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待機と機

 「……善し」


 斎藤軍の前に設けられていた馬防ぎの柵が、地響きを立てながら次々と薙ぎ倒される様を馬上で見届けた信繁は、満足げに短く呟いた。

 その傍らに控えていた男が、野趣溢れた髭面を綻ばせながら、彼に声をかける。


「金山衆が、見事に御役目を果たしたように御座りますな」

「そのようだな」


 朱漆塗りの具足を身に纏った男の声に小さく頷いた信繁は、今度は逆に訊き返した。


「……()()()()()()敵陣内に侵入した諏訪衆を助けに向かった保科隊は、如何しておる、右馬助?」

「つい今しがた、その保科隊から一報が届きました」


 信繁の問いかけに、髭面の男――武田軍の主力である中備の一角を担う浅利衆を率いる武田家譜代衆・浅利右馬助信種は、少し表情を曇らせながら答える。


「……()()()()()()攻め入った諏訪衆どもの過半は、敵陣内に仕込まれた罠に嵌って討ち死したとの事。――ですが、生き残っていた者どもは、保科隊の助けを借りて、何とか敵陣の外に逃げおおせたように御座ります」

「そうか……」


 信種の報告を聞いた信繁は、表情を曇らせた。

 そして、重い口を開いて、更に問いを重ねる。


「……その中に、小原丹後はいるのか?」

「いえ……先ほどの使番の報告を聞いた限りでは、小原に関しては何も……」

「――保科は?」


 気まずげに口ごもる信種に、信繁はそれ以上小原継忠の事を尋ねるのは止め、話を変えた。


「保科弾正は、無事なのか?」

「はっ」


 信繁の問いかけに、信種は大きく頷く。


「さすが“槍弾正”といったところでしょうか。保科隊は存分に暴れ回り、敵陣をさんざんに撹乱しておるように御座います」


 そう言った信種だったが、少し表情を心配げに眉を顰め、「されど……」と続けた。


「今、保科弾正が率いている兵は、ごく少数。如何に彼奴が“槍弾正”と呼び称えられる勇猛な男であったとしても、あまり長く敵陣の中で孤立させ続けるのは……」

「……無論、分かっておる」


 信種の言葉に、信繁は思案する様子で顎髭を指の腹で擦る。

 そんな彼の顔を見つめながら、信種は意気込みが籠もった声で言った。


「なれば――次はいよいよ、我ら浅利衆の出番ですなっ?」

「……」


 だが、信繁は、彼の問いかけに答える代わりに、ちらりと頭上を仰ぐ。

 そして、真っ黒な雲に覆われた空に目を凝らすと、小さく(かぶり)を振った。


「……いや、それにはまだ早い。今暫し待て」

「……今暫しとは、一体何時(いつ)まででありましょうか、左馬助様?」


 信繁の答えを聞いた髭面の男は、攻撃の許可が下りなかった事に対してあからさまに不満げな表情を浮かべながら、険しい声で訴えかける。


「先ほども申し上げた通り、いつまでも保科弾正たちを敵中に留め置いたままには出来ませぬ! 万が一、保科弾正が討ち取られでもしたら、我が軍の士気が――」

「分かっておる。皆まで申すな」


 興奮して声を荒げる信種を宥めるように、信繁は言った。


「当然、弾正たちを見殺しにするような真似をするつもりなど無い。……だが、今すぐに動いては、敵の反撃によって、こちらも少なからぬ被害を被りかねぬ」


 そう言いながら、彼はおもむろに指を伸ばし、もう巳の刻 (午前十時)をとうに過ぎているにもかかわらず、未だ地上に早暁のような薄暗さを(もたら)している曇天を指さす。


「――だから、儂は待っているのだ。()()()()()のを、な」

「“機”……に御座いますか?」


 信繁の言葉の意味を測りかねた信種は、訝しげに眉を顰めた。


「それで……その“機”とやらが熟するのは、一体いつの事になるのでしょうや?」

「なに……おそらく、もうじきだ」


 信種の問いかけに、信繁は再び空へ目を向ける。


「昌幸の見立てならば――」


 そう言いかけたところで、彼はハッとした表情を浮かべた。

 彼の表情の変化に気付いた信種も、怪訝な顔をしながら、彼に倣うように上を見上げる。

 ――そして、黒雲に覆われた空の上から大きな雨粒がポツポツといくつも落ちてくるのを見て、信繁が何を言わんとしていたのかを瞬時に悟った。


「なるほど……! これが、左馬助様が申されていた“機”という訳ですな……!」

「そういう事だ」


 信種の言葉に、信繁はニヤリと微笑(わら)ってみせる。


「儂は、ずっと(これ)を待っておったのだ。火縄を湿らせてしまう雨は、鉄砲にとって天敵。どれほど鉄砲が強力な威力があろうとも、強い雨の中では発射率も命中率も格段に下がる。そうなれば、もはや恐るるに足らずだ」

「なるほど……雨で鉄砲が役に立たなくなるのを待ってから、我らが轡を並べて一気に敵陣へ攻め寄せる――初めから、そういう算段だったのですな」


 信繁の言葉を聞いた信種は、思わず感嘆の声を上げた。


「さすがは左馬助様。この時刻に雨が降る事をご存知だったとは……! まるで、いつぞやの勘助のようですな」

「いや、儂ではない」


 信種の賛辞に苦笑しながら、信繁は(かぶり)を振り、みるみるうちに激しさを増していく雨へ目を遣る。


「ここまで正確に雨が降る事を予測し、此度の策を儂に授けたのは、昌幸よ」

「喜兵衛ですか……」


 信繁の言葉に、信種は少し驚いた様子で目を丸くした。

 そんな彼に頷き返しながら、信繁は言葉を継ぐ。


「『勘助のよう』……か。確かに、そうかもしれぬな」

「左馬助様……」

「おっと、あいつには言うなよ。あまり褒めそやして、慢心でもされたら叶わぬ」


 そう信種に釘を刺した信繁は、腰に差した采配を抜きながら、少し顰めた声で言った。


「……あやつは、いずれはあの勘助をも凌ぐ知謀の才を持ち得るであろう男だ。この程度で慢心をして、成長する事を止めてしまうのは惜しいからな」


 そう言うと、彼は信種の顔を真っ直ぐに見据え、激しい雨音に負けぬように張り上げた声で命じる。


「――よし、機は熟した! これより、全軍を挙げて敵陣へ向かう! ――総掛かりだ!」

 浅利信種は、甲斐武田氏の支族である浅利氏の当主で、信玄の元では騎馬百二十騎を任されていた譜代家老衆でした。

 彼が率いる隊は、甲冑を赤で揃え、信濃攻略の際に活躍したと伝えられています。

 史料で最初に名が見えるのは、永禄九年 (西暦1566年)閏八月の三枝昌貞らの起請文で、奉行として信種の名が記されています。

 彼は、永禄十二年 (西暦1569年)の三増峠での戦いで、峠の上に布陣していた北条軍からの攻撃を受けた際に、飛んできた銃弾を受けて討ち死にしたと伝わっております。


 ちなみに、父である浅利虎在が武田信虎の妹を娶っている事から、信種と信玄が従兄弟の関係にあった可能性もあります。

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