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軍装と申し出

 微かな鎧擦れの音を立てながら、広間の中に入ってきたのは、腰を絞った緋色威の胴丸を身に纏い、手に刀を携えた女だった。

 櫛で(けず)り、先端を緩やかに纏めた黒髪は滑らかな光沢を湛えて輝き、その肌は雪のように白かった。

 その(かんばせ)も、まるで精緻に彫られた観音菩薩像のようだ。やや切れ長の目に、すらりと伸びた鼻梁。薄く紅を引いた唇はぷっくりとして瑞々しく、何とも言えぬ色気を漂わせている。

 そんな艶やかな美しさを湛えた女が、勇ましげに戦装束を纏っている姿は、ただただ異様と言う他無かった。

 岩村城の臣たちは、女の姿を見ると唖然とした表情を浮かべ、ざわざわとどよめく。

 それは、彼らの主である景任も……否、彼が一番困惑していた。


「お……奥……? そ、その出で立ちは……何だ?」


 彼は、手にしていた扇子を取り落した事にも気付かぬ様子で、狼狽えた様子で女に問いかける。

 と、


「つ……つや殿?」


 信繁の背後からも、当惑混じりの声が上がる。

 声の主は、口をポカンと開けた虎繁だった。

 ふたりの反応を一瞥した信繁は、女武者の素性を察する。


(……そうか。この女性(にょしょう)は……)


 女武者は、そんな面々の様子も意に介さぬ様子で、当然のように景任の斜め後ろまで行くと、その場で膝をつき、静かに両手を床に付けると、信繁に向かって深々と頭を垂れた。


「武田左馬助様、お初にお目にかかります。(わたくし)は、ここ岩村の主・遠山大和守の妻、(つや)と申します」

「おお、貴女が……」


 彼女の凛とした姿と、絹糸を弾いたような涼やかな声に心が微かにざわつくのを感じながら、信繁は鷹揚に頭を下げる。

 と、それまでポカンと口を開けていた景任が、上ずった声で叫んだ。


「お、奥よ! お、お前……一体何だ、その恰好はっ? 武田様の前で無礼であろう!」

「あら? 何が無礼なのでしょうか、お前様?」


 ゆっくりと頭を上げたつやは、景任の叱責の声にも物怖じする様子も見せず、涼しい顔で問い返す。


「武田様や秋山様も、私と同じように甲冑をお召しになっておられるでは御座りませぬか?」

「そ、それは当然であろうが! おふたりは、斎藤方と戦をする為に、ここ東濃の地にお越しになられたのだ! 戦支度をしておられるのは当然だ!」


 景任は、つやの問いかけに、顔を朱に染めながら一喝すると、彼女の甲冑姿をじろりと睨み据え、更に言葉を続けた。


「それに……私が鎧を纏うのならともかく、なぜ妻であり女子(おなご)であるお前の方が鎧を着こんでおるのだ? まさか、お前が戦場に赴こうという訳でも無いだろうに――」

「そのまさかですわ、お前様」

「は――?」


 冗談のつもりで口にした自分の言にあっさりと首を縦に振ったつやを見て、景任は唖然とする。

 つやは、呆気にとられた夫にニコリと微笑みかけ、それから信繁の方に顔を向けて口を開いた。


「武田様の兵は、これから苗木城へ向かわれると伺いましたが?」

「……左様」


 信繁は、つやの問いかけに小さく頷いた。

 そして、探るような目で彼女の顔を見ながら、静かな声で訊き返す。


「それが何か?」

「武田様……畏れながら、お願いがございます」


 信繁の顔をキラキラと輝く大きな瞳で真っ直ぐに見つめ返しながら、つやは静かに切り出した。


「その軍列の端に、私も加えて頂けないでしょうか?」

「な――ッ?」


 つやの申し出に仰天したのは、夫の景任だった。

 血相を変えた彼は、激しく(かぶり)を振りながら、つやに険しい声を浴びせる。


「お、奥よ、いきなり何を言い出すのだ! ぐ、軍列に加わるだと? 本気で申しておるのか、お前は?」

「もちろん、本気です。このような事、冗談であっても口にはいたしませぬ」

「冗談でないのなら、もはや気触れの物言いぞ!」


 景任は、更に激昂しながら、つやの顔を睨みつけた。


「お前が……武芸も身に着けておらず、軍略を修めている訳でも無い女子のお前が武田の軍に加わったところで、何の助勢になろうか? いや、助勢どころか足手纏いになるだけぞ!」

「そのような事、重々承知しております」

「な……?」


 自分の言葉をいともあっさりと肯定したつやに、景任は当惑する。

 そんな彼に、つやは凛とした声で言った。


「確かに、武芸の腕や戦事(いくさごと)では私はお役に立てませぬ。……ですが、他の事でなら、お前様や武田様のお力になれるかと」

「ほ……他の事?」

「ほう……」


 戸惑う景任とは違い、信繁は興味を惹かれた様子で顎髭を撫でる。

 そして、穏やかな目の内に鋭い光を宿しながら、落ち着いた声でつやに訊ねた。


「奥方殿、お聞かせ頂けるかな? その“他の事”が何なのかを」

「はい」


 信繁の問いかけに、つやは小さく頷き、答える。


「それは、織田と武田様のどちらにつくか決めかねている苗木遠山の衆を、武田様方へ引き込む事にございます」

「……!」


 つやの発した答えに、信繁は隻眼を僅かに見開いた。

 他の者たちも、つやの言葉に驚きの声を上げ、広間は騒然とする。

 信繁は、片手を軽く挙げて動揺する彼らを鎮めてから、つやの顔をじっと見つめながら問いかけた。


「それはつまり……奥方殿が直接苗木に出向いて、遠山勘太郎殿を説得する――という事ですかな?」

「はい」


 あっさりと首を縦に振ったつやに、再びさざ波のようなざわめきが起こる。

 と、


「そ、それならば、お前じゃなくても良いであろう!」


 そう、声を荒げながら憤然と立ち上がったのは、景任だった。

 彼は、拳を固く握りしめながら、つやに訴えかけるように言う。


「お前ではなく、私が苗木まで出向けば良い話だ! そのような物々しい恰好をしてまで、お前が危険な地まで赴く事など無い! なに、心配するでない。勘太郎の奴を説き伏せる事など、実の兄の私ならば造作も無い!」

「お前様……」


 景任の言葉を聞いたつやは、その口元に柔らかな笑みを浮かべた。


「ありがとうございます。私の事を気遣って頂いて……。ですが、御心配には及びませぬ」

「し、しかし……!」

「確かに……」


 つやは、なおも心配そうな目を向ける景任の顔をじっと見つめながら、静かに言葉を継ぐ。


「勘太郎殿ひとりだけならば、お前様でも説き伏せられるかと思います。……ですが、それだけでは、苗木はこちらに靡きませぬ。それは、お前様も良くお解りだと思いますが」

「……っ」


 景任は、つやの言葉に表情を変え、無言で唇を噛んだ。

 そんな夫の顔を見つめながら、つやは更に言葉を紡ぐ。


「苗木をこちら側に引き込む為には、勘太郎殿の奥方――(こと)殿を説き伏せねばなりませぬ。そして――それが出来る者は、ここ岩村の地には私しかおりませぬ。……琴殿の叔母である私しか」

 おつやの方は、織田信長の祖父である織田信定の娘として生まれました。つまり、織田信長から見ると叔母にあたりますが、年齢はほとんど変わらなかったと言われています。

 彼女は最初、美濃斎藤家の家臣である日比野清実に嫁ぎますが、永禄4年 (西暦1561年)の森部の戦いで信長と戦い討ち死にしました。

 未亡人となったつやは、その後、東美濃の遠山景任の元に嫁ぎます。

 織田家は、つやの前にも、信長の妹を苗木遠山家当主遠山直廉の元に嫁がせており、つやの輿入れも政略結婚の意味合いが強いものでした。


 夫婦になったつやと景任でしたが、ふたりの間には子どもが出来ぬまま、景任は元亀3年 (西暦1572年)に病没します。

 その為、信長は自分の五男である御坊丸 (後の織田勝長)を岩村城へ送り込み、彼を景任・つや夫妻の養嗣子とさせました。その事からも、信長が遠山氏の事を重要視していた事が窺い知れます。

 ですが、御坊丸はまだ幼少だった為、つやが岩村城の城主として任を務める事になりました。これが有名な、『女城主・おつやの方』誕生の経緯です。

 とはいえ、つやが城主だった期間は短く、同年11月に岩村城が武田軍に包囲されて降伏するまでの僅か三ヶ月の間だけでした。

 その岩村城開城の際、武田方が出した条件の中に従って、つやは武田家の攻将であった秋山虎繁に嫁ぐことになったのです。


 虎繁の妻となったつやでしたが、その生活も長くは続きませんでした。

 天正3年 (西暦1575年)、長篠の戦いで武田軍を打ち破った織田信長は、岩村城を包囲しました。

 城に籠もって数ヶ月耐え抜いた虎繁とつやでしたが、武田方の援軍も来なかった為に兵糧も尽き、遂に虎繁は「城兵の助命」を条件に織田方へ降伏します。

 ですが、信長はその約束を反古にし、岩村城兵を皆殺しにしました。

 そして信長は、敵将の妻となり、自分の息子である御坊丸を人質として甲斐に送ったつやの事も赦しませんでした。

 信長の命により、捕らえたつやと彼女の夫である虎繁は、長良川で逆さ磔の酷刑に処されました。


 つやは、処刑の際に声を上げて嘆き悲しみ「我、女の弱さの為にかくなりしも 叔母をかかる非道の処置をなすは、必ずや因果の報いを受けん」と、甥である信長への恨みの言葉を絶叫しつつ亡くなったと言われています。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 更新お疲れ様です。 [一言] 「武田左馬助様、お初にお目にかかります。私は、ここ岩村の主・遠山大和守の妻、艶と申します」 小説なんかではここで「お艶」となっているものをよく見かけます。プロ…
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