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恭順と敵対

 「改めて……ご無事の御着到、祝着至極に存じまする」


 岩村城の本丸御殿で、信繁と対面して座った城主・遠山大和守景任が、深々と頭を下げた。


「これはご丁寧に……かたじけのう御座る」


 円座(わろうだ)の上に腰を下ろした信繁も、微笑を湛えながら鷹揚に頭を下げる。

 そして、景任の背後に並んで座っている彼の家臣たちの緊張に満ちた顔を見回した。

 それから、再び視線を正面に向け、やや強張った景任の顔を見据え、静かに口を開く。


「では、遠山殿……早速だが、本題に入ろう。現在の情勢は、どうなっている?」

「はっ……」


 少し上ずった声で応えた景任に頷き返した信繁は、向かい合うふたりの間に広げられた美濃の地図に目を落とした。

 景任は、腰に差していた扇子を手に取ると、地図の一点――美濃の東南部辺りを指す。


「ここ岩村城の位置は、こちらに御座います」

「うむ」


 景任の言葉に、信繁は短く頷いた。

 それを上目でちらりと見た景任は、岩村の位置を示した扇子をくるりと回して、地図の上に円を描く。


「我らをはじめとした、遠山一族全体の勢力圏はこのくらいです。幸い、七つの支族のほとんどが、私と同様に武田様へ帰順する意思を示しております」

「ほとんど……という事は」


 景任の声に口を挟んできたのは、信繁の背後に控えていた秋山虎繁だった。

 彼は、鋭い目で景任に向けながら、険しい声で尋ねる。


武田家(われら)に抗しようとする支族も居るという事ですかな?」

「い、いえ! 抗すると決まった訳では無いのですが……」


 虎繁の鋭い眼光にたじろぎながら、景任は慌てて(かぶり)を振り、それから地図に記された『岩村』の文字の少し上を扇子で指した。


「ただ……ここだけが、未だに旗幟をはっきりとさせておりませぬ」

「遠山勘太郎殿、か……」


 景任が扇子で指し示した『苗木』という地名に、虎繁が顔を顰める。

 遠山勘太郎 (諱は直廉(なおかど))は、ここ岩村城から北へ六里 (約24キロメートル)ほどいったところにある苗木城 (現在の岐阜県中津川市)の城主であり、遠山七支族の一つである苗木遠山氏の当主である。

 先代の岩村遠山氏の総領・遠山景前(かげさき)の三男であり、現岩村遠山氏当主の景任の実弟にあたる。

 紆余曲折の末に苗木遠山氏の家督を継いだ直廉は、岩村遠山氏を継いだ景任と同様に、武田家と良好な関係を築いていたはずだったのだが……。

 景任と同様、直廉の為人(ひととなり)も良く知る虎繁は、憮然とした表情を浮かべながら腕を組む。


「まさか……勘太郎殿は、織田方につくつもりなのか?」

「それは……まだ、何とも……」


 虎繁の呟きに、景任も曖昧に言葉を濁した。


「ただ……数日前から、苗木が戦支度を始めているとの報も伝わっております。もちろん、武田方へ加勢する為の準備である可能性も御座いますが……」

「籠城の備えである可能性も捨てきれぬ……か」

「……はい」


 虎繁の言葉に、景任はぎこちなく頷く。

 それを見た虎繁は、腕を組んだまま瞑目した。


「やはり……奥方殿の――」


 その声に、景任の片眉がピクリと上がり、彼の背後に控えた家臣たちの表情が変わる。

 ――と、その時、信繁が少しだけ顔を後ろに向け、虎繁の顔を一瞥した。


「――伯耆」

「あ……こ、これは、失礼いたしました」


 信繁にやんわりと目で窘められた虎繁は、慌てて景任と彼の家臣たちに向けて頭を下げる。

 ――遠山直廉が五年前に娶った妻は、尾張の織田信秀の娘であり、現織田家当主・織田上総介信長の妹であった。

 つまり、信長と直廉は義理の兄弟という事になる。

 虎繁はその事を指して、直廉の織田家への異心を疑ったのだが、信長の叔母を娶っている景任も同じ立場である事に信繁の一声で思い至り、岩村主従に己の無礼を詫びたのだ。

 彼の詫びに対して小さく会釈を返した景任は、『止めよ』と、腰を浮かしかけた家臣たちに手を振る。それを見て、騒然としかけた家臣たちも冷静さを取り戻し、元のように座り直した。

 落ち着きを取り戻した面々の顔を見回した信繁は、目の前に広げられた地図に目を落としながら、顎髭を指で撫でる。

 思案する時の彼の癖だ。


「ふむ……そうか……なるほど……」


 彼はそう呟きながら、地図のあちこちに目を配る。そして、最後に苗木城へ目を止めると、小さく頷いた。


「やはり……今後を考えると、苗木をこのままにしておく訳にはいかぬな」

「左様ですな……」


 信繁の言葉に、虎繁も同意する。


「本格的に斎藤領に入る前に、勘太郎殿――苗木遠山の旗幟を鮮明にさせねばなりませぬな。苗木は要衝の地。他の六支族が我ら方についたとしても、この地を有耶無耶にしたままでは、思わぬところで足を掬われかねませぬ」

「そうだな……」


 虎繁の注進に、信繁は大きく頷いた。

 そして、腰を浮かして身を乗り出すと、地図の『岩村』という文字を指さす。


「ならば……ここ、岩村で兵を二手に分けよう。一手は、西に進み、明知 (現在の岐阜県恵那市明智町)を経て多治見を目指す。そして、もう一手は――」

「――北上して苗木城へ……ですな」

「ああ」


 信繁は、自分の意図を先読みした虎繁の言葉に首肯した。


「苗木城で遠山勘太郎殿に直接会って、我らに味方するつもりなのかを直接問い質す事にしよう。その後は、木曽川伝いに西進し、可児を目指す……どうだ?」

「……もしも、苗木遠山が、我らへの帰順を拒んだ場合は?」

「……無論、その時は攻め落とす」


 虎繁の問いに対し、地図に目を落としたまま、信繁はきっぱりと答えた。

 そのやり取りを聞いていた景任と家臣たちは、僅かに表情を強張らせて息を呑む。

 と、信繁は顔を上げ、景任の顔を真っ直ぐに見ながら言った。


「ついては、遠山殿にも御同道をお願いしたいのだが、宜しいだろうか? 勘太郎殿も、実の兄である貴殿が居られれば、我らに対して余計な警戒をする事も無いであろう」

「あ……はい。畏まって御座ります」


 すぐさま頷いた景任は、真っ直ぐな目で信繁の顔を見つめながら、言葉を継ぐ。


「……むしろ、武田様のお言葉が無くとも、私から申し出るつもりでした。必ずや、私が勘太郎めに――」

「お待ち下さい、お前様」


 景任の言葉は、唐突に上がった女の声によって遮られた。


「――!」


 その鈴を転がしたような美しい声に、信繁たちは驚きの表情を浮かべ、声が聞こえてきた方向に顔を向ける。

 そして、皆一様に息を呑んだ。

 彼らの目に映ったのは――華奢な体に胴丸を身に纏う、見目麗しい女武者の姿だった。

 遠山景任は、東濃の遠山七支族 (遠山七頭)の一つである岩村遠山家最後の当主です。

 遠山景前の嫡男として生まれた彼は、弘治2年 (西暦1557年)に父景前が死亡した後、岩村遠山家を継ぎます。ですが、彼がまだ若年だった為、他の支族にそれを良しとしない者、この機会に岩村遠山家に取って代わろうとする者が現れ、政情が不安定になりました。

 その際に東美濃に兵を派遣し、景任の家督相続の調停役となり、彼の強力な後ろ盾となったのが、甲斐武田家でした。

 その後、遠山氏は武田家に半臣従していましたが、尾張織田家との縁も強く、時期は不明ですが、景任が織田信長の叔母であるおつやの方を娶ったり、景任の弟 (景前三男)の直廉が信長の妹を娶るなどで繋がりを強くし、永禄の頃には武田と織田に両属している状態になっていたようです。

 遠山氏は、武田と織田の両家の関係が良好だったうちは安泰でしたが、甲尾同盟が崩れて両家が敵対するようになると、遠山家の両属関係も変化していきます。

 永禄11年 (西暦1568年)に、武田信玄の命によって飛騨に侵攻した遠山直廉が戦の際に受けた傷が原因で死亡したのがきっかけで、遠山氏のほとんどが武田を離れて織田家に属しましたが、唯一岩村遠山氏だけが武田家と織田家への両属状態を続けました。

 その後、景任は元亀3年 (西暦1572年)に病没します。

 その際、信長は自分の息子御坊丸 (後の織田勝長)を岩村城に送り込み、子どもがいなかった景任の跡を継がせようとしますが、そうはさせじと、信玄は秋山虎繁を送って岩村城を包囲させました。

 籠城した岩村方は、景任の未亡人で会ったおつやの方が虎繁の妻となる事を条件に降伏します。

 そして、降伏後の岩村城には虎繁が入り、養嗣子となっていた御坊丸が人質として甲斐府中に送られた事によって、岩村遠山氏は完全に断絶したのでした。

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