古狸と子狐
「……親父殿」
武田軍の陣の片隅に生えていた松にもたれかかりながら、山間から昇った月を肴に瓢箪の酒を呷っていた真田幸綱は、不意に背後から声をかけられた。
徳利から離した拍子に口の端から零れた酒の雫を指で拭いながら振り返った彼は、立っていた男に向かってにんまりと笑いかける。
「おう、源五郎ではないか! どうした? やはり父の事が恋しくなって会いに来てくれたのか?」
「だから……そんな訳がないと、昨日も申し上げたでしょうに……」
父がかけた気さくな声に迷惑そうな顔をしながら、武藤昌幸は横に首を振った。
そんな息子のウンザリ顔も意に介さず、幸綱は大げさな仕草で手招きする。
「まあ良い! こっちに来い、源五郎!」
そう言いながら、幸綱は手に持っていた瓢箪を掲げた。
「ほれ、酒もここにある! 久々に親子水入らずで飲もうではないか!」
「いえ……」
昌幸は、幸綱の誘いに再び頭を振り、その代わりに険しい目を父に向ける。
そして、周りに目を配って人がいない事を確認してから、低い声で言った。
「……一体、何故あのような事をなされたのですか?」
「はて?」
幸綱は、昌幸の問いかけにわざとらしく首を傾げてみせる。
「一体何の事かの? “あのような事”とは――」
「とぼけなさるなッ!」
しらばっくれる幸綱に、昌幸は思わず声を荒げた。
「……久々利頼興の事に決まっておりましょう!」
と続けた昌幸は、更に声を潜めて言葉を継ぐ。
「何故……典厩様にも黙ったまま、独断で久々利頼興の命を?」
「やれやれ、お前もあの場に居たのに、ワシと典厩殿の話を聞いておらなんだか?」
幸綱は、呆れ笑いを漏らした。
「悪五郎殿は、敵が放った銃弾に喉を貫かれて――」
「拙者が、斯様に下手糞な作り話を信じるとお思いか?」
と、幸綱の言葉を遮った昌幸は、へらへらしている父の顔に鋭い視線を向ける。
「これでも、拙者は“真田の古狸”の息子ですぞ」
「カッカッカッ! ワシが古狸か! 確かに違いない!」
昌幸の言葉を聞いた幸綱は、怒るどころか膝を叩いて大笑した。
「誰が言い出したのかは知らぬが、上手い事を言いおるのう。では、お前はさしずめ、“武藤の子狐”といったところか?」
「……知りませぬ」
幸綱の問いかけに、昌幸は憮然としながら頭を振り、話を戻す。
「とにかく……先ほどの拙者の問いにお答え下され!」
「――言わねば分からぬか?」
問いを重ねた昌幸の顔を、幸綱はジロリと見据えた。
その口元には相変わらずの薄笑みが浮かんでいたが――その目は笑っていない。
「……ッ!」
いつも飄々としている幸綱が向けた視線に氷の刃の如き鋭さを感じて、昌幸は思わず気圧される。
そんな彼に、幸綱は静かな声で問いかけた。
「……では、お前がワシの立場だったら、久々利悪五郎をどうしたと思う?」
「それは……」
昌幸は、父の問いかけに思わず言い淀む。
――それまでの所業や言動から考えて、久々利頼興は決して信のおけない男だった。
そんな男を、斎藤家及び織田家との国境に置き続けるのは危険すぎる。
彼が望んだ通りに烏峰城を与える事は勿論、久々利城を任せ続けるのも避けたいところだ。
出来れば、頼興を早いうちに城替えさせて国境から引き剥がしたい……。が、自ら武田方へ降ったという“功”がある彼から久々利城を召し上げる名分が無いし、頼興本人も先祖代々の居城である久々利城を明け渡す事を承服すまい。
ならば――、
「どうじゃ? ワシと同じ結論に至らんか?」
「……ですが!」
幸綱の言葉に同意しかけた昌幸だったが、ハッと眦を上げ、声を荒げた。
「でしたら……総大将である典厩様にその旨を申し上げて、事前にご了承を頂くべきでしょう!」
そう叫んだ昌幸は、月明かりで白く照らし出された顔を険しくさせる。
「そのような大事を、全くの独断で勝手に為すとは……典厩様がお赦しになったから良いようなものの、下手をしたら責任を問われて腹を切らねばならなくなったのかもしれぬのですよ!」
「カッカッカッ!」
昌幸の叱責に、幸綱は上機嫌で笑った。
「何じゃ源五郎? 父の身を案じてくれとったのか? 嬉しいの~!」
「そ、そんな訳あるかっ!」
大げさに喜ぶ幸綱に、昌幸は顔を真っ赤にして、上ずった声で怒鳴る。
「べ、別にアンタを心配した訳じゃない! お、俺はただ……アンタのせいで母上が悲しんだり、兄上たちが苦労したりするのを見たくないだけだッ!」
「くっくっく……照れるな照れるな」
ニヤニヤしながら、必死で頭を振る昌幸をからかった幸綱だったが、ふとその顔から笑みが消えた。
彼は、瓢箪の酒を一気に呷り、口を離して大きなゲップをした後に、「……のう、源五郎よ」と昌幸に言葉をかける。
「ワシやお前のように、武力ではなく智恵を以て主に仕える者に求められる覚悟とは何だと思う?」
「智恵を以て主に仕える者に求められる……覚悟……」
先ほどまでとは打って変わって真面目な口調になった幸綱に戸惑いながら、昌幸は問いの答えを考えた。
「それは……あらゆる策を駆使し、必ずや御味方に勝ちを齎さんという……」
「左様」
と、昌幸の答えに小さく頷いた幸綱だったが、
「――だが、それだけではちと言葉が足りぬな」
と続ける。
昌幸は、そんな幸綱の言葉に訝しげな表情を浮かべ、「足りぬ……とは?」と訊き返した。
そんな息子に、幸綱は不敵な薄笑みを浮かべて答える。
「ワシやお前が持たねばならぬのは――『どんなに汚く悪辣な策略をも用いて味方に勝ちを齎し、それに対する責を一身に背負う』覚悟よ」




