。
そして、バチンと音を立てて扇子を開くと、まるで犬でも追い払うように守就の方に向けて振り煽いでみせる。
「さっさと失せい!」
「……御免」
非情に言い放つ龍興に向かって再び一礼した守就は、今度こそ踵を返し、軍議の場から立ち去る。
今度は、誰も退出する彼の事を呼び止めようとしなかった。
重苦しい沈黙を保ったまま、力無く肩を落とした守就の背中をただ見送る。
「……」
大広間から退出し、廊下に出た守就は、無言のまま濡れ縁の端に立った。
彼は、目の前に広がる見事な庭園をぼんやりと見つめながら胸に手を当て、懐に入っている懐紙の感触を確かめながら、静かに目を閉じる。
「……月よ」
守就は、微かに震える声で娘の名を呼んだ。
そして、瞼の裏に現れた月の美しい笑顔に向け、こみ上げる思いを堪えながら一言だけ告げる。
「――いつまでも達者でな」




