白装束と黒髪
どよめきが上がる中、静かに歩を進めた死装束姿の安藤守就は、龍興から地図を挟んだ下座に腰を下ろすと、両拳を板敷の床について深々と頭を垂れた。
「……安藤無用斎守就、戦場より戻りまして御座る。殿におかれましては、御健勝のご様子、何よ――」
「そのような回りくどいだけの挨拶は無用!」
龍興は、声を荒げて守就の言葉を遮る。
そして、手にした扇子の先で守就の身体を指し、険しい顔で「そんな事より……」と続ける。
「なんだその格好は? 此度の敗戦の責を負って、ここで腹でも切るつもりか?」
「……殿の御命であれば」
詰問に近い声色の龍興の問いに、守就は再び頭を下げながら答えた。
「此度の不甲斐なき敗戦、面目次第も御座りませぬ。拙者の腹だけで御当家に多大な損失を生じせしめてしまった責を雪げるとは努々思いませぬが……殿のお気が済むのであれば、どうぞこの老いぼれに死を賜り下され」
「ほう……」
潔い守就の言葉を聞いた龍興は、思わず嘆声を漏らす。
だが、それは感嘆のあまりに漏れ出たものでも、嘆きによるものでもなかった。
彼は、守就を指していた扇子を逆手に持ち替え、先端を自分の腹に近付ける。
「ならば……いっそ望み通りに――」
「――殿ッ!」
酷薄な薄笑みを浮かべながら龍興が告げようとした言葉を、日根野弘就が慌てて遮った。
彼は、主の顔をじっと見据えながら、必死に首を左右に振る。
それを見た龍興は、忌々しげに唇を噛むと、逆手に握っていた扇子を元のように握り直して広げた。
そして、広げた扇子で自分の顔を扇いで不機嫌を紛らわせながら、しぶしぶ口を開く。
「……フン。お前が腹を切ったところで、武田に奪われた地が戻ってくる訳でもあるまい。腹を切るくらいなら、今後の働きで挽回せよ」
守就にそう言うと、龍興は床に広げられた地図の『米野』という文字を扇子で指した。
「――お前に三日の猶予を与える。その間に兵を再編して米野に向かい、先行して陣を布いておる不破太郎左衛門尉の隊と連携して織田の侵攻に備えよ」
「はっ!」
「断じて織田の弱兵どもに木曽川を越えさせるな! 貴様も“西美濃三人衆”のひとりであれば、その二つ名に恥じぬ働きをせい。良いな!」
「かしこまって御座る! 我が命に代えましても!」
龍興の言葉に、守就は雄々しく吠える。
大きく首肯している弘就を目の端に捉えながら、自分に平伏した守就の姿を見た龍興は、貯め込んでいた留飲を僅かに下げた、
――が、すぐに何か嫌なモノを思い出したようで、その顔は再び険しくなる。
「そういえば――」
「はっ……」
「……あの女面男めはどうなった?」
「女面男……半兵衛の事に御座りますか?」
「ああ」
訊き返す守就に頷きながら渋い顔をした龍興は、忌々しげに言葉を継いだ。
「やはり……あの男は武田に寝返りおったのか?」
「――お言葉ながら」
龍興の問いかけに、守就は静かに頭を振る。
「半兵衛は、寝返った訳では御座りませぬ。ただ……別動隊として戦場から離れた山の上に陣を構えていたせいで退却が遅れ、孤立した結果やむを得ず武田に降ったのだと――」
「フン! どうだかな!」
守就の言葉を鼻で嗤った龍興は、忌々しげに吐き捨てた。
「退却が遅れただと? あの煮ても焼いても食えぬ様な小狡い男が、そのような失策を打つ訳があるか! 十中八九、武田へ降る為に小賢しい策を弄したに決まっておる!」
「……」
激昂する龍興に対し、守就は無言のまま、ただ顔を伏せる。
と、龍興は扇子を勢いよく畳んだ扇子で床を強く叩き、平伏する守就を睨み据えながら言った。
「……伊賀。確か、あの女面男の嫁は、貴様の娘だったな?」
「…………はっ」
龍興の問いかけに顔を上げた守就は、少し間を置いてから小さく頷いた。
「仰る通り……我が娘・月は、三年前に半兵衛の元へ嫁いでおります」
「そうか……」
守就の答えを聞いた龍興は、扇子でトントンと肩を軽く叩きながら、何やら思案する。
そして、その口元に酷薄な笑みを浮かべ、守就に言った。
「善し……ならば、その娘をこの稲葉山城に連れて来い」
「……!」
龍興の言葉を聞いた守就が、僅かに表情を変える。
固唾を吞んでふたりのやり取りを見ていた家臣たちの間からも、漣のように微かなざわめきが上がった。
そんな空気の中、龍興が嗜虐的な薄笑みを湛えながら言葉を継ぐ。
「ふ……そう案ずるな。何も、あの男の代わりにお前の娘をどうするなどとは考えておらぬ……今のところはな」
「……」
「ただ……夫が囚われの身となり、ひとりだけ残されたお前の娘がさぞかし心細かろうと思うてな。あやつが戻って来るまで、我が城で預かっておいてやろうというのだ。……その方が、囚われの身となったあの男も安心であろう」
表向きは、半兵衛の妻の身を気遣うような言い草だが、もちろん龍興の真意は別だろう。
彼は、半兵衛の妻――守就の娘を体のいい人質にするつもりなのだ。
今までは、半兵衛の嫁の父親が西美濃三人衆のひとりである事もあって手を出しかねていたが、先日の敗戦の負い目がある以上、龍興に娘を人質扱いされようとも強くは抗うまい。
半兵衛が戦況の判断を誤って虜囚の身となったのか、それとも自らの意志で武田に降ったのか……今の時点ではどちらとも解らぬが、いずれにせよ、彼の嫁を自分の手が届くところに置いておくのは利があるに違いない――龍興は、そう考えたのだ。
――だが、
「……申し訳御座いませぬ」
龍興の言葉を聞いた守就は、静かに首を横に振った。
「せっかくの殿のお言葉ですが、御意に従う事は出来かね申す」
「……なに?」
守就の返事を聞いた龍興は、表情を険しくする。
「伊賀……貴様、娘可愛さで、主である俺に逆らおうというのか?」
「……そうでは御座りませぬ」
剣呑な響きを湛えた龍興の詰問に対して静かに頭を振った守就は、おもむろに懐へ手を差し入れ、二つ折りにされた懐紙を取り出した。
そして、目前の床に懐紙を置き、ゆっくりと開く。
「……これが、今の我が娘に御座る」
懐紙に包まれていたのは――若い女のものと思しき一切れの黒髪の束だった。




