燗酒と乾杯
武田軍は、烏峰城が築かれた古城山の麓に建つ商家を借り上げ、本陣宿所としていた。
深更を過ぎた商家の一室で、鎧帷子を脱いで夜着に着替えた信繁は、燭台の灯りの下で、文机に広げた白紙に筆を走らせていた。
――と、彼は襖の向こうの気配に気付いて、顔を上げる。
そして、傍らに置いた刀に右手を伸ばし、鋭い目を襖に向けながら、部屋の外に居る者に向けて声をかけた。
「――誰だ?」
「夜分に畏れ入り申す。馬場めに御座る。もうお寝みでしたか?」
「美濃か……」
襖の向こうから返ってきた聞き慣れた声に緊張を解いた信繁は、刀に伸ばしかけた手を戻しながら、先ほどよりも穏やかな声で答える。
「いや、まだ起きておる。構わぬ、入れ」
「はっ……では」
信繁の許しを受けて、部屋の襖が開き、その向こうに控えていた鎧帷子姿の馬場信春が深々と頭を下げた。
「失礼いたしますぞ」
そう言いながら、信春は傍らに置いていた膳を両手に持って部屋の中に入ってきた。
「うむ」
信春に向けて頷き返した信繁は、文机を脇にずらす。
そして、信春がどんと置いた膳の上に載った土器の盃と片口 (注ぎ口が片側に付いた銚子)を見て微笑んだ。
「酒か」
「左様に御座る! 今宵は久々に典厩様と酒を酌み交わしたいと思いましてな!」
信繁の問いかけに満面の笑顔を見せて答えた信春は、早速片口に手を伸ばし、「熱ちちち……」と声を上げる。
「最近はめっきりと寒くなってきましたゆえ、燗酒を用意させました。ささ、盃をお取り下され。冷める前に飲りましょう」
「うむ」
信春の言葉に思わず口元を綻ばせた信繁は、膳の上の盃を手に取り、信春の酌を受けた。
そして、一度盃を膳に置いてから、信春の手から片口を受け取り、今度は彼の盃に酒を注ぐ。
「おっとと……そのくらいで」
盃の縁から酒が溢れかけるのを見て、信春が慌てて声を上げた。
そして、零れかけた酒の雫を掬った指を舐め取ると、満足げな笑みを浮かべた。
信繁も、そんな彼の幸せそうな顔につられて微笑みを浮かべながら、自分の盃を手に取り、目線まで掲げる。
「では……乾杯」
「乾杯」
信繁の音頭に信春も杯を掲げた。
「ふぅ……」
温かい酒の辛さに喉が灼かれるような感覚を覚えながら、信繁は感嘆混じりの息を吐く。
と、すかさず二杯目を注ごうと片口を手にした信春が、部屋の中を見回しながら尋ねた。
「そういえば……珍しく、源五郎の奴がおらぬようですな」
「あぁ、昌幸か」
信春の酌を受けながら、信繁は苦笑を浮かべて答える。
「あいつは、弾正のところだ」
「ほほう……」
信繁の答えを聞いた信春は、少し驚いた様子で目を見張った。
「一徳斎殿の方はともかく、源五郎の方はいつも憎まれ口を叩いておるのに。わざわざ父親の相手をしにいくとは、なかなか仲睦まじい事で御座るな」
「いや……」
感心する信春の盃に酒を注ぎながら、信繁はクスクスと笑う。
「昌幸は、弾正の事を説教しに行ったのだ」
「説教……ははは、なるほど」
信繁の言葉を聞いて、すぐにその理由に思い当たった信春は、思わず吹き出した。
その拍子に盃の縁から零れかけた酒を、「おお、もったいない……」と慌てて舐め取ってから、信春は言葉を継ぐ。
「先ほどの久々利頼興の件を、ですか」
「ああ」
信春の言葉に頷いた信繁は、先ほどの事を思い出して笑いを漏らした。
「さっきは大変だったぞ。真っ青な顔をして、父がとんでもない事をして申し訳ない、どうかお許し下さいと、床に額を擦りつけんばかりの勢いで謝られてな」
「ほお、あの小生意気な若造が……」
ウンザリ顔で信繁がこぼすと、信春がニヤリと笑う。
「それは……是非とも見てみとう御座ったな」
「他人事だと思って、気楽に言いおる」
面白がっている信春の顔を恨めしげに睨んだ信繁は、盃を呷った。
「難儀したぞ。いくら儂が怒っていないと申しても聞かず……。挙句には、『拙者が、あの糞親父に篤と言い聞かせて参ります!』と言い捨てて、儂が呼び止める前に飛び出して行きおった」
「ははは。では、一徳斎殿は、今頃息子殿のきつい説教を受けておる最中という訳ですか」
「まあ、弾正の事だから、屁理屈を捏ねて逆に言いくるめそうだがな」
そう言って愉快そうに笑った信繁だったが、ふと盃を膳の上に置くと、隻眼で信春の顔を見据える。
「……ところで、美濃よ」
「……はっ」
信繁の声に、信春も何かを察した様子で盃を置き、背筋を伸ばした。
そんな老将の顔に鋭い目を向けたまま、信繁は静かな声で尋ねる。
「よもや、お主も知っておったのか? 弾正の企みの事を」
「――いえ」
信繁の問いに、信春は小さく頭を振った。
「拙者も存じませんでした。……というか、一徳斎は、此度の企ての事を誰にも漏らしておらなかったようです」
「……そうか」
信春の答えを聞いた信繁は、複雑な表情を浮かべながら小さく息を吐く。
「と、いう事は……弾正は本当に己ひとりで策の責を負うつもりだったのだな」
そう呟きながら、彼は憮然とした様子で口髭を指で撫でた。
と、そんな彼の盃に新たな酒を注ぎながら、信春が「ですが……」と続ける。
「一徳斎殿が久々利城から久々利殿を連れ出してきた時点で、何か企んでおろうとは薄々察しておりましたが」
「……なに?」
「その上で、そ知らぬふりをして一徳斎殿のやりたいようにやらせていた訳ですから、ある意味拙者も悪企みの片棒を担いでいたと言えるのかもしれませぬな。ははは……」
「……美濃、お主……」
呆気にとられた表情の信繁を前に、信春は愉快そうに笑みを浮かべながら、悠然と盃を干すのだった。




