曲者と秤
「――親父殿ッ!」
昌幸は、明日の城攻めに関する軍議を終え、信繁の前から辞した幸綱の背に向け、険しい声で呼びかけた。
その声を聞いて振り返った幸綱は、嬉しそうに笑いながら、気安い仕草で片手を上げてみせる。
「おお、如何した、源五郎? さては、久しぶりに会う父が恋しくなって追いかけてきたのだな?」
「そんな訳があるか! 気色の悪い事を申されるなっ!」
幸綱の軽口に苛立ちながら怒鳴った昌幸は、締まりのない顔でへらへらと笑っている父の顔を睨みつけた。
そして、周りに人がいないのを確認してから、先ほどより潜めた声で父に言う。
「……何故、親父殿と馬場様は、あのような慮外者を連れてきたのですか?」
「慮外者……? ああ、悪五郎 (久々利頼興)殿か」
昌幸の言葉に強い非難の棘が生えているのを感じ取った幸綱は、苦笑を浮かべながら肩を竦めた。
「さっきワシが典厩殿に申し上げた事を聞いておらなんだか? 悪五郎殿の知識を活かす事が、此度の烏峰城攻めを一番早く終わらせる術だと思うたからよ」
「勿論、それは聞き申しましたが……解せませぬ!」
幸綱の答えを聞いた昌幸は、表情をますます険しくさせながら声を荒げる。
「確かに、実際に城を攻め落とした経験のある久々利頼興の力を借りれば、烏峰城は容易く落とせましょうが――それであの男に手柄を……武田家に対して恩を売らせるのは、良い手とは言えぬのではないですか?」
そう問いかけた昌幸は、露骨に顔を顰めた。
「久々利頼興……あの男は、かなりの曲者と見ました。過去の所業から考えても、全てを損得の秤にかけ、傾いた方につく……そのような性根の男かと思われます」
「……」
「恐らく、此度の戦において武田に降ったのも、あやつの秤がこちら側に傾いただけに過ぎますまい。ならば、その秤が我ら以外の方――斎藤や……或いは尾張の織田の方に傾いたら、あの男はそちらの方に擦り寄り、武田家に向けて刃を向けるに違いありませぬ」
そう言った昌幸は、先ほどの信繁との御目見得時に頼興が垣間見せた尊大な態度を思い出し、眉間に皺を寄せる。
「……ですが、そのような者であっても、此度の戦で手柄を立てたなら、褒美を与えねばなりませぬ。城を落とすきっかけとなる働きならば尚更です。ですが……さすがに、あの者の望み通りに烏峰城を与える訳にはいきませぬ。昨日今日味方になったばかりの男に、敵方と境を接する地をまるごと任せるのは危うすぎます」
此度の美濃攻めは、烏峰城を手に入れたところで一段落する予定だ。そうなれば、武田家の版図の最西端は烏峰城と久々利城となる。
それはつまり、この二つの城が武田家の対斎藤家・対織田家における最前線となる事に他ならず、当然ながら、最前線の地を任される将には、目まぐるしく変わる情勢に対して臨機応変に対応できる高い能力が求められるのだ。
北信濃で海津城に配置され、越後の上杉に睨みを利かす役目を任されている“逃げ弾正”香坂虎綱が、その典型であろう。
――だが、その最前線のひとつである久々利城の主であり、更にもうひとつの烏峰城をも望んだ久々利頼興にそこまでの能力があるのかは全くの未知数だ。
その上、先ほどの会談で昌幸が彼に感じた印象が正しければ、そのような重要な拠点をふたつとも任せられた頼興が、斎藤家か織田家の甘い誘いに乗って烏峰城と久々利城を土産にして寝返る可能性は充分に考えられる。
そうなれば、せっかく木曽川東岸まで広げた武田家の版図が大きく縮小する事になってしまう……。
――昌幸は、それを懸念したのだ。
「……正直、拙者は、あの男を久々利城の城主で居続けさせるのにも反対なのです。出来れば、適当な理由を付けて信濃のどこかの小城に移らせ、久々利城には然るべき譜代衆を配すべきだと考えております」
「カッカッカッ! お前はそんなに気に入らなんだか、悪五郎殿の事が!」
それまで黙って昌幸の言葉を聞いていた幸綱が、愉快そうに大笑った。
幸綱の馬鹿笑いに、昌幸はキッと眉を吊り上げる。
「そう言う親父殿は、あの男の事を随分と買っておられますな! さしもの“攻め弾正”殿の眼も頭も、齢を取って随分と鈍られたようで!」
「カッカッカッ! 相変わらず悪口は達者よのう、お前は!」
実の息子に怒るどころか、更に面白がるように爆笑う幸綱。
と――ひとしきり笑った幸綱は、ふと表情を消し、それから口の端を吊り上げて薄笑みながら昌幸の側に寄ると、その耳元にそっと囁いた。
「……ワシが悪五郎殿を買っている? そんな事、ある筈が無いであろうが」
「……は?」
幸綱の囁き声を聞いた昌幸は、思わず目を丸くして、潜めた声で訊き直す。
「それは……どういう意味ですか?」
「どういうも何も、言葉通りの意味じゃ」
怪訝な顔をする昌幸を横目で見ながら、幸綱は答えた。
「青二才のお前如きに言われずとも、重々承知しておるわい」
「は……?」
「さっき、ワシが言うたじゃろ?」
顎に生えた無精髭を抜きながら、幸綱は思わせぶりに言う。
「“悪五郎殿の知識を活かす事が、此度の烏峰城攻めを一番早く終わらせる術”じゃとな。……“悪五郎殿”とは一言も言うておらぬぞ」
「あっ……!」
幸綱の言葉を聞いた瞬間、昌幸がハッと目を見開いた。
「お、親父殿……それは、まさか……?」
「カッカッカッ! ようやく気付いたか。まだまだ父には遠く及ばぬようじゃのう、源五郎よ!」
驚きを隠せぬ様子で自分の顔をまじまじと見る息子を前にして、嬉しそうに呵々大笑する幸綱。
と、彼は不意に真顔になり、昌幸の肩をポンと叩きながら「じゃからな……」と続ける。
「此度の事、お前は何もせず、全てこの父に任せておけ。――良いな」




