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狙撃と運

 篠つく雨を劈くような渇いた銃声が上がった刹那、騎乗した信繁の身体がぐらりと揺らいだ。


「て――典厩様ッ!」


 驚いて棹立ちしかける馬の銜を咄嗟に掴んで抑えた郎従のひとりがそれに気付き、悲鳴に近い絶叫を上げる。

 ――だが、


「――騒ぐな! 案ずる事は無い!」


 一瞬、馬上で体勢を崩しかけた信繁だったが、すぐに離しかけた手綱をしっかりと握り直すと、心配する周囲の者たちに向け言い放った。


「兜の(しころ)を掠めただけだ!」


 そう言いながら、彼は首を傾けながら被っていた兜の後ろを指さす。

 彼の言う通り、兜の錣の半分ほどが吹き飛んでいた。

 だが、それを見た側付きの騎馬武者たちは顔色を変える。


「狙撃じゃ! 典厩様をお守りせよ!」

「どこじゃっ? 敵は、どこから撃ってきたのだ?」


 口々にそう叫びながら、自らの身体を楯にして信繁を守ろうと密集し、彼の周りをがっちりと固めた。

 ――と、


 “ダ――ンッ!”


「ぐあっ!」


 再び銃声が上がり、信繁の左に居た騎馬武者が、首筋から夥しい血を噴き出しながら落馬する。彼の首は、銃弾の直撃を受けて半分千切れていた。


「か、固まれ! 皆で壁を作って、典厩様の身を狙わせるな!」


 興奮して嘶く馬を懸命に御しながら、側付きの兵たちは信繁の周りに密集する。

 同時に、狙撃手がどこに潜んでいるのかを確認しようと、血眼で周囲を見回した。

 と、ひとりの騎馬武者が、東に広がるなだらかな山裾を指さす。


「居た! あそこじゃ! あの藪の中に何者かが身を潜めておる!」

「っ!」


 彼の叫びを聞きつけた他の兵たちの目が、一斉に指を差された先に向けられた――次の瞬間、


 “ダ――ンッ!”


「がぁっ……!」


 間髪を入れずに三発目の銃声が上がり、藪を指さした武者が眉間を正確に撃ち抜かれ、そのままぬかるんだ地面の上に転がった。

 それと同時に、藪がガサガサと音を立てて揺れ、背中を向けて一目散に逃げ出すふたりの男の姿が露わになる。


「あいつかッ!」

「おのれっ! 舐めおって……! 追え! 生かして帰すなッ!」


 男のひとりが、筒先から細い煙がたなびく火縄銃を担いでいるのを見た武田兵たちは、殺気を漲らせながら、馬に鞭を当てて男たちを追わんとした。

 ……だが、


「追わんで良い! そのまま捨て置け!」


 取れかけた兜の錣を千切り取って投げ捨てた信繁が、厳しい声で兵たちを一喝する。

 そして、男たちが再び藪の中に紛れたのを見届けてから、小さく首を横に振った。


「あの身のこなし……恐らく、相当山登りに長けた者だ。そのような者を、今から追ったところで捕らえる事は至難の業だ。それに、居場所が露見した以上、もうあやつらは我らに何も出来ぬ。なれば、捨て置いて構わぬであろう」


 そう言うと、彼はまっすぐ前を向き、雨霞の向こうで微かに見える斎藤軍の陣に鋭い目を向ける。


「――そんな事より、今は目の前の斎藤軍を討ち払う事に専念せよ! 良いなッ!」

「「「……おうっ!」」」


 武田の兵たちは、信繁の檄に対し、篠つく雨が立てる轟音にも負けぬほどの大きな喊声で応えた。

 大地を揺るがすほどの喊声に力強く頷いた信繁は、右手の采配をグッと握りしめ、斎藤軍に向けて大きく振り下ろす。


「――行くぞ! 全軍、かかれぇ――っ!」

「「「「「おおおおおお――っ!」」」」」


 信繁の掛け声に応じた武田軍は、万雷の如き雄叫びを上げながら、待ち構える斎藤軍へ向けて攻めかかっていくのだった――。


 ◆ ◆ ◆ ◆


 「ま、待たれよっ!」


 柿渋色の粗末な野良着を纏った中年男は、ずぶ濡れになって山裾の藪を掻き分けるようにして駆けながら、自分の前を走る男に上ずった声で叫んだ。


「ちょ……ちょっと待ってくれ! も、もう少しゆっくりと……」

「何を悠長な事を。武田兵に捕まって逆さ磔にでもなりたいのか?」


 重い火縄銃を肩に担いでいるにもかかわらず、俊敏な身のこなしで中年男の前を走っていた坊主頭の若い男が、振り返りながら呆れ声を上げる。

 そんな彼の問いかけに、中年男は些か憮然としつつ答える。


「そ……ぜえ……それは……ゼエ……御免被るが……ゼエ……じゃが……山育ちのお主とは違って、ゼエ……ワシは……」

「やれやれ……」


 すっかり息が上がってしまっているらしい中年男の様子に溜息を吐いた若い男は、脚を止めて周囲に目を配り、耳を澄ませた。

 そして、


「……善し」


 自分たちに迫る物音が聞こえない事を確認してから、ようやく足を止める。


「どうやら……追っては来なかったようだな」


 そう独り言ちた若い男は、傍らの岩に腰を下ろすと、火縄銃を太股で挟み、腰に吊り下げた竹筒の水筒を手に取った。

 そして、栓を抜いて、中に入っていた水を一口含む。

 と、


「ど……どうするのじゃ、杉谷殿?」


 立ったまま膝に手をつき、大きく肩を上下させながら、中年男が咎めるように訊ねてきた。

 男の問いかけに、杉谷と呼ばれた若い男は胡乱げな目を向けながら訊き返す。


「どうするとは、何がだ?」

「な、何がって……き、決まっておろうが!」


 とぼける杉谷に苛立ちと焦燥を露わにしながら、中年男が声を荒げた。


「さ、斎藤家から請けた、敵の総大将を撃ち取るという任務(しごと)を、まんまとしくじってしまったではないか! 天下に名高い“遠撃ちの善住坊”ともあろう者が、三発も撃って仕留められんとは……!」


 そう嘆きながら、中年男は激しい雨を降らす黒黒も恨めしげに見上げる。


「まったく……この忌々しい大雨さえ降らなければ、ワシらは一年遊んで暮らせるほどの金子(きんす)を得る事が出来たというのに……」

「雨のせいではない」


 中年男の言葉に、杉谷善住坊は大きく(かぶり)を振った。

 そんな彼に、中年男は険しい目を向ける。


「……では、単純にお主の腕が悪かったからか?」

「お前さんの頭で試してみるか?」

「あ、いや……じょ、冗談じゃ……」


 真顔の善住坊に火縄銃の銃口を向けられた中年男は、慌てて首を左右に振った。

 顔を蒼白にした中年男を鼻で嗤った善住坊は、銃口を下げながら、独り言のように呟く。


「仕方あるまい。此度は、あの武田信繁とかいう男の運が強かったのだ」


 そう言いながら、彼は軽く目を瞑り、先ほどの狙撃の瞬間を思い返した。


「……あの時、あやつが馬首を翻さねば、オレの弾丸は確実に奴の首筋を撃ち抜いていたはずだ。あの瞬間、あの男の運がオレの運を上回った……それだけの事よ」

「ま……まあ、それはそれとして……」


 苦笑すら浮かべながらしみじみと語る善住坊に呆れ混じりの目を向けながら、中年男は「これから、どうするのだ?」と問いを重ねる。


「いったん退いてから、再びあの総大将を狙撃する機会を窺うか? それとも、このまま仕事を投げ出して逃げるか?」

「逃げる」


 善住坊は、中年男の問いかけに即答した。


「此度の事で、武田方は総大将の周りを固めるであろう。もう狙撃できる機会など訪れまい。ならば、早いうちに見切りをつけるのが上策。唐の国に伝わる警句に『君子危うきに近寄らず』という言葉があってだな……」

「じゃが……それでは、斎藤家から貰える金子が……」

「金なら、前金でいくらか貰っておる。今回の報酬はそれだけで善しとするさ」


 そう言いながら立ち上がった善住坊は、どことなく不満顔の中年男の肩を軽く叩き、言葉を継ぐ。


「まあ、そうがっかりするな。他にも仕事はいくらでもあるだろう」


 中年男に慰めるような言葉をかけながら、彼は空を見上げた。

 そして、降りしきる雨の音と、それに混じる戦場の喧騒を聞きながら、口元に不敵な薄笑みを浮かべる。


「――何せ、今は血で血を洗う戦国乱世のただ中だからな」

 杉谷善住坊とは、通称『戦国時代のゴルゴ13』と(一部で)名高い人物です。


 彼の出自は謎に包まれており、忍者説・城主説・猟師説・雑賀衆説など、様々あります。唯一確かだと言えるのは、彼が鉄砲の名人だったという事だけです。

 彼の名が知られているのは、元亀元年 (西暦1570年)の信長狙撃事件の下手人だからです。

 善住坊は、岐阜城へ帰ろうとしている織田信長を狙い、二発の銃弾を放ちますが、弾は信長の身体を掠めるにとどまり、致命傷を与える事は出来ませんでした。

 暗殺に失敗した善住坊は逃亡し、近江国高島郡堀川村の阿弥陀寺に潜みますが、自身の命を狙われて怒り心頭の信長による徹底的な追及によって捕らえられます。

 捕らえられた善住坊は、過酷な取り調べを受けた後に、生きたまま身体を地中に埋められ、頭だけを出した状態にされた上で首を鋸で切断されるという惨刑「鋸挽き」に処されたと伝わっています。

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