遠山と織田
信繁が率いる武田軍は、飯田城を出た後、街道に沿って南下した。
駒場から浪合 (現在の長野県下伊那郡阿智村)を経て国境を越えて美濃の恵那郡に入った武田軍は、飯田を出て三日後に岩村城 (現在の岐阜県恵那郡岩村町)まで至る。
現在の東濃一帯を治めるのは、源平の合戦で源氏方として活躍した加藤左衛門少尉景廉が、美濃国恵那郡遠山荘 (現在の岐阜県恵那市周辺)を褒美として授かった事から始まる遠山氏である。
遠山氏は、鎌倉時代以降にいくつかの氏族に分かれ、長く東美濃を治めており、過去には室町幕府の将軍奉公衆を務める者を輩出するほどの、美濃においては斯波氏に並ぶ名族だった。
だが、天文年間以降、中美濃に勃興した斎藤氏・信濃に勢力を伸ばしてきた甲斐武田氏・三河を掌中に収めた駿河今川氏――そして、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取って以降、みるみる勢力を伸ばしてきた尾張の織田氏らの圧力を受け、その統治は大きく揺らいでいた。
そういったいくつもの外圧に晒された遠山氏の各支族は、各々の地理的状況に応じた独自の対応を迫られる事になる。
美濃岩村城は、そんな遠山氏の一氏族である岩村遠山氏の当主・遠山景任の居城だった。
岩村遠山氏は、天文二十三年 (西暦1554年)に武田晴信に居城である岩村城を攻められた時に降伏し、武田家に半従属していたが、その後の情勢の変化によって、一時は斎藤氏に従ったりもしていた。
更に、近年においては尾張の織田家とも誼を通じており、当主の遠山景任は、数年前に織田信長の叔母であるおつやの方を嫁に迎えるなど、積極的な関係構築を行っていた。
それもあって、永禄年間に入ってからの岩村遠山氏は、武田と織田の両方に属す、いわゆる両属関係を築いていたのだ。
現代の感覚では、同時に別々の主に仕える事を善しとせず、『尻軽』『二股膏薬』と軽んじる傾向がある。
だが、戦国時代当時、特に国境に位置する土地に住む国人衆や豪族といった勢力の中では、そういった立ち位置を取る者は珍しくなかった。
考えてみれば当然の話だ。
ちょっとした選択の誤りで、どんな名家であっても容易く滅ぶ乱世である。生き残る為には、綺麗事など言っていられない。
ふたつ……もしくはそれ以上の勢力が激しく、そして複雑にせめぎ合う国境に生きるのなら尚更だ。
そして、美濃遠山氏は、そんな、武田と織田に両属している己の特殊な立ち位置を存分に活用しようとした。
具体的には、武田と織田の外交の仲立ちを務める事で、自身の存在感と両家への影響力を増そうとしたのである。
遠山氏は、主に織田家側の強い意向を受けて、武田との和平同盟の締結に奔走し、秘密裏に政略結婚の打診もしていた。
その政略結婚で、武田信玄の四男・諏訪四郎勝頼に嫁がせようとしていた信長の養女とは、遠山氏の一支族・苗木遠山氏に嫁いだ織田信長の妹・琴が生んだ娘だった。
もし、この婚姻が成立したならば、遠山氏は武田家と実質的な親族関係を結ぶ事となる。
そうなれば、武田家中はもちろんの事、政略結婚の具として娘を“供出”した織田家中でも、その立場と存在感を大きく増す事が出来る。それを狙って、遠山氏は武田と織田の同盟交渉に奔走しており、昨年の半ばまでは順調に事が運んでいた。
――だが、
去年――永禄七年の夏、そんな状況は一変する。
きっかけは、武田信玄の発病と、その見舞いで甲斐を訪れた武田無人斎道有――信玄の父・武田信虎の急死だった。
その一件以降、それまでは織田家と接近し、今川家と距離を置こうとしていた信玄が、ガラリと外交路線を変更した。
数年前から不穏な空気を孕み始めていた今川家との関係を修復しようとする一方で、それまでは蜜月に近いやり取りをしていた織田家に対しては冷たい態度を取るようになり、信長が送った使者も、信玄との謁見は叶わぬまま、半ば追い立てられるように帰された。
永禄八年に入ってからは、その傾向は一層強くなり、武田側は織田家に対して露骨な対立姿勢を取るようになった。
もちろん、織田家と武田家との婚姻の話も立ち消えとなってしまい、そのせいで遠山氏の織田家中での立場は微妙なものになってしまう。
そして、去る二月頃、岩村遠山氏の当主・遠山景任は、信長からとある打診をされた。
景任と彼の妻との間には、子どもがいなかった。それに目を付けた信長は、彼に自分の子を養子にしたらどうだと言ってきたのだ。
――無論、打診という体裁だが、実際は拒否のできない“命令”だった。
信長からの“打診”に、景任は大いに悩んだ。
さも遠山家の事を気遣っているような物言いだが、信長の狙いが『自分の子を使った岩村遠山家の乗っ取り』である事は明白である。もしも、信長の子を養子に迎える事に応じたら、今度は当主である自身の排除を狙った策が実行に移されるに違いない。
……とはいえ、臣従している以上、主筋である織田家の当主の“打診”を断る事は赦されない。
(ならば、どうするべきか――)
信長から来る返事の催促をのらりくらりと躱しながら、景任は数ヶ月悩み続け、そして遂に決断する。
――それまでの両属状態から脱却し、織田家と決別した上で、西進せんとしている武田家にのみ仕え、その庇護を受ける事を。
本編にもある通り、永禄年間の美濃遠山氏は、武田家と織田家の両属関係を取っていました。
武田家が天文23年 (西暦1554年)に信濃伊那郡を制圧し、美濃と国境を接した際に、岩村遠山氏と苗木遠山氏は武田家に臣従しています。
その後、弘治2年 (西暦1556年)、岩村遠山氏の当主であった遠山景前が没した際に後継者争いが発生した際には、武田晴信が介入し、遠山景任の家督継承を支援しました。その際、岩村城に派遣されたのが、武田二十四将のひとり、秋山虎繁です。
一方の織田家は、婚姻関係を深める事で、遠山氏との絆を強くしました。
岩村城主遠山直任に織田信秀の娘……織田信長にとっては叔母に当たるおつやの方を嫁がせた他、信長は自分の妹を苗木城主遠山直廉に嫁がせて、遠山との誼を深めています。
遠山氏が領する東美濃は、東に武田・西に斎藤・南に織田と今川という強豪勢力に挟まれた地であり、臨機応変に優勢な勢力の下に乗り換えています。
これは、戦国の世では決して珍しい事でも卑怯な事でもなく、ある程度の独立性を残したまま生き残る為には必須の処世術でした。時代は下りますが、天正壬午の乱あたりの真田家が、その代表的な例でしょう。
また、強豪勢力側としても、このような在地領主の立ち回りは織り込み済みで付き合っていたと思われます。