抜け駆けと銃声
「ええいっ! 何をしておるのだ、小原丹後めが!」
使番の口から、小原丹後守が抜け駆けをして、敵に突撃をかけた事を知った保科正俊は、憤激を露わにしながら歯噛みした。
「むう……」
一方の信繁も、思わず渋い顔をして、手綱を握る手に力を込める。
「――典厩様!」
そんな彼へ、正俊が覚悟を極めた表情を浮かべながら申し出た。
「こうなったら致し方御座らぬ! それがしは、急ぎ先備に戻り、先駆けした諏訪衆どもに続いて敵に攻めかかりまする! 出撃の御許可を!」
「……いや、待て」
「は?」
すぐにでも先備に向かおうと馬首を返しかけた正俊だったが、信繁に制止され、訝しげに眉を顰める。
そんな彼の顔を見据えながら、信繁は小さく首を横に振った。
「攻めかかる事はならぬ。先駆けした諏訪衆を引き止めたら、共に一度退き戻り、元のように陣列を整えよ」
「ひ……退くのでござるか? 敵陣を前にして?」
「そうだ」
信繁は、不満げな声を上げる正俊に、有無を言わさぬように頷いてみせる。
それに対し、正俊は納得し難い様子で口を開こうとするが、
「保科様」
昌幸が、ふたりの間に割って入るように声をかけた。
彼は、険しい表情を浮かべる正俊に、落ち着いた口調で言う。
「猛るお気持ちは分かりますが、今はまだ機が熟しておりませぬ。今暫し、時が必要かと……」
「……機が熟しておらぬだと?」
正俊は、昌幸の言葉に首を傾げた。
「何じゃ? その“機”というのは?」
「――昌幸」
戸惑う正俊の声を遮るように、信繁が昌幸に問いかける。
「機が熟するまで……どのくらいかかると見る?」
「恐らく……」
信繁の問いに頷いた昌幸は、ふと分厚い黒雲が覆う空を見上げた。
そして、ゆっくりと空全体に目を配りながら答える。
「あと……一刻……いや、半刻もせぬうちには。……申し訳ございませぬ。佐助ならば、もっとはっきりと刻限をお答えできるかと思うのですが」
「いや、気にするな」
信繁は、詫びる昌幸へ鷹揚に首を振る。
一方、そんなふたりのやり取りを聞きながら空を見上げた正俊も、得たりと頷いた。
「なるほど……“機”とは、そういう事か」
そう呟いた彼は、手綱を繰りながら、信繁に小さく頭を下げる。
「畏まり申した。御下知に従い、決して深入りはせず、諏訪衆どもの首根っこを掴んで自陣へと連れ戻しまする!」
「頼む! ――だが、くれぐれも無理はするなよ」
信繁は、正俊に大きく頷きながら、気遣いの言葉をかけた。
それに対して、「承知!」と短く応えた正俊は、勢いよく馬の腹を蹴り、先備に向けて駆け去っていく。
正俊の後ろ姿を見送った信繁は、昌幸の方に顔を向け、鋭い目をして命じた。
「昌幸。先ほど命じた通り、早急に大井三河守の隊を呼び出すのだ」
「もう、既に後備へ伝令を送っております」
信繁の命を受けた昌幸はそう答えると、したり顔をしてみせる。
そんな彼の得意顔に思わず苦笑した信繁だったが、前方で上がる地響きに混じり始める銃声を耳にすると苦々しげに唇を噛んだ。
「丹後守……功を焦りおったか」
◆ ◆ ◆ ◆
一方――、
「駆けよ! 駆けよ! 我ら諏訪衆の精強さを、美濃侍どもに見せつけてやるのだ!」
武田軍の先備から抜け出し、前面に展開する斎藤軍の陣に向け、濛々と土煙を上げながら突進する諏訪衆の一群の中央で、小原丹後守継忠は涸れよとばかりに声を張り上げる。
斎藤軍の設けた柵まで三十間 (約六十メートル)を切ろうかというあたりで、彼は馬を駆りながら素早く周囲を見回した。
(……俺に従ったのは、五十……いや、せいぜい四十騎ほどか)
周囲を駆ける味方の数をざっと数えた継忠は、思わず舌を打つ。
もちろん、継忠自身の手勢である二十騎は残らず彼の命に従っているが、他の諏訪衆で同心した者が思いの外少なかった。
これでは、騎馬武者衆に付き従う郎従たちや雑兵どもを加えても、総勢は五百にも届かないだろう。
(まったく……諏訪衆の面汚しどもめが!)
継忠は、自分の下知に従わず、先備に残った他の諏訪衆を心中で軽侮するが、すぐに気を取り直す。
「……まあ良い。手勢が少なければ少ない程、それだけ首尾よく一番槍を果たした際の誉れが上がるというもの」
そう嘯いた継忠は、手にした手槍で自分たちの進路を妨げるように設けられた柵を指しながら、声を張り上げた。
「者ども! あの、太縄を渡しただけの部分に向かえ! いち早く辿り着いた者は、後の者が通れるよう、刀で縄を切り落と――」
彼の指示は、斎藤軍の前方に黒煙が濛々と上がると同時に上がった、百雷の如き轟音によって掻き消された。
諏訪衆の騎馬の何頭かが、不意に沸き上がった爆音に驚き、激しく嘶きながらその場で棹立ちとなる。
継忠は、動揺しかける乗騎を手綱で巧みに操って宥めながら、周囲の者たちに向かって叫んだ。
「怯むな! この距離ではやすやすとは当たらぬし、当たってもそうそう死にはせぬ!」
彼の言う通り、種子島――火縄銃の有効射程は、最大でも半町ほど (約五十メートル)である。この距離では、激しく動いている騎馬を狙い撃つ事は至難の業だし、よしんば命中したとしても、よっぽど当たり所が悪くなければ致命傷には至らない。
現に、今の一斉射で落馬した数人も、地面に落ちてからすぐに身を起こそうとしている。
彼は、夥しい硝煙が漂う斎藤軍の陣を指し、大音声で指示を伝えた。
「発射時の硝煙で敵の視界が閉ざされた今が好機じゃ! 大人数で固まらず、数騎ごとに分かれ、蛇行しつつ敵陣に近付くのだ!」
「ウオオオォォォ――ッ!」
応えるように雄叫びを上げた諏訪衆の面々は、馬の横腹を蹴り、彼の指示に従って互いの距離を広げながら斎藤陣へ向かって疾駆する。
先頭を走る騎馬が柵まで十間 (約二十メートル)まで接近した時、再び銃声が鳴り響いた。だが、射撃準備が充分に整っていないのか、単純に焦りが生じているのか、上がった銃声はまばらだった。
それでも、数騎が銃弾の直撃を受け、断末魔の声を上げる間もなく落馬する。だが、ほとんどの兵たちはそのまま柵の手前まで辿り着く。
「縄を切れ!」
騎馬武者たちが、柵の向こう側で右往左往する斎藤兵に向けて手槍を振るいながら出した指示を受け、彼に付いてきた徒歩の郎従が浅い空堀を飛び越え、柵へと取り付いた。
そして、腰に差していた刀を抜くと、地面に打ち込んだ杭と杭の間に渡されただけの太縄を断ち切る。
「行くぞ!」
それを見た騎馬武者たちが一斉に馬首を返し、騎乗したまま空堀を一飛びで跳び越えると、だらりと垂れ下がった太縄の間を素早く駆け抜けた。
柵の内側に入り込まれた斎藤兵たちは、一斉に背を向け、まるで蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
「雑魚には構うな! 狙うは名のある兜首だ!」
諏訪衆たちは、口々にそう叫びながら、逃げ回る斎藤軍の雑兵たちには目もくれず、一気に陣の奥を目指そうとした。
――その時、
「――ヒヒィィンッ!」
「う、うわあああっ!」
先頭を疾駆していた馬が、甲高い嘶きを上げながら、突然前のめりに倒れ、その背に乗っていた武者が投げ出されるように落馬する。
「ぐ、ぐぅ……!」
不意の事で受け身を取る間もなく地面に激突した武者は、身体を走る衝撃と激痛に唸り声を上げながらのたうち回った。
その視界に、彼とその愛馬と同じように転倒して苦しげなうめき声をあげている同輩たちの姿が映る。
「な……んだ? 何が……起こっ……」
目の前の奇妙な光景に、武者は当惑と恐怖を感じながら、自分の周囲を見回した。
そして、奇妙なものを見つける。
「こ……これは……?」
それは、地面から十寸 (約三十センチメートル)ほど頭を出して打ち込まれた杭と、その間に渡された綱だった。
一瞬当惑する武者だったが、すぐにその用途が何なのかを悟る。
「こ、これはまさか……儂らの馬の脚を引っ掛けて転ばす為の――罠?」
――次の瞬間、
恐怖で顔を歪ませた彼の問いに答えたのは、彼らに向けて至近距離から一斉に放たれた火縄銃の銃声だった――。
戦国時代当時、戦場で使われていた火縄銃の飛距離は、2005年に行われた実験の結果から、最大で500メートルほどだったとされています。
といっても、この数字は弾が飛ぶ距離でしかなく、敵を殺傷せしめる有効射程距離は50メートルから100メートルほどのようです。
火縄銃の威力はバカにできたものでは無く、日本前装銃射撃連盟が行った実験によると、距離50mから撃った際に厚さ1mmの鉄板を貫通させたとの事です。また、2枚重ねにした2mmの厚さでは貫通はしなかったものの、内部の鉄板がめくれ返ったとの事で、たとえ敵が鉄製の甲冑を身に着けていたとしても殺傷が可能だった事を示しています。
ですが、それはあくまで静止している標的に対しての結果であり、敵が常に動いている戦場の状況下で狙いを定めて命中させるのは、よっぽどの達人でも無ければ至難の業だったと思われます。
また、火薬を籠めて発射するまでのプロセスが煩雑だった事や、密集して斉射した際に発生する硝煙によって視界を妨げられる事、肝心の火薬が高価で、地域によっては入手も困難……など、運用に関するデメリットも少なくなかった事から、弓に代わる主力的な存在になるにはしばらく時間がかかりました。




